第16話(前編)

「みずき君、『推しより好きと言ってほしい』と思いませんか?」


小牧さんはそう言った。その瞳はまっすぐに俺の目の奥を捉え、俺を逃がすまいとしているようだ。


どう答えれば、この場を切り抜けることができるのか分からない。

こういう時はとりあえず口を開いてお決まりの返答をする。


「……どういうことですか?」


「そのままの意味です。今はただこの質問に答えてください。みずき君の思う通りに」


すげなくそう言い返され、俺は黙る。このまま黙っていたら、小牧さんの方から話を進めてくれないかと期待したが、どうもそのつもりはないらしい。小牧さんは柔らかく笑みを浮かべて、俺が答えるのをいつまでも待つつもりだ。


それにきっとどんな建前もこの人には通じない。


俺はそう感じながら答えた。


「……そ、そんなこと思えません」


「なるほど。やはりみずき君には『推し』に取られてしまった好きな人がいるんですね」


「誘導尋問じゃないですか!」


「はは」


俺の抵抗を軽く流し、小牧さんは「まあ、いいでしょう」と言って続ける。


「先程みずき君にお願いしたいことがあると言いましたね」


「……はい」



「みずき君にVine☆girlに入ってほしいんです。私の後任として」



「は……はあ?」







「ちょっと待って……いろいろ、整理させてください」


「どうぞ」


無茶苦茶な展開に俺は思わず頭を掻く。しかし、この混沌の渦の中心である小牧さんは笑みを崩さない。側で聞いているなこさんにいたっては黙々とオムライスを食べている。話についていけていないのは俺だけなのだろうか。


「えっと……Vine☆girlに入るっていうのは、アイドルになるっていうことですか?」


「そうですね」


「小牧さんの後任っていうことはその、小牧さんは」


「辞めます」


その答えに二の句が継げないでいると、小牧さんはもう一度ゆっくり、言い直した。



「私、アイドルを辞めるんです」



思わず、俺はなこさんの顔を見てしまった。なこさんは相変わらずかちゃかちゃとスプーンを動かしていたが、俺の視線に気がつくとティッシュで口元を軽く拭いてから言った。


「ん、知ってるわよ。最近聞かされたばっかりだけど。いい加減マネージャーに専念するべきだと思うって」


「後任を俺にしたいっていうのも?」


「それはここに来る前に知ったばっかりだけどね」


「いいんですか?それで」


「私はいいと思うわよ、みずきのこと」


そう言うと、なこさんはまた食事に戻ってしまう。


今度は小牧さんの顔を見た。もぐもぐとオムライスを頬張っている。

俺と目が合うと、ティッシュで口を拭ってからにこりと微笑んだ。

俺は小牧さんに聞く。


「や、辞めるってファンの人達は知ってるんですか?」


「まだ知らないと思います。言ってませんから」


とんでもないことを聞かされてしまった。


俺は頭を抱える。和臣が知ったらどんなに驚くだろう。


しかし、当の小牧さんが何事もなかったかのように「聞きたいことはそれだけですか?」と言ったので、俺は首を横に振る。肝心なことをまだ聞いていない。


「な、なんで俺を小牧さんの後任に……?」


「適任だと思ったからです」


「えっと、どこが?」


「みずき君」


かちゃ、とスプーンを皿の上に置き、小牧さんが少し身を乗り出してくる。


「先程あなたに質問した時、『そんなこと思えない』と答えましたね。何故ですか?」


俺は小牧さんに気圧され、後ずさる。


だが、その質問の答えは分かりきっていた。だってその答えは、今日のような日に限らず、ずっと前から何度も自分に言い聞かせてきたことだ。俺は下を向いて、体の奥底から絞り出すように言った。


「だってそんなの、わがままじゃないですか」


「そうでしょうか?」


思い切って答えたつもりがあっさりと返されてしまい、拍子抜けする。

俺は顔を上げて小牧さんを見た。その表情は相変わらず穏やかで、余裕があるように見える。


「みずき君だけが自分の欲求を押し殺して、誰かの欲求を優先しなければならない理由はないでしょう?」


小牧さんはテーブルに肘をつき、顔の前で手を組んでこう言った。


「『推しより好きと言ってほしい』……嫉妬は欲求から生まれます。欲求はコントロールしなければなりませんが、そもそも欲求とは体がそれを必要として求めているものです。欲求をコントロールするというのは無理に抑えることではなく、むしろ適切に処理することだと思いませんか?」


「適切に……?」


小牧さんが頷く。


「はい。みずき君が抑えているその『嫉妬』も、それ自体は悪いものではありません。ですからそれを―私に利用させてほしいんです」


俺は小牧さんの言いたいことが分からず聞いた。


「それがその、さっきの話とどう関係があるんですか?」


「私がアイドルを辞めます。そして、みずき君が後任としてVine☆girlに入ります。私はマネージャーに専念できて、みずき君は私から好きな人を取り返せます。つまりWin-Winということです」


「ぜ、全然そうは思えません」


小牧さんが首を傾げる。俺は膝の上で拳を握りしめて言った。


「できる、できないはともかくとして。それって、俺がもし『はい』って返事したら、小牧さんが辞めちゃうってことですよね?俺が嫉妬しているのが事実でも、小牧さんがそれを肯定してくれても、でも……俺は和臣や誰かから何かを奪うような選択は、もうしたくないです」


言ってからしまったと思った。小牧さんの前で和臣の名前を口にしてしまった。

しかし小牧さんはあえてそれには触れず、言った。


「誤解を与えてしまったようですね。私はみずき君がこの話を受ける、受けないに関わらずアイドルを辞めるつもりです」


「……どうしてアイドルを辞めるんですか?」


小牧さんが目を細める。まるで何か懐かしいものでも見たかのように。

けれどそれはほんの一瞬で、すぐにまたいつもの笑顔に戻る。

そして、こう言った。



「私、既婚者なんです。それにもうすぐ一児の母になりますから」






三度目の衝撃だった。


その瞬間、がしゃん!と皿が割れる音がする。

音の主はいつの間にか食事を終え、キッチンで自分の皿を洗っていたなこさんだ。


なこさんは水道の蛇口をキュッと締めて、ばたばたと居間に戻ってくると叫んだ。


「ちょ、ちょっと小牧!!い、一児の母って……何よそれ!ほんとに初めて聞いたんだけど!」


「あ、ごめんなさい。『一児の母』は言いすぎました。ただの個人的な願望―ライフプランです。今はまだ計画の段階ですから


「……あんたってほんと嫌な奴ね」


なこさんが小牧さんを睨むが、小牧さんは悪びれもせず、相変わらずにこやかだ。そのうち、やれやれといった様子でなこさんはキッチンに戻っていく。


俺はおずおずと小牧さんに尋ねる。


「き、既婚者で、母って―こ、小牧さんって女性、なんですか……?」


「ええ。色々あってこのような格好をしてますが」


小牧さんがスーツのジャケットを軽くつまむ。小牧さんが着ているのは明らかに男性用のスーツだが、見事に着こなしているように見える。小牧さんは顔立ちも中性的だし、言われなければまあ男性だと思ってしまうだろう。


「バレたりとかしないんですか?」


「特に隠しているわけではありませんが、意外とバレませんね。関係者以外で話したのはみずき君が初めてです」


またしてもとんでもないことを聞かされてしまった。


引退、実は女性、既婚、一児の母(予定)、ファンでもない人間が一人で抱えるにはあまりにも濃いニュースばかりだ。貴之がお土産に持ってきた本にだってきっと負けない。


俺が再び頭を抱えていると小牧さんが言った。


「というわけなんです。みずき君の意思と私の進退は一切関係ないので、是非前向きに検討してもらえませんか?Vine☆girlに入ることを」


「いや、できません……。そんなこと言われても」


「できないことは承知しています。その上でみずき君がいいと思ってお願いしているんです」


小牧さんにじっと見つめられる。こんな重いお願い事でなければきっとすぐに頷いてしまうだろう。逃げだしたい。どうにか諦めてくれないだろうか。俺はとにかく何か言って抵抗を試みる。


「わ、分かりません。なんで俺なのかも、俺が入ったところで何になるのかも……」


「ですから―」


「はい、すとーっぷ」


突然割って入ってきたその声に顔を上げると、なこさんが仁王立ちで立っていた。

洗い物を終えて戻ってきたらしい。

小牧さんがなこさんに言う。


「何故止めるんですか?なこ。もう一押しだと思いますが?」


「全然押せてないわよ。さっきから話が進んでないし。それに私の特製オムライスが冷めてもったいないじゃない」


貸して、となこさんが俺と小牧さんの皿を一度下げる。それをレンジで数十秒ほど温めてから再びテーブルに持ってきた。


「はい。今日はもうこのくらいにして、いい加減ちゃんと食べるのよ?」


「……はい」


「いい返事ね。小牧は?」


「最後にひとつだけいいですか?」


「……?」


なこさんに従ってスプーンを持とうとした俺を小牧さんが制止する。

何をするのかと思っていると、小牧さんは正座のまま、すっと一歩下がる。


それから両手を膝の前に置いて、俺に深々と―頭を下げてこう言った。



「私達に力を貸してください。あなたの好きな人の、好きなものを助けてください」



土下座だった。

大の大人がこんな風に頭を下げているところを見るのも、他人に頭を下げられるのも、俺は初めてだった。その光景は少し気味が悪い程、異様だ。


「な、何してるんですか……!そんな―」


俺が狼狽えていると小牧さんはゆっくりと頭を上げる。俺と目が合うとにこ、と笑って言った。


「なんてね」


そして、何事もなかったかのように小牧さんはオムライスを食べ始めた。


俺はもうこの状況をどう処理していいのか分からないまま、諦めてオムライスに向き直り、ケチャップで描かれたハートをスプーンでぐずぐずに崩して卵に塗り広げる。


それからは俺も小牧さんも黙々とオムライスを口に運んでいた。









食後、なこさんと小牧さんから「今日はこの辺で」と解放された俺は自分の部屋に戻り、隅に畳んでおいた布団に飛び込む。


どっと疲れた。


俺は小牧さんに貰った名刺を掲げ、蛍光灯の光に透かしてみる。


『推しより好きと言ってほしいと思いませんか?』


そんなこと全然思わない。思わないし、思う資格がないんだ。俺には。小牧さんはもちろん知らないだろうけど。


結城ひなたにしたことを思えば。


欲求のコントロール。俺はそれができなかった。だからあんなことをした。


適切な欲求の処理なんてどうしたらできたんだろう?俺も結城に『和臣が好きだ』と打ち明ければよかったのだろうか?そうしたら結城は和臣に告白しようとしなかったのだろうか?


いずれにしても全ては過去のことだった。


俺は自分の欲求によって結城からも、そしてひょっとしたら和臣からも可能性を奪ったのだ。



『私達に力を貸してください。あなたの好きな人の、好きなものを助けてください』



「できないだろ、俺にそんなこと……」



第一、和臣はそんなことを望むだろうか。


小牧さんが抜けて、Vine☆girlが2人になったら、和臣はきっともうVine☆girlに関心を持たない。関係ないのだ。彼らがどうなろうと、和臣にも、俺にも関係ない。



『うん、小牧さん。俺の『推し』なんだ』



あんなにきらきらと目を輝かせていた和臣を思うと、それは少し、寂しい気もするけれど。


俺は目を閉じた。昨夜から色々なことを考えすぎていると思う。


考えすぎなときはどうしたらいいんだっけ。


いつか、和臣が教えてくれたはずだ。何だったかな。


ぶっ、ぶっ、ぶっ。


突然、床に置いたスマートフォンが規則的に振動した。

誰かからの着信があることを知らせるその音は、俺の思考を遮る。


だらりと投げ出していた左手でおもむろにスマホを拾いあげて、ディスプレイを見る。



また誰かのことを期待しながら。



そして、その期待は珍しく裏切られなかった。


発信者は和臣だったのだ。

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