意地の日、バレンタイン


2月14日。


この日への想いは人によって違うだろう。


誰かにとっては待ち焦がれた日で。


誰かにとってはなくなればいいと思っている日。あるいはどうでもいいと思っている日かもしれない。


いずれにしても、2月14日がバレンタインであるという事実は、全ての人の人生に横たわる、無視できない現実である。


しかし、とりわけ、好きな相手がいる人間にとってこの日は、どうしたって、ほんの少し奇跡を期待してしまう日なのだ。



これは俺が高校二年生の時のバレンタインの話。






芦原あしはら


教室のドアがガラガラと開き、待っていた相手が入ってくる。


今日は2月14日。バレンタイン。現在時刻は午後4時ちょっと過ぎ。放課後の真っ只中だ。


「ごめん、準備室に寄ってた」


遅れてきたのを詫びつつ、待ち合わせ相手──結城ゆうきひなたは窓際の席に座る俺に近づいてくる。結城は俺の一つ前の席に座った。


夕陽が黒板の端を照らす。少しだけ開いた窓から入ってくる風でカーテンがふわりと揺れた。


俺と結城の2人しかいない教室は、恋愛ドラマのワンシーンのようだった。


バレンタイン。放課後の教室。女子と二人きり。


今のシチュエーションは、客観的な事実だけ並べればかなりそれっぽい。


しかし、それは実際とは違う。


結城の恋の相手は別にいる。


結城がはあ、と溜息をついてから言った。


「どうしよう、芦原!和臣かずおみにチョコ渡しちゃった!もう言い訳できないよ!」


あー、と頭を抱えて、結城は椅子の背もたれに額をくっつけてうなだれた。


「い、いいじゃん。渡せて。結城だって渡すつもりでそれ、用意したんだろ?諦めろよ」


「そうだけど……」


なおもぶつぶつ言う結城に、今度は俺が溜息をつく。


結城ひなたは、和臣の幼なじみだ。


俺が和臣に出会うもっと前から、結城と和臣は家が近所ということもあり、親交がある。本人達が言うには腐れ縁だ。


そして、世にままあることだが、結城は──幼なじみの和臣のことが好きだった。


つまり、同じく和臣のことが好きな俺にとって、結城は一応、恋敵にあたる。


しかし、俺は和臣が好きなことを結城に、というか誰にも明かしていない。

結果として、結城にとっての俺は、恋する相手の親友で、相談相手としてそれなりに適した人材だった。


まあ、俺にとっても、結城は別に恋敵だと思って火花を散らすような相手ではない。


俺は和臣と親友以外の関係になりたいという気持ちなんて……特にないし。

たとえ結城と和臣が付き合うことになったとしても、俺は自分の中でだけ、密かに和臣を好きでいられればいい。


何の根拠もないが、そんな未来が来てもきっと大丈夫だ。たぶん。



「あーあ、これでもう良くも悪くも、ただの幼なじみ終了だなあ……」


「和臣がチョコ貰っても、結城の意図に気づかない可能性だってあるよ」


「バレンタインにハート型のチョコを貰って?ガチ中のガチチョコだよ?」


「和臣なら今食ったチョコがどんな形だったかなんていちいち覚えてないかも」


「……何でそんな人のこと私好きなんだろう」


結城の顔がさっきとは別の意味で曇った。


言ってて思ったが、俺も何でそんな人間のことが好きなんだろう。和臣、恐るべし。


「ま、そう簡単に和臣に伝わったら、今の今までこんな状態じゃないか……」


結城がふうと息を吐く。だけど今のは溜息というよりは、何かを吹っ切った末に出た一息という感じだ。


「溜息をつくと不幸になる」と言われてはいるけど、案外ガンガンついた方が楽になるのかもしれない。


俺はさっきより少し元気を取り戻したと見える結城に尋ねる。


「てか、結城は和臣に告白したいのか、したくないのかどっちなんだよ」


結城はそれにうーん、と考え込んでから言った。


「……なんかさ、たまに好きって言いたいのか言いたくないのか、分かんなくなるんだよね」


「なんだそれ」


「確かに和臣のこと、好き、だと思うんだけどさ……なんか、ただ和臣が好きってことよりさ、もっとこう、何かこだわってることがあるような気がするんだよね。なんだろ……」


結城は頬杖をついて、窓の外に視線をやった。


校庭から元気のいいかけ声とバットの金属音が響き、校舎内のどこかからは気の抜けたようなトランペットだか何かの音が聞こえてくる。


いつもと何も変わらない放課後だ。

バレンタインなんて、世界中の誰も意識してないように思える。


しばらくして、結城が思いついたようにぽつりと言った。


「……意地、かな」


俺は結城の言葉を繰り返す。


「意地?」


「うん、意地。好きっていう感覚を逃がさないぞっていう、意地、みたいな。うまく言えないけどね」


結城がへへ、と笑った。


意地。


俺が結城の言葉の意味を考えていると、それを遮るように制服のポケットに入れたスマホが振動した。


取り出したスマホにはメッセージが送られてきていた。差出人は……和臣。


『みずき、まだ学校いる?帰ろ』


俺達の話題の的、和臣はどうやらまだ校内にいるらしい。

俺がどう返信しようかと画面をじっと見ていると結城が話しかけてきた。


「和臣?」


「あー……うん。和臣もう帰るみたいでさ」


「そっか。じゃあ、私はもうちょっと時間潰してから帰ろっかな……」


「え?なんでだよ」


「会ったら気まずいじゃん!万が一、和臣がチョコの意図に、気づいてたらさ」


「それはむしろ確認した方がいいんじゃないか?」


「いや!今は無理!芦原、それとなく探ってよ。どうせ一緒に帰るんでしょ?」


「そうだけど……」


俺は内心どきり、とした。

なんとなく和臣に一緒に帰ろうと誘われたことは結城に黙っていたが、まあバレバレだ。


付き合ってるわけでもない異性の幼なじみと、日頃からつるんでる同性の親友。


一緒に帰るなら後者の方が自然であることは明らかなんだし、結城がそれを気にすることは全くないと分かっているのに、妙な後ろめたさがあった。


俺は結城に言った。


「わかった。和臣にチョコのこと、それとなく聞いてみるよ。たぶん大丈夫だと思うけど」


何が大丈夫なんだろう。適当に口に出しておいてそう思う。

結城にとって悪いようにはならないってことなのか。


それとも。


俺にとって、悪いようにはならないってことなのか。


「あー助かる、よろしくね!」


当の結城は、俺の言葉を気にすることもなく流している。


俺は何故だか結城に申し訳ない気持ちになり、「じゃあもう行くから」と結城に手を振って、逃げるように教室を出た。


何の根拠もないけど、大丈夫だなんて。

机上の空論なのは明らかだった。




階段を降りて昇降口に着くと和臣が待っていた。俺に気づいた和臣がよっ、と片手を挙げて寄ってくる。


「まだ残ってたなんて、みずきもなんか用あったのか?」


「まあ、ちょっと。和臣は?補習?」


「いや、漫研に遊びに行ってただけ」


話しながら、それぞれのクラスの下足箱に向かう。


どうでもいいかもしれないが、こういう何でもない瞬間に、俺は和臣と違うクラスなんだということを意識させられる。(ちなみに結城は和臣と同じクラスだ)


そして、来年こそは同じクラスになれたらいいと思う。高校生になってから、和臣とは一度も同じクラスになっていないのだ。

一回くらいなったっていいのに。


俺が靴を履きながら心の中で不満を垂れていると、和臣が「てかさ」と話しだす。


「漫研の奴らがなんか盛り上がってたけど、今日バレンタインなんだってな。まあ俺には関係なかったけど」


渦中だよ。めちゃくちゃ関係あっただろ。


俺は余程そう言いたかったが、言わなかった。

しかしここは気を取り直して、むしろチャンスとばかりに、俺は和臣に切り込む。


「なんだ、和臣は誰にも貰わなかったのか?」


「いや、そういやクラスで皆にチョコ配ってた女子はいたし、俺も貰ったけど……それだけかな」


「ん?」


和臣の答えに思わず首を傾げる。


少し迷ったが、はっきり聞いてみることにした。


「結城からは貰ってないのか?」


「え?ひなた?別に貰ってないけど」


「そんなわけないだろ、よく思い出せよ」


「いや貰ってないって……」


「もう腹の中に入れたから貰った数に入ってないってことか?」


「それはない。てかクラスで貰ったやつだってまだ食ってないし」


「……和臣、チョコレートって知ってるか?」


「知ってるって!どうしたんだよ、みずき」


和臣が俺を訝しむような目で見ている。俺はそんな和臣を無視し、今の話を整理する。


和臣が、結城からチョコを貰ってない?


おかしい。

話が違うぞ、結城。


和臣を放って考え込む俺に、和臣が「なんだよ」とむくれる。


「ひなたに貰ったかどうかなんて、みずきに何の関係があるんだよ……。てか、本当に貰ってな……あ」


「あ?」


和臣が突然、何かを思い出したように、ぴた、と止まる。そして何やらひとりでぶつぶつ言いだす。


「貰った……かな?でもあれはひなたからなのか?うーん……」


「え、何?貰ってたの?」


俺は和臣に詰め寄る。和臣は少し引きながら、言い訳のようにもごもごと話す。


「いや、貰ったっていうか、昼休みにひなたが『これ和臣のね』ってチョコ渡してきたんだよ。だからクラスの女子が配ってたやつの、俺の分をひなたが渡してきたのかなって……あ、これこれ」


和臣は制服のポケットをごそごそと漁り、何かを取り出して俺に見せた。



それは──個包装された小さなハート型のチョコだった。



確かにハート型だけど。



バレンタインチョコというよりは、テーマパークのお土産みたいだ。



「……結城から貰ったのはこれだけか?」


「おー、そうだけど」


俺はもう一度チョコレートをじっと見る。



一口で無くなってしまうような、小さなチョコレート。



このチョコレートにとって形がハートかどうかなんて、ついでみたいなものだろう。


これで和臣が、結城の意図に気づくわけがない。


結城にだってそれくらい分かってただろうに。



『……なんかさ、たまに好きって言いたいのか言いたくないのか分かんなくなるんだよね』


これもそういうことなんだろうか。


俺は急に力が抜けて、どうしたらいいのか分からなくなった。


「みずき?」


和臣が俺の顔の前でおーい、と手を振る。

俺は和臣の手をぺちっと叩き、それを制止した。


「……なんだよ、今度は急に黙って」


「なんでもない」


ごめんな、と和臣の肩を叩き、歩きだす。

和臣は不思議そうにしながらも俺の後をついてきた。



校門を抜けて、学校前の横断歩道で信号待ちをしている時、俺は隣に立つ和臣に言った。


「……和臣、そのポケットに入ってたチョコ、ちゃんと食えよ」


「あー、うん。食べるよ、後で」


「いや、なんか心配だから、もう今ここで食え」


「は?なんで?」


「いいから」


「わかったよ……」


そう言って和臣が、さっきチョコが入っていたのと逆のポケットを漁りだしたので、俺は呆れてつい、「こっち」と勝手に和臣の制服のポケットに手を入れてチョコを取り出した。


「おー、ありがとう」と暢気に和臣が手を差し出してきたが、俺は渡さず、外袋をぺりっと破き中からチョコを出した。そして、そのままぽかんと開いている和臣の口にチョコを放り込む。


ポケットの中で温くなって少し溶けたチョコが指についた。それを和臣の制服の裾で適当に拭く。

ついでに空になった外袋を和臣の制服のポケットに突っ込んだ。


和臣がもぐもぐとチョコを口の中で転がしながら、「やめろよな」と言ってくる。

俺は少し笑ってごめんと言った。



信号が青に変わり、横断歩道を渡る。


チョコを飲み込んだ和臣が「そういえばさ」と話し始める。


別にバレンタインとは何の関係もない話だ。


これで、俺にとっても今年のバレンタインは終わりなんだと思う。


はっきり行動するわけでもないくせに、何か少しだけいいことがあればと期待して、案の定何も起こらない日。


結城も俺も、似たようなものかもしれない。


彼女は前に進むフリをしながら、実際にはただ「現状維持」することに注力している。


俺が結城の恋愛相談に平然と乗れるのは、どこかでそれに気がついているからなんだろう。


じゃあいつか、結城がフリではなく、本当に前に進もうとしたら俺はどうするんだろうか。


きっとまだ遠い先。

だけど、もしかしたら……すぐそこまで迫っているかもしれない可能性のことを考えようとして、俺はやめた。


冷たい風が頬にあたる。


遠くに見えるラブホテルの影に夕陽が沈もうとしていた。


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