卵が割れた ①
チャイムが鳴り、授業が終わった。
開いた教科書とノートをまとめ、談笑するクラスメイト達を背に、俺は足早に理科室を出た。
管理棟の渡り廊下を抜けて、教室棟の四階にある自分の教室に向かう。
まだ誰も帰ってきていない教室のドアを開け、黒板を背にして一番左側の列の、一番前の席に座る。そして、机にしがみつくように伏せて寝たふりをした。
この机は俺にとって、教室で唯一の居場所だった。
一度誰かに取られたら最後、次の授業が始まるまで、俺は広く、そして狭い教室という宇宙に一人、行き場もなく放り出されてしまう。
だからこそ、みっともなくても死守しなければならなかった。
しばらくすると、クラスメイト達が教室に戻ってきた。
ドアを入ってすぐのこの席で、いつものように寝たふりをする俺の存在は嫌でも彼らの視界に入る。
彼らはどう思うのだろう。
いや、何とも思わないのかもしれないし、何とも思ってないから俺は今一人なんだと思う。
彼らにとって俺は空気と大差ない。
けれど、俺は確かに存在しているし、彼らの視界にはどうしたって入っていて。人間は視界に入ったものに対して何らかを思考する。
俺はその「彼らが俺について思考する気配」が恐ろしくてたまらなかった。
心の声が聞こえてくるわけではないのに。
〇
『あ、
『うわ、つまんな』
忘れもしない、1ヶ月前。
中学校に入学してすぐのことだ。このクラスでした一番最初の自己紹介。
俺が自己紹介を言い終えた後、誰が言ったのか分からないが、その言葉と、後に続く……くすくすという笑い声は確かに聞こえた。
元々自分のことを話すのは得意じゃなかった。名前以外になんて自分のことを紹介すればいいのか分からなかった。まあ、最初の自己紹介で少しばかり気取りたかったのも否定はできない、けど。
そのほんのちょっとの見栄が命取りだったのだ。
おかげでここまでやっと抱えてきた、ちょっとした自尊心が、あの言葉のひと息で吹き飛んでしまった。
正直に言って、俺はかなり傷ついたし、苦しくなった。クラスメイトのことも怖くなった。
だけど悪いのはその誰かじゃない、俺がいけなかった。
俺がつまらなくて価値のない人間なのが悪いのだ。誰かがたまたま声を上げてそう言っただけで、皆俺をそう思っているのだ。
おかしいのは俺だ。そう思おうとした。
そう思わないと、自分のつまらなさを棚に上げて、被害者ぶろうとする自分がひどく情けなく見えるからだ。
結局のところ、俺はまた見栄を張っている。誰が見ているわけでもないのに、誰かの視線を常に恐れているのだ。
俺はいっそ、いなくなりたかった。クラスにとってもその方がいいんじゃないかとさえ思えた。しかし、それはできなかった。
ここにいるのはとても恐ろしいし、息が詰まる。でも、いなくなるのも簡単じゃないのだ。
俺はここでは一人だが、家に帰れば父も母も姉もいる。自分の弱いところを見せたくなかった。
じっと机に伏せて、できるだけ耳をふさぐ。クラスメイト達の声が何もかも聞こえなくなるように。
だけど、どれだけふさいでも、むしろ声が耳に入ってくるようで、耳から入ってきた音を言葉として認識するのが怖い。
何の抵抗にもならないが、目をぎゅっと閉じる。
このまま本当に眠れたらいいのにと思った。
◯
昼休みのことだった。
俺がトイレから戻ってくると、教室の俺の席はクラスメイト数人に占拠されてしまっていた。
俺の一つ後ろの席に座っている奴を中心に会話の輪ができている。
俺は教室に入ってすぐにその光景を目にし、絶望的な気持ちになった。ドア横の席に配置されてしまう己の出席番号が憎い。壁にかかった時計を見る。
13時5分。
五時間目の開始まであと三十分もある。俺はどうしたらいいのだろう。
こういうことがあるから、休み時間に自分の席を立ってはいけないのだ。
教室での唯一の居場所を失うくらいなら、トイレに行かず漏らした方がマシだったのではないかとすら思えた。
図書室にでも行くか?
でも授業に間に合うように図書室を出て、また教室に戻ってきた時に自分の席が空いている保証はない。
結局遅かれ早かれ、俺は教室でどうにもできず立ち尽くすことになる。
そうしたら今度は、ボーっとつっ立ってて気持ち悪い奴だと思われるのだろうか。
どうしたらいい。どうしたらいい。
思考すればするほど、吐き気が込み上げてきそうになった。ここで本当に吐いて倒れることができたら、もうここにいなくて済むのに。
とにかく一度教室を出よう。もう一度トイレにでも行って、そう思った時、突然背後から話しかけられた。
「芦原もそう思うよな?」
体がびくり、となるのを感じる。「芦原」というのが自分の名字を呼ばれているのだと認識するのにほんの少し時間がかかった。
「……あ、えっと」
しかし、その質問が自分に投げかけられたものだと認識できても、何と言ったらいいのか分からず、声の主の方を振り向くのが精一杯だった。
声の主は、俺の一つ後ろの席の奴、つまり出席番号2番。名前は確か……
「急に芦原に絡むなよ、困ってるだろ」
「気にすんなよ、芦原。行っていいぞ」
伊瀬の取り巻き二人が、俺を助けるつもりなのか、それとも単に会話の邪魔だからか、そう言う。(もし助けるつもりだったなら、その内一人は俺の席を返してほしかった。)
しかし、伊瀬は「いやいや」と言って俺を解放しようとしない。
「もうこのクラスで俺を理解できるかもしれないのは、芦原しか残されてないんだって」
「……な、何のこと?」
俺は伊瀬達に聞こえたかどうか分からないくらい小さな声でやっと言った。
すると伊瀬は自分の席から立ち上がって、俺に近づいてくる。
俺は思わず一歩下がって伊瀬と距離をとろうとするが、伊瀬は気にしない。それどころか俺の両肩をがっしり掴んできて、そしてこう言った。
「卵かけご飯は白身だけかけて食った方が美味いよな?」
「は?……えっと、な、何それ」
学校で他人と会話するなんていつぶりだろう。ひどく喉が渇き、声が掠れてしまう。逃げたい。
しかし、伊瀬は俺がしどろもどろになっているのも気にせず、掴んだ肩を離す気配もない。伊瀬はまた質問を繰り返した。
「卵は黄身なんかより白身の方がずっと美味いよなってことだよ」
「い、いやよく分かんないし……卵とかどうでもいいっていうか」
「うん?」
「つ、つまんない話してんな」
俺の言葉に伊瀬は目をぱちくりさせている。
俺は言ってから、しまったと思った。
自席を占拠され、馴れ馴れしくされた上にくだらない話に巻き込まれたことへの苛立ちが、正直あったのかもしれない。
だけど俺自身が、まさかこんなことを言ってしまうなんて。
俺は恐る恐る伊瀬の顔を伺う。
「はは……あはは……」
突然、伊瀬は笑いだした。
取り巻き達も何がそんなに面白いのか分かっていないようだった。もちろん俺も分からない。
ひどいことを言ったつもりなのに。
「……はは、すげえなあ」
伊瀬はひとり笑いながら、俺の肩を片手でポンと叩く。そしてこう言った。
「芦原って面白いヤツだな」
これが伊瀬こと──
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