第16話②


「うーん……」


とんとん、と和臣がシャーペンの尻で机を叩く。目の前のルーズリーフは、数分前から何も変わらず、真っ白なままだ。


和臣に呼び出され、家から自転車で二十分程の場所にあるカフェに俺は来ていた。


昨晩、急に和臣から電話がかかってきたので、何があったのかと思えば「暇だったらでいいから付き合って」とだけ言われ、翌日、理由も聞かされないままここへ来ると、和臣がこんな風にルーズリーフと睨み合っていたのだ。


日曜日の朝十時過ぎの、それも田舎町の半端な規模のショッピングモールの中にあるカフェには、俺と和臣以外に客なんかほとんどいない。


俺はしばらくの間、和臣がうなっている様子を見守っているだけだったが、店員がコーヒーを運んできたところで聞いてみる。


「で、和臣は何してるの?」


「んー、生配信に送るメールを考えてる」


「なまはいしん?」


「そうだよ、Vine☆girlの。毎週日曜の20時からやってるんだけどさ、初めてメール送ってみようと思って」


「へえ……」


和臣の口から、あの人達の名前が出てきて内心どきっとする。


つい昨日会っていたあの人達。こうして実際に活動している様子を聞くと、本来なら決して交わることのない人達なんだと改めて思う。


なんだか変な展開になってるんだなあ、とぼんやり考えていると、ふと疑問が生まれる。


「って、それって今送って間に合うのか?」


「いやむしろさ、ぎりぎりに送った方がメールボックスの上の方に来るから読まれやすいかなって」


「なんというか、姑息だな」


「賢いと言え」


「そんな賢い和臣さん、まだ一文字も書けてないですけど」


うるせえ、と和臣がシャーペンの先っぽで俺の右手の甲をちくりと刺す。はは、と俺は笑った。


それを見た和臣が半ば呆れながら言う。


「みずきも考えてくれよ。そのために呼び出したんだから」


「そうだったのか?」


「なんか考えごととかするのは、みずきの方が得意じゃん」


「どうだろ」


俺はまだ少し熱いコーヒーを一口飲み、和臣がシャーペンの芯で刺した右手の甲を撫でる。


和臣が好きなアイドルの番組に送るメールのネタ出しをする。


──こんなことくらいなら、俺も和臣にしてやれるだろうか。


俺は少しだけ前のめりになって、和臣に聞く。


「……メールって、テーマとかあるの?」


「んー、今回は『これだけは譲れないもの』だって」


「これだけは譲れないもの?……なんか難しいな」


「そうなんだよな。なんかぱっと浮かばないっていうか」


「意外。和臣ならどうせ小牧さんのことじゃないの?」


言ってから、今の言い方は少し棘があったかなと反省する。

結局、小牧さんにもバレバレだったわけだし、もう少し気を付けないと。


しかし、当の和臣はそんなことを気にする素振りもなく言った。


「なんか、それは違うんだよなー。譲れないも何も、別に俺のものじゃないし、小牧さん」


まあ、既婚者だしな、とそっと思う。


「みずきはそういうものないのか?」


「え?俺?」


和臣にそう聞かれて、俺は少し焦った。


一瞬、それは和臣のことだと思ってしまったからかもしれない。でもそれは打ち消す。


譲るとか譲らないとか、俺にそんな権限ないんだから。


じゃあ、俺の譲れないものは何なのかというと他に思いつかないのだが。


「……俺もわかんないな」


「だよな?あー、何書けばいいんだろ」


和臣がテーブルに突っ伏す。俺は椅子に背中を預けて、コーヒーカップの取っ手を指先で意味もなく擦る。


こんなことくらいでも、俺は和臣に何かできないのか。

それは少し悔しい。


もう少し考えてみる。


「……譲れないものってなんだろうな。プライドとか、意地とか?」


返事を期待するわけでもなく、独り言のように呟く。すると和臣が体を伏せたまま答える。


「……そういうとなんかかっこいいよなあ。俺にはそんなのないかも」


「諦めんなよ。今和臣のために考えてるんだから」


「ごめんって」


和臣がうんと軽く伸びをしてから姿勢を正す。そして、テーブルに転がしていたシャーペンを握り、ルーズリーフに向きあった。

俺は和臣の飲みかけのアイスティーが入ったグラスをそっとテーブルの端に寄せる。和臣がありがと、と言った。


それから、お互いに少し考え込む。


意地。


「意地か。意地って言うと難しいけど、こだわりみたいなもんなのかな……なくなったら困るものとか?」


「お、それいただき」


俺が何気なく口に出すと、和臣が今日初めてルーズリーフにペンを走らせた。少し前進だ。この流れを逃さないよう、俺は更に続ける。


「和臣には変なこだわりみたいなの、いっぱいあるじゃん。それ書いてみたらいいんじゃない?」


「変ってなんだよ。自分だとあんま意識しないからわかんないな」


「ほら、玉子かけごはんに白身しかかけないやつとか」


「それはもう最近やってないなー。大人になったら黄身も美味いってことに気づいたから」


「そんなに大人でもないじゃん」


こつん。今度はシャーペンの尻で肩を小突かれる。また俺が笑っていると、和臣が言った。


「他になんかない?」


「んー、和臣がなくなって困るものだったら……」


俺は昨晩のことを思い出した。そうだ。



「……それこそ、小牧さんとか、Vine☆girlはなくなったら困るんじゃない?」



和臣は俺が言ったことに驚いているのか、目をぱちくりさせている。


しまった、と俺は思った。


和臣よりも、口にした俺の方が驚いていたかもしれない。


例えもしもの話でも、和臣には言うつもりなかったのに。


思いついた瞬間から、和臣に聞いてみたいという衝動が抑えられなかった。


何故だかは分からないけれど。


しかし、言ってしまったものは仕方ない。

俺が何かフォローしようかと考えていると、和臣がぽつりと言った。


「……なんか、想像つかないな」


「想像つかない?」


「あー、うん。俺今まで、自分から飽きて追ってたものを離れることはあったけど、むこうからいなくなるっていうのは、あんまりなかったからさ……」


でもアイドルなら卒業とか解散とか珍しい話じゃないもんな、と和臣はぶつぶつと呟く。


俺は躊躇したが、勢いに任せて聞いてしまった。


「じゃ、じゃあさ、和臣は小牧さんが、もしも……引退とか、したら、どうする?」


「小牧さんが?……そうだなあ」


和臣がうーんと腕を組んで考えている。俺はじっと待つ。


しばらくして、和臣が口を開いた。


「……色々思うかもしれない、けど。でもなんていうか、幸せであってほしいって思うかな。だから──そっと応援する!」


「そっと応援するって?」


「だってもう会えないかもしれないし、直接応援できないかもしれないだろ?だから、陰ながらずっと念を送り続ける……みたいな」


俺は和臣らしいと思いながら、その答えにどこかもやもやする。

「本当にそんなこと思い続けられるわけないくせに」という嫌な声が頭を掠めた。


心の中で頭を振ってその声を追い出し、俺は和臣に問いかけた。


「……じゃあさ、和臣は小牧さんがアイドルじゃなくなっても、Vine☆girlを追うのか?」


言ってからちらりと和臣の顔を窺う。


和臣は俯き加減に眉を寄せて、じっと考え込んでいた。

ひょっとしたら今まで見たことがないくらい、その表情は真剣だったかもしれない。


しかしそれもほんの少しの間。


和臣はすぐに顔を上げ、清々しいくらい、にかっと笑ってこう言った。



「おー、もちろん。だって好きな人がずっと守ってきたものだろ?だったらそれも一緒に応援したい。好きな人とその周辺、全部。みんな幸せだといいよな」




──眩しい。


俺はやっぱり、和臣のその眩しさが好きだった。


そして羨ましかった。


今になって少しだけ、あの胸の痛みの理由が分かる。


俺は羨ましかったのだ。


和臣のまっすぐな『好き』が。


好きな人の幸せを心から願えることが。


好きな人に『好き』と言えることが。


俺にはできない、持ってない『それ』が、羨ましかったのだ。


俺もこんな風に和臣を好きでいられたらいいのに。


そう思わずにはいられなかった。



和臣が頭を掻いて、へへ、と笑いながら言う。


「まあ、やっぱりもっとアイドルしててほしいとは思っちゃうんだけどさ」


ていうか、なんか話逸れてないか?と和臣が言う。

俺は和臣にごめん、と言い、再びメールテーマのことに思考を切り替えようとして、気づいた。


──想像のできない未来に対する、人の感情はおそろしく鈍い。


きっと悲しくなるんだろうとか、辛いだろうなとか。


想像力を駆使して得るその痛みは、自分が『そうあるべきだ』と思う反応の例をなぞっているだけに過ぎない。


それでも、このときの和臣の瞳は、いずれ来るかもしれないその瞬間を、心から惜しんでいるように見えたのだった。






♪~


なこ:Vine☆girlの!

3人:生・びねらじお~


なこ:こんばんす~!


小牧・ユキ:こんばんは


なこ:ちょっと!どうしてこの前決めた挨拶しないのよ!


小牧:一応決めてはみましたが、普通にダサいなと思いまして


ユキ:えっと……いざとなったらちょっと、使いたくなくなったので


なこ:散々な言い方じゃない。もうちょっと自分達で決めたことに誇りを持ちなさいよ。そもそも誰の案なんだっけ?これ


小牧:ファンです


なこ:じゃあもっと使わないとダメでしょ。コメントでも怒ってるんじゃないかしら皆。どう?ユキ


ユキ:えっと……一番最新のコメントが『始まる前にシャワー浴びてくる』って来てます


なこ:配信開始前のコメントじゃないそれ!他に来てないの?


ユキ:すさまじくラグがあるだけだと信じたいです


なこ:……いいわ。もうさっそく『ふつおた』のコーナーにいきましょ


小牧:はい。普遍的でつまらないおたより……略して「ふつおた」のコーナーですね。

今夜はたくさんメールをいただいてますよ。こんなに来てます。

(机の下から厚み5cm程の紙の束を取り出す)


ユキ:うわあすごい。ほんとにこんなに来たんですか?


小牧:はい。時間の都合上読めるのは1、2通でしょうが……。


なこ:そうなの?せっかくだからもっと読みましょうよ(紙の束をぱらぱらとめくる)


小牧:……


なこ:って最初の二枚以外白紙じゃない!どうせ中身は映らないからって、水増ししたわけ?!


小牧:白紙じゃないのもありますよ。ほらこの「警告:あなたのアカウント情報が漏れています」っていうメールとか


なこ:迷惑メールでしょそれ


ユキ:水増ししたところで、この視聴者数じゃこんなにメールが来てないのは明らかだと思いますけど……


小牧:それもそうですね


なこ:あー、もう!自虐はこの辺でストップ!とりあえずその二通だけでもちゃんと読みましょ。一人でもファン、百人でもファン。でしょ?


小牧:なかなかいい言葉を知ってますね。一体誰が言ったんでしょう?


なこ:さあね。じゃあユキ、一通目読んでくれる?


ユキ:はい。ラジオネーム『ゆきだるま』さん。……ありがとうございます。


『Vine☆girlの皆さんこんばんす!』はい。こんばんは。


『いつも番組楽しみにしております。

今回のメールテーマは「これだけは譲れないもの」だそうですが、私はトイレで大をする時に服を全て脱がないと気が済みません。外ではさすがにしていませんが、家では必ずします。

以前、家族にこの話をしたところドン引きされましたが、脱がないと出ないのでやめられません。もはやジンクスです。

Vine☆girlの皆さんはトイレの中でのルーティンとかって何かありますか?是非お聞きしたいです。』



小牧:なるほど、これはいい普遍的でつまらないおたより……「ふつおた」ですね。よく書けてますよ、ユキ。


ユキ:あ、はい。ありがとうございます。


なこ:サクラだったこともショックだし、全然普遍的じゃないし、ユキのこだわりにも衝撃を受けているわ、私


小牧:昨晩の時点であまりにもメールが来てなくてつい。ユキにお願いしてしまいました。


ユキ:すみません。これ嘘なので信じないでください。私じゃなくて兄のこだわりです


なこ:それはそれでなんだかすごく嫌ね


小牧:一応、トイレルーティンの話もしますか?何かあります?ちなみに私はトイレにスマホを持ち込む人が嫌いです


ユキ:入りたいのにトイレに鍵がかかってる時、中から明らかにゲームの音がすると、イラっとしますよね。あと、トイレットペーパーを薄皮一枚くらいしか残ってないのに取り替えない人も嫌いです


なこ:わかるわあ~……って、なんでちょっとトイレトーク弾んでるのよ。もう次行くわよ?次は小牧ね。言っとくけど、サクラのやつはダメよ!


小牧:はい。えー……ラジオネーム『かずお』さん。ありがとうございます。


『Vine☆girlの皆さんこんばんす!』はい。こんばんは


なこ:さっきから思ってたけど、挨拶ちゃんと返してあげたら?


小牧:嫌です。……続き、読みますね?


『ラジオいつも楽しく拝聴しております。

この前初めて皆さんのイベントに参加させていただいたのもあり、初めてメールを送ってみました。


今週のテーマは「これだけは譲れないもの」ですが、自分の譲れないもの、それは「オタクであること」です。


僕は今まで色々なコンテンツを好きになり追いかけてきた、自他ともに認めるオタクです。人生の中で何も追いかけていなかった時期はないのではないかと思うくらいずっとオタクでした。


そして何かを好きになる度に、これを好きでなくなった自分の姿は思い浮かばない程夢中になってきたつもりです。

しかし、今まで好きになったもののほとんどから、僕は今現在離れています。


僕にとって大事なことは、追いかけてきたものをずっと好きであるということよりも、ただ何かの「オタク」であり続けることなのかもしれません。だからこれが僕にとっての譲れないことなんだなと思いました。


そんな僕にもずっと好きでいたいと思うものができました。


それがVine☆girlであり、最推しの小牧さんです。


今までのことを思うと、僕の人生のなかでVine☆girlと小牧さんを追いかけている時間はやっぱり今この時だけで、いつか離れてしまうのかもしれない……という不安は正直あります。


だけど今僕は皆さんの存在に毎日本気でワクワクして、生きる力を貰っています。

先のことは分からないけれど、今はっきりと感じる『好き』を僕は大事にしたいし、目一杯楽しみたいです。


だから今の僕の「譲れないもの」は「Vine☆girlと小牧さんのオタクであること」です。


長文乱文すみません。またイベントがあったらぜひ参加したいです。ありがとうございました。これからも応援しています。』


なこ:小牧


小牧:はい?


なこ:これもあんたが書いたの?


小牧:まさか。これを自作自演するくらいなら『メール一通も来ませんでした~てへぺろ』って謝った方がマシです


なこ:それを聞いて安心したわ


ユキ:すごく……あったかいメールですね。私達をこんな風に思ってくださる方がいるなんて


なこ:……そうね。まあ、小牧推しっていうのは気に入らないけど。あんたはこれ読んでどう思うのよ。自分のファンでしょ?


小牧:嬉しいですよ。ありがとうございます、かずおさん


なこ:もっと他になんかないの?


小牧:ありませんよ。嬉しい。この一言に尽きます。いくつになっても、どんな時でも、『好き』と言われたら、嬉しいです。自分を肯定してくれる──他人に言われることで、これほど価値のある言葉も他にありませんから。だから、なこ。


なこ:何よ?



小牧:私はなこのこと、好きですよ



なこ:は?はあ……?


小牧:もちろん、ユキのことも好きです


ユキ:あ、ありがとうございます。……あれ、なこさん?(なこの顔を覗き込む)


なこ:はああ……?


ユキ:大丈夫ですか?なんだかちょっと顔が赤いですけど


小牧:照れてるんですか?


なこ:ち、ちが……違うわよ!


小牧:可愛いですね


なこ:な、何よ!もう急に変なこと言って、仲良い営業ってわけ!?


小牧:まあそれも多少は……あるということにしておきましょうか?


なこ:多少じゃないでしょ、100%営業よ!営業!もう……次!次のコーナーいくわよ!ユキ


ユキ:あ、はい。えっと次は……(台本をめくる)


『Vine☆girlのタマ王は私だ!』のコーナーです。

このコーナーは、毎週『タマ』にまつわるゲームで対戦し、最終的に最も勝利数の多いメンバーには『タマキング』の称号が与えられるという企画です。

タマ王──すなわち『タマキン』目指して今日も頑張りましょう!


……と台本に書いてあります


なこ:いつ聞いても最低のコーナーね








「みずき君の方から連絡をくれるとは思いませんでした」



ある日の昼。俺と小牧さんはとあるビルの屋上に来ていた。


とあるビルとはVine☆girlの事務所があるビルだ。

家の最寄り駅から電車で約1時間。都内にあるそのビルは、都会の洗練された建築物なんかではなく、他の高層ビルの影の中にひっそりと建っているような小さなビルだ。


屋上に出ても、真っ先に目に入るのは周囲の巨大なビル群ばかりだが、まっすぐ上を見上げれば雲一つない青空が広がっている。


時折吹く強い風が、俺と小牧さんの髪をかき乱す。


俺は貰った名刺に載っていた連絡先にかけ、こうして小牧さんと会うことになった。


目的は──伝えたいことがあったから。



「……この前の配信、見ました」


「それはありがとうございます。どうでしたか?」


「……ひどかったですね」


「はは。正直ですね」


「メールも全然きてないし、サクラは平気でするし、企画もひどいし……視聴者も、全然いないし」


「そうですね」


「小牧さんみたいな人がいるから、もっと上手くいってるのかなって思ってました」


「それだけで上手くいけば苦労しません」


小牧さんが俺ににこりと微笑んだ。風が、俺と小牧さんの頭の上を掠めていく。


「……配信の後、友達が……和臣が電話かけてきたんです。俺のメール読まれた!って、すげーテンション高くて」


小牧さんは黙って俺の話に耳を傾けている。俺は下ろした拳をぐっと握って言った。


「小牧さんが俺のメール読んでくれたし、配信も面白かったなって。和臣には言わなかったけど、俺は全然そう思えなかった。でも、和臣は本気で楽しかったって、やっぱりVine☆girlも小牧さんも好きだって言ったんです」


「……そうですか」


「小牧さん、本当にアイドル辞めるんですか?」


「はい」


小牧さんははっきりと言った。何の迷いも感じさせない。


「理由については以前も申し上げた通りですが。それ以上に、私はもうアイドルを名乗るのは限界があると感じています。だからこそずっと自分のことを『代打』と言ってきましたし、たとえ代わりが見つからなくとも──私はもうその座を降りるべきなのだと思います」


「和臣が……ファンがいるのにですか?」


「彼らにとっても良い機会ではないかと思います。私のような紛い物にいつまでも執着するべきではないです」


「和臣はあなたを紛い物だなんて思ってないです。何も知らないからだとあなたは思うかもしれませんが、それでもあなたは──ファンの、和臣の前では本物なんです」


「みずき君」


俺の少し前に立っていた小牧さんがゆっくり近づいてくる。


「私にアイドルを続けさせるために呼んだのですか?」


俺は下を向きそうになる。だけど、今はだめだ。もう少し頑張らないと。

自分の中の弱気を吹き飛ばすように首を振ってから、俺は答える。


「それも、ありました」


「それだけじゃないんですね?」


俺はこくりと頷いてから、口を開く。


「小牧さんは……どうして、俺をVine☆girlに誘おうと思ったんですか?本当に俺が、和臣から小牧さんを奪うために引き受けると思ったからなんですか?」


小牧さんは「なるほど」と笑ってから、俺の目を見据えて言った。


「そうですね……本音を言うと、あなたならVine☆girlであることにこだわってくれそうだからです」


「俺が?」


「ええ。……アイドルになりたいという人はいくらでもいます。技術的な面等を考慮すれば、あなたより相応しい人材もいるでしょう。ですが、『Vine☆girl』であることにこだわる人は、そうはいません。私の後を頼むのは『アイドルであることにこだわる人間』ではなく、『このグループでアイドルをすることにこだわる人間』がよかったんです。理由は何であったとしても、ね」


「俺が『Vine☆girl』であることに、こだわると思うんですか?」


「それは私に聞かずとも分かるのではないですか、みずき君。もしも、あなたがアイドルになるというなら、それはこのグループ以外ではありえないことでしょう?」


「Vine☆girlでだって十分ありえないですよ。俺が入ったってしょうがないっていうか。場違いっていうか……。これは俺が首を突っ込むようなことじゃないんです、そもそも。だけど」


ひときわ強い向かい風が正面から顔に吹きつけてくる。目を閉じてしまいそうになったがぐっとこらえて、続ける。


「和臣、言ってたんです。もしも小牧さんがアイドルを辞めてもVine☆girlを応援したいって。好きな人がずっと守ってきたものだから、自分も一緒に応援したいって。小牧さんと、その周辺が全部幸せになったらいいよなって」


俺は体の奥から絞り出すように吐露する。


「俺はそれが羨ましかった。そんな風に好きな人の幸せを、自分のことみたいに応援できる──まっすぐな和臣が眩しくて、羨ましい。例え直接好きって言えなくても、せめて、その幸せを願っていたいって」


大きく息を吸ってから、俺は言った。


「俺もそうなりたいって……思ったんです。」


どこかから飛んできたビニール袋がコンクリートを擦る。


かさりという音がやけに大きく響いて、ビルの足元を走る車の存在も、風も別世界のもののように感じられるくらい、俺と小牧さんの周辺は静かになった。


急にその静寂が恥ずかしく思えて、俺は慌て付け足す。


「いやその、俺にもできることがほんとにもしも、少しでもあるなら……何かしたいってだけで。何もしないで、ただ好きでいるってことに罪悪感があるだけなんですけど」


「理由は何でも構わないと言ったはずです」


小牧さんが俺に向かって手を差し出す。



「やってみませんか」



胸がばくばくと鳴っている。


馬鹿みたいだ。好きな人の『推し』が脱退してしまうので、代わりに自分がグループに入ってアイドルになって、そのグループのために協力するなんて。頭の悪い夢でも見ているようだ。しかし、これは俺の現実に起きていることだ。


正気じゃない。思い上がりも甚だしい。


本気で、自分がグループを救えると思ってるのかなんて。分かってる。


だけど、こんな馬鹿な提案でも……俺は縋りたかった。


『俺でも和臣にしてやれることがある』という可能性に縋りたかった。


まだ、好きな人の幸せを願えるって、思いたかった。


「誰かに期待される」ということは、とてつもないパワーを生むと思う。


できないはずのことでさえ、もしかしたらと思えてしまうのだから。


この手を取って何かやってみたいと、思えてしまうのだから。


──理由は何でも構わない。


あのアイドルが言ったことを思い出す。


『好きという気持ちは人をどこかへ連れて行く』


長く留まっていた俺の中の『好き』は、ようやくどこかに向かって歩み始める。


俺は小牧さんが差し伸べたその手を取った。




〈第一章 完〉

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