第10話



深夜のことだった。

俺は眠る気になれず、コンビニにでも行こうと部屋を出た。


アパートの階段を下りる途中、人とすれ違った。大きめのバッグを肩から提げた20代くらいの髪の長い小柄な女性。帽子を目深に被り、マスクをしていたので顔はよく分からなかったが、急ぎ足で階段を登っていく姿が妙に印象に残った。


──あんな人、このアパートに住んでたかな。


すれ違った隣人かも知れぬその人のことをぼんやり考えながら、俺はアパートから歩いて数分程のコンビニに行き、適当に飲み物を買って、また自分の部屋の前まで戻ってきた。


すると、俺の隣の部屋の前で、先程すれ違ったあの人がいたのだ。


隣人だったのかと思いつつ、なんとなく見ていると、彼女は持っていたバッグをかなり焦った様子でまさぐっている。やがて、何かを悟ったようにピタリとその動きを止めた。


呆然と顔を上げた彼女と目が合う。

俺に一連の流れを見られていたとは思わなかったようで、彼女は目をぱちくりさせる。


勝手に見ておきながら、何と言ったら、どうしたらいいのか分からず、互いに見合ったまま時間だけが流れていく。無視してさっさと部屋に入ればよかったと今になって後悔した。


しばし続く沈黙。


「……あの、どうかしましたか?」


ついに、俺は彼女に話しかけてしまった。

彼女は気まずそうに俺から顔を逸らし、はあ、とため息をついて言った。


「……じ、か、会社に家の鍵を置いてきちゃったみたいで」


「あ……大変ですね」


「はあ……駅前の漫喫にでも行こうかしら」


「いや、あそこちょっと前に潰れてましたよ」


「ほんとクソ田舎ね」


腰に手をあてて苛立った様子の彼女。


今更だが、ふと気になって隣の部屋の表札を見るとそこには「那須野」と書かれていた。読みはたぶん、「なすの」だろう。


彼女、改め「那須野」さんは、諦めたようにドアを背に座り込み、バッグから取り出したスマホをいじっている。


俺がそんな那須野さんを見ていることに気づくと、那須野さんもまたちらりと俺の部屋の表札を見て言った。


「あんた……あし、はらさん?何か分かんないけど、気にしてくれてありがと。私は適当にするから早く部屋はい……」


那須野さんは俺の顔を見て突然止まる。

そして、思いついたようにバッと立ち上がって言った。


「あしはらさん、よかったら私を泊めてよ」






しゃぁぁぁぁ。


狭いワンルームに響くシャワー音に俺は頭を抱えていた。


結論から言うと、俺は那須野さんを泊めることになった。


俺の中で秤にかけた結果、初対面の人間を部屋に上げるリスクよりも、他人のお願いを断ることへの恐れの方が勝ってしまったのだ。


それどころか部屋に入るなり彼女に「シャワー借して」と言われ、やはり断ることがず、流れに身を任せて今に至っている。


しかし、俺も那須野さんも不用心すぎると思う。


いや、こんな時間に若い女性が外にいるのも危なかったかもしれないけど、若い男性がよく知らない隣人女性を部屋に上げて泊めるのだって危ないかもしれないのだ。


「今更外に放り出すわけにはいかないしなあ……」


「かわいい顔して物騒なこと言うわね」


振り返ると、タオルを肩にかけ、Tシャツとジャージに着がえた那須野さんが立っていた。

ちなみに彼女が今身に着けている物は全て那須野さんのものだ。那須野さんは何故か着替えをたくさん持っていた。謎だ。


俺が突然の返答に戸惑っていると、那須野さんに「口に出てたわよ」と言われる。


那須野さんはローテーブルを挟んで、俺の正面に腰を下ろす。

さっきまではマスクで顔を隠していたし、外が暗かったから分からなかったけど、改めて見ると、那須野さんは綺麗な人だと思う。


隣人という以外何も分からない、得体の知れない美人。彼女は何者なのか。


妙に緊張してきてしまい、那須野さんから視線を外す。すると、ねえ、と那須野さんに話しかけられる。


「私は別にあしはらさんに危害を加えたり、襲ったりしないから大丈夫よ」


「それはその。はい、分かってます」


俺はしどろもどろになりながらやっと答える。これじゃ、この前の握手会の時の和臣みたいだ。俺も他人ひとのことは言えない。


というか、この後どうしたらいいんだろう。「じゃあ寝ましょうか」とでも言えばいいんだろうか。俺にそんな気は一切ないが、なんかいやらしくないだろうか。かと言って他になんて言えばいいのか全く思いつかないけど。


俺が逡巡していると、那須野さんが肩にかけたタオルで頭をわしゃわしゃと拭きながら、これなに、とテーブルの下に投げ出されていた白い袋を指差して聞いてきた。それは、先日和臣から返されたDVDの入った袋だった。


「えっと……友達に貸してたDVDです」


「AV?」


「違います」


見てもいい?と聞かれたので、俺はどうぞ、と答えた。違いますとは答えたが正直なところ、俺は和臣に何のDVDを貸したのか覚えてない。(AVではないことは確かだ)先日、和臣から二年越しに返してもらった後、その辺に放置してそのままにしてあったのだ。俺は中身をまだ確認してなかった。


何なんだろう。気になる。


「うわ、ちょっとなにこれ!」


那須野さんが袋から取り出したDVDを見て目をぱちくりさせている。それを聞いてテーブルに身を乗り出す俺に那須野さんはパッケージを見せてくれた。


「アイドルの……DVD?」


パッケージに写っているのは十人組のアイドルグループと思われる女性達だった。

那須野さんはDVDを蛍光灯に透かすように、めつすがめつ眺める。


「すっごい懐かしいやつ持ってるじゃない。てか、これあんたのじゃないの?」


「いや、姉のDVDなんです。それ」


「ふうん……じゃあ、あんたはこのアイドル、知らないの?」


「……はい、そういうのは全然詳しくなくて。那須野さんは知ってるんですか?」


那須野さんは少し考えてから答えた。


「知ってるも何も、昔……好きだったから」


那須野さんはDVDをテーブルの上に置く。そして俺にこう聞いてきた。


「あしはらさん、もう寝たいと思ってる?」


正直に言えばさっさと寝て朝を迎え、この非現実的なシチュエーションを終わらせたかった。


しかし、俺はこの急展開に置かれたせいで、一種の興奮状態にあった。目を閉じたところでおそらく眠れないだろう。

迷った末に俺は言った。


「……ちょっと今すぐには眠れないかなと思います」


「じゃあ、このDVD、今から一緒に見ない?」


「い、今から?」


ちらりと壁にかかった時計を見る。深夜2時30分。

俺はもう一度、テーブルの上にあるそのDVDのパッケージを見る。


アイドル。


和臣が本気で好きになったその存在を、もっと理解することができたら、俺はあの「ぴりぴり」とした気持ちになる理由を知ることができるのだろうか。


「どうせ眠れないならいいじゃない。お、いいもの見っけ」


俺が考えている間に、那須野さんがまたしてもテーブルの下から何かを発見する。先程コンビニで買ってきた酒の缶だ。那須野さんが一本投げて寄越してきたので、俺は慌てて両手でキャッチする。那須野さんが言った。


「これ、もらっていい?」


「え、えっと。はい、いいですけど」


それを聞くと那須野さんは缶のプルトップを開けて、手に握った缶を俺に向けて差し出してきた。いわゆる乾杯の姿勢だ。


俺が戸惑っていると那須野さんは、ん、と顎で俺の缶を差し乾杯を促してくる。

俺は恐る恐る缶を那須野さんに差し出し、彼女の缶の底の方にこつんと自分の缶を当てた。


「乾杯」


那須野さんはそう言って、ぐびっと一口酒を飲むと、いつの間にか見つけていたDVDレコーダーのリモコンを操作し、レコーダーのトレイを開ける。


俺はなんとなく「そこにDVDを入れろってことかな」と察し、パッケージを開いてDVDを取り出し、トレイに置く。開閉ボタンを押すとレコーダーがしゅるしゅるとトレイを飲み込んでいった。


気がつくと那須野さんは俺の隣に座っていた。彼女は俺にリモコンを手渡してくる。たぶん俺が「再生」ボタンを押せってことだと思う。

那須野さんといると、実家にいる姉の存在をなぜか思い出した。俺はこの手の人間には一生頭が上がらないのかもしれない。


一体、どうしてこんなことに。


深夜、よく分からない隣人を家に泊めて、並んでアイドルのDVDを見る。


人生の中で未だかつてないシチュエーションに巻き込まれてしまった俺は、それでも今はこの再生ボタンを押すしかなかった。

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