第8話


耳につく目覚まし時計の電子音が鳴る。

僕は布団から手を伸ばしてそれを止めた。


薄目で見た表示時刻はAM6:00。


その時刻は、僕にこれ以上寝てはいられないということを教えてくれる。


僕は諦めて、出かける支度をする。


カーテンの隙間から漏れる朝日が鬱陶しかった。


自室を出て、一階の居間に降りる。

父も母も、まだ起きてないと思う。家中の物が眠っているみたいに静かだった。


台所に立ち、コップに水を注いで一杯飲む。朝食は何も食べない。


玄関に向かい、ドアを開けて外に出る。


閉めるときに、小さな声で「行ってきます」と言った。誰に向けたわけでもない。それはただの習慣だった。


幸弥ゆきや


だから、いきなり背後から自分の名前を呼ばれて、驚いた。


振り返ると、グレーと水色の中間くらいの色をした、よく知った軽自動車が家の前に停まっている。


助手席側の窓は開いていて、中に乗っていたのは、声をかけられた時点で想像はついていたが……やっぱり僕の兄・貴之だった。


「……何でいるんですか」


僕は、少し腹が立つくらい涼しげな顔をした自分の兄をじっと睨む。

しかし、兄さんはそんな僕の視線を全く気にもせず、言った。


「バイトに行くと思ったから、送って行こうと」


「何で知ってるんですか、それ。……別にいいです。歩いていくので」


「そうか」


僕がすげなく答えると、兄さんは心なしか寂しそうに見えた。

だが、僕は態度を変える気はない。


僕は別に兄が嫌いなわけじゃない。

ただ、僕にも色々あるというだけだ。


いい加減兄の世話になりたくない、という意地が。


「……じゃあ、もう行きますから」


僕が兄の車を避けるように先を急ごうとすると、兄さんがぼそりと呟く。


「倒木で電車が止まってるって聞いたから迎えに来たんだが…」


「え、それを早く教えてください!」


僕のちょっとした自立への一歩も倒木で塞がれてしまったようだ。


僕はあえなく、兄の車に乗ることになった。






「まあ、電車が止まったっていうのは嘘だ」


……僕は助手席で頰を膨らませていた。

子どもっぽいと思われるだろうが、僕なりの兄への怒りを示すポーズだ。


「……何故そんな嘘をついたんですか」


「こうでもしないと幸弥、俺の車に乗らないだろ」


兄の運転する車は家の最寄駅ではなく、そのいくつか先の乗り換えに降りる予定だった駅に向かっている。兄はせめてものお詫びだと言った。


「……前にも言いましたが、僕はこれに関しては自分の力でやっていこうと思ってるんです。今度からは本当に大丈夫ですから」


「と言いつつ、送って行くのはこれで一二回目だな」


「兄さんが毎回毎回あの手この手使うからですよ!」


僕の訴えに兄はただ、ははと笑った。悔しい。とても悔しい。


「……兄さんは何故、僕に構うんですか」


「心配だからだ」


「……ありがとうございます」


あまりにもさらっと言うので僕もついお礼を言ってしまう。

兄さんはそれより、と言った。


「幸弥は何故構われるのを嫌がるんだ?」


駅前に続く大通りの交差点の手前で信号が赤になり、車が停まった。僕は少し考えてから言った。


「……別に。兄さんも家を出て一人暮らし始めたし、僕もなんとなく将来のことを考えだしたというか、まあ」


「そうか」


兄さんの方から聞いたくせに、随分あっさりした返事だと思う。

高校二年生の弟の考えてることなんて、大学生の兄にとっては幼稚に聞こえるのだろうか。


仮にそう思っていたとしても、兄はそれをきっと態度には出さないから、僕には実際のところは分からない。


分からないから、余計に自分が子ども扱いされているような気がして腹立たしくなる。


僕はわざとため息をついてから言った。


「というか、嫌がってると分かってるなら、やめてほしいですね」


「しかし実際、最初に聞かされた『バイト』と違う仕事させられてるだろう、幸弥。応援はしてやりたいが、心配になる」


ぐうの音も出ない。


さっき「将来のことを考えだした」と言ったが、将来のことを考えているなら僕の『バイト』はもっとよく選ぶべきだったかもしれない。


僕が唸っていると「そうだ」と兄さんが言った。


「今日幸弥の『バイト先』に二人が行くんだ」


「二人?誰のことですか?」


「俺の友人だ」


──友人。そう聞いて少しどきりとする。

兄さんが僕のことをバラしたとは全く思わないが、どうしても緊張してしまう。


だけど、つい身構える僕に、兄さんはこう続けた。


「友人の一人……和臣が最近グループのファンになったみたいでな、付き添いでもう一人、みずきという友人も行く。二人共、イベントに行くのは初めてのようだ」


「そうですか……」


僕は納得した。兄さんが何故、僕が今日バイトに行くことを知っていたのか。友人が僕の『バイト先』に行くからだったのか。


「幸弥のことは二人共知らないから安心しろ。……俺も誘われたが断った」


「どうして……あ」


言って、僕は思い出す。


──兄は出禁になったのだ。僕の『バイト先』を。


「すまなかったな。あの時は」


「……いえ」


僕は短くそう返事すると、背もたれに体重を預けた。


もう、一年くらい前のことだろうか。


兄さんは僕の『バイト先』で起きたトラブルの中心人物になってしまった。


もっとも、兄さんはたまたまトラブルの現場に居合わせただけなのだが、それでも手を出してしまったことには違いない。


そして、それは僕にも原因があることなのだ。


信号が青に変わり、車が動きだす。窓の外を見慣れた雑居ビルが流れていく。


僕も兄さんも駅に着くまで何も言わなかった。


やがて車が駅前のロータリーに着く。

兄さんは空いているスペースに車を停めた。僕はドアを開けて車から降りる。ドアを閉める前に兄さんの顔を見た。


いつも通りの、何を考えているのか分からない、澄ました顔。その顔で、兄さんが言った。


「じゃあな。頑張れ、幸弥」


兄さんは僕にひらりと手を振った。


「……行ってきます。車、ありがとうございました」


僕はそれだけ言うと、兄の車に背を向けて駅へと歩きだした。






『小牧、あんた本気で言ってるの?』


『もちろん。私達がいつまでもこの状態でいられないのは明らかです。早急に見つけなければ』


『そんなこと言ったって、ちょっと急よ。あんたの代わりなんてそんなに簡単に見つかる?』


『そう言っていただけると嬉しいですが、そもそも代わりなのは私の方ですよ』


『……別に褒めてないわよ!でも──』


ビルの階段を上がると、廊下まで二人の声が響いている。今日は休日で、他のテナントに誰もいないからいいけど、それでも少しうるさい。


(何かあったのか……?まあ、いい)


ひとまず、僕は何も知らない振りをして、事務所のドアを開け、中にいる二人に声をかけた。


「おはようございます」


「おはようございます、幸弥くん」


「あ、ユキ!遅かったじゃない!」


あまり広くない事務所の隅に、パーテーションで仕切られただけの簡単な会議スペース。

そこで長机を挟んで座る二人は僕に向けてそれぞれ挨拶を返す。


さらりとした長い髪を一つに束ねたスーツの男性──小牧こまきさん。


艶やかな黒髪を頭の高い位置で左右に二つ結びにして、中に穿いているスカートが裾から覗く、黒いスタッフジャンパーを羽織った『なこ』さん。


「二人で何のお話ですか?」


僕がそう聞くと、なこさんは小牧さんの顔を見る。しかし、小牧さんは首を振ると僕の顔を真っ直ぐに見て言った。


「お話したいのはやまやまですが、もうすぐ出る時間です。とりあえず着替えてきてください」


──どうやら、僕は今の時点で、さっきの話について知ることはできないらしい。


「……分かりました」


「え、ちょっと、ユキには話さないの?」


僕が小牧さんに従い、更衣室(と言っても、これまたパーテーションで仕切られただけの簡易的なものだ)に入ろうとするのを、なこさんが引き止める。


「今はこれ以上話す時間はありません。追って、私から話します」


しかし、小牧さんは頑として先程の件について、この場ではもう話さないつもりだ。


時間云々じゃなくて、僕にはまだ話せないことなのかもしれないな。


どちらにしても、僕が気にしたところで、どうにかなるような話じゃなさそうだ。


それでも食い下がろうとするなこさんに、僕は言った。


「なこさん、僕は気にしないので大丈夫です。支度してきます」


「……そう」


なこさんは不満げだったが、僕はパーテーションの裏に入り、自分用にあてがわれたロッカーを開ける。


そして、ハンガーにかかった僕の『制服』──フリルとリボンがあしらわれた可愛らしいふわふわの『アイドル衣装』を手に取った。


これが僕の『バイト』。


アイドルグループ『Vine☆girl』のメンバー・『ユキ』として活動をすること。


僕は一年前、あるきっかけで小牧さんに出会い、なりゆきでこのバイトを始めることになった。


『Vine☆girl』とは三人組のアイドルグループである。

メンバーは僕となこさんと、そして小牧さん。


三人組と言ったが、うち一人は欠員中なので、マネージャーの小牧さんが代わりに三人目のメンバーを務めている形だ。


僕が聞いた話では、三人目の候補は見つかっていたが、面接に現れず、その後、他に候補も見つからなかったため今のような形になったそうだ。


まあ、「アイドル」とは言っても、『Vine☆girl』はいわゆるテレビに出ているようなアイドルではなく、僕の感覚としては草野球的というか、言うなら「草アイドル」みたいなものだ。


小牧さんは元々、この方面で仕事をしていたと言っていたが、僕やなこさんは違う。


それぞれに事情があって、『Vine☆girl』というアイドルを名乗ってはいるが、特に養成所等に通っていたわけでもないし、日々練習はしているが、まあ正直、ただの素人だ。


オリジナルの曲など持っていないし、当然CDも出していない。

イベントの運営等は小牧さんとその知り合いの方々と、それから僕となこさんも少し手伝いながらやっている。


一応、こんな事務所らしいものを構えてはいるが(ちなみに代表は小牧さんだ)、基本的には会場を押さえられたらイベントをして、それ以外の時はネットで動画を公開したり、生配信をしたりする。


外部から仕事を受けたりはしてないようだし(仮に受けていたとして来るだろうか?)、収入はイベントをした時に少しあるかないかくらいだ。(実家暮らしの僕としては、自分が今月バイト代を貰えるかどうかより、この事務所は家賃を払えているのか、小牧さんやなこさんはどうやって生活しているのか時折心配になる。)



僕は『アイドル衣装』に袖を通す。


この服を見るたびにため息が出る──悪い意味で。


なこさんはこういう服を着るのが好きみたいだけど、僕は別に好きじゃない。


ただ、この服を着て化粧をすることで、いつもと全く違う自分になれるのは少し……魅力的だとも思う。


「草アイドル」とはいえ、この「バイト」は意外とやることが多い。


給料が出ない月は決して少なくないし、雑に分類すれば、接客業みたいなものなので「客」から腹の立つような仕打ちを受けることもある。あと恥ずかしいという気持ちもないわけではない。


それでも、僕がこの「バイト」を続けているのは、結局その魅力に惹かれているところがあるからかもしれない。


……まあそう思えるようになったのは最近のことだが。


僕は諸々の身支度を終え、最後になこさんと同じ黒いスタッフジャンパーを羽織る。


「……準備できました」


更衣スペースを出て、二人に話しかける。


「行きましょうか」


小牧さんが立ち上がり、なこさんもそれに続く。僕も二人を追って事務所を出る。


衣装のスカートの丈は短く、脚がすうっと冷える。


今日もまた仕事が始まる、と僕は思った。

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