第7話
「はい、次の方どうぞ」
スタッフに促されて、男が私の目の前に立つ。
歳は大学生くらいだと思う。細身とは言えないが、太り過ぎとも言えない体型で、顔は普通。おずおずと、私に手を差し出すその様子は明らかに緊張している。
私は男の手を取りながら、頭の中でノートのページをペラペラと繰り、この男の名前を探そうとして、やめた。
(この人、新規だ)
三、四人の常連が何度も並び直し続けることで、ギリギリ成立してるようなこの握手会に、新規のファンが来るなんて一体いつぶりだろう。
私としてはこのチャンス、逃したくない。私はとびきり可愛い笑顔と優しい声色で彼に話しかけた。
「初めてよね?名前は……」
と、言いかけて気づいてしまった。
──こいつ、私を見てない。
「うわぁ……」
男の感嘆の声は目の前にいる私に向けたものじゃなかった。
視線の先は見るまでもなく分かる。
こいつが見ているのは、「小牧」だ。
小牧はライブ後の握手会には参加せず、私のレーンとユキのレーンの間に立って、握手会を監視してる。
それはありがたいけど、小牧の容姿はとにかく人の目を引く。
さっきまで着てたアイドル衣装を脱いで、今は地味なスーツ姿。髪だって適当に後ろで結んでるだけ。それなのに、小牧の美しさはひと欠片も曇らない。
おかげで握手会の列に並ぶファンは皆、小牧に釘付けだ。
それどころか、握手会には参加しないが、小牧を見たいがためにまだ会場に残っているファンもいるくらいだ。
この男だってもしかして、少しでも小牧に近づきたくて握手会の列に並んでいるのかもしれない。こんな嫌な推測振り払いたいけど、現に彼は私の方を見ていない。
──面白くない。
私はわざと少し力を込めて男の手を握り、自分の方へぐっと引き寄せる。
男はびっくりしたようで、ようやく私の顔を見た。
「ねえ、名前。教えてよ、次に来てくれた時にちゃんと呼びたいから」
さっきよりももっと力を込めた笑顔を男に向ける。意地になってるのは自分でも分かっていた。
男はおどおどしながらも、答える。
「か、和臣です」
「かずおみさん、ね。ありがと。また来てね」
明らかに引き気味の男──かずおみに、私は駄目押しとばかりにウインクして手を離した。
かずおみはスタッフに背中を押され、列を離れて行く。途中、小牧とすれ違う。小牧はぺこり、と馬鹿丁寧にお辞儀をして彼を見送った。
私の位置から小牧の顔は見えなかったけど、きっと余所行きの、皆が「王子様みたい」って言うような笑顔でも張り付けてたんだろう。
小牧を見たあいつの反応で分かる。
面白くない。全然、面白くない。
まあ、今に始まったことじゃないんだけど。
私は我に返り、次に待っているファンの顔を見る。わざわざ思い出そうとするまでもない、いつも来るファンだ。この男も例に漏れず、ボーっと小牧を見ているので、スタッフが促す前に私から言ってやった。
「はい、次!」
これだから、オタクって本当──。
◯
──ムカつく。
ストローの先でアイスティーに浮かぶ氷をつつく。
表面に映る自分の顔はよく見えないが、きっとつまらなそうな顔をしてると思う。
向かいに座る和臣が突然、にやつきながら言った。
「いやあ〜、へへ……まさかあんなに近くで小牧さんが俺に挨拶してくれるなんてな……フッへ……」
「あの人誰にでもやってるだろ、別に」
未だかつてないほど、でれでれな和臣に、俺は思わずぴしゃりと言い放ってしまう。
しかし和臣は俺のそんな態度もどこ吹く風だ。
「それでも嬉しいじゃん」
こんな風に屈託なく笑われてしまったら、なんだかばつが悪くなる。
俺は和臣から目を逸らし、ストローでアイスティーをずずっと啜った。
イベント会場を出た俺と和臣は、近くのファミレスに入り、遅めの昼食をとりながら適当に駄弁っていた。
と、言っても和臣が一方的に喋ってるのを俺が聞いているだけだ。
いつもならそれでも楽しいはずだった。でも今日はなんだか無性にイラつく。
胸の底あたりでずっと静電気がぴりぴりしているみたいだ。
ストローなしでコップに直に口をつけてコーラを飲む和臣も、もう注文が済んだのに、いつまでもメニューを眺めてる和臣も、やってることはいつもと同じなのに、今はあまり可愛いと思えない。
原因はなんとなく分かっていた。
さっきまで和臣と参加していた「Vine☆girl」のイベントでのことだ。そこで俺は、今までにないほど感情が昂っている和臣を見た。
和臣とイベントに出かけるのは初めてじゃない。今までだって和臣は楽しそうだった。
だけど、今日の和臣は……その今までとは少し違う。
なんというか、今までの和臣は「イベント」という空間そのものを楽しんでいるようだった。
でも、今日の和臣はまるで「好きな人」に会いに来たような、誰かの姿に期待してあの場にいたような感じがする。
それが和臣の言うところの「推し」──小牧さんなんだろうけど。
どうしてそれが、俺をこんなぴりぴりとした気持ちにさせているのかが分からない。
だって、和臣にできたのは「推し」であって、別に恋人ができたとかそういうわけじゃない。いつもみたいに勝手にすればいいことなのに、どうして。
気がつくと、俺はアイスティーを飲みきっていた。
新しくドリンクバーに注ぎに行く気力もなく、ストローで溶けかけの氷を意味もなく吸う。
ちらりと和臣の顔を伺うと、何やらスマホの画面を見てニヤついていた。
「……何見てんの」
寄せばいいのに。俺はつい、和臣に聞いてしまった。
答えなんて分かりきってて、それでまた、胸がぴりぴりするのも分かってるのに。
……そんな俺の胸の内も知らず、和臣は楽しそうに言った。
「小牧さんのブログ」
さっきのオフショもう載せてるんだよ、と和臣はスマホを見せてくる。
俺は話しかけた手前、仕方なく画面を見る。
薄いベージュのシンプルな背景に小牧さんが書いたと思われる文章、その間に写真が数枚挟まれているだけの簡単なブログだ。
写真には、衣装の上に黒いスタッフジャンパーを羽織ったツインテールの子──確か、なこというアイドルだ──と肩ぐらいの長さの髪の子──こっちがユキだったと思う──がピースサインをして写っている。
(見れば見るほど、同じ男だって信じられないくらい……二人共、可愛いよな)
和臣に説明されなければ、俺は今も、この二人のアイドルを女の子だと信じて疑ってなかっただろう。
「この子がさっき和臣と握手した子だよな?」
俺はツインテールの子を指差して和臣に聞く。
「ああ……『なこ』な。なんかめちゃくちゃグイグイきたから、ちょっとびっくりしたわ。まあ可愛いっちゃ可愛いかったけどさ」
遠目にも分かるくらいド緊張しながら握手してたくせに何言ってんだ。
俺は余程、和臣にそう言いたかったが我慢する。
イベントは、「ライブ」とその後にある「握手会」で構成されていた。
和臣は小牧さんと握手する気満々だったようだが、彼はライブコーナーが終わると、マネージャーの業務に戻ってしまった。和臣はとても残念そうだったが、せっかくイベントに来たからと、とりあえず、なこさんと握手することにしたのだ。
まあ、「推し」じゃないのにあんなに緊張してるくらいだから、和臣に小牧さんと握手なんてできないんじゃないだろうか。
俺は和臣に悪いと思いながら、心の中でこっそり笑ってしまう。ちょっとだけ胸がすっきりした。
そんな俺の密かな嘲笑にも気付かず、和臣は話し続ける。
「本当は小牧さんと接近したかったけどなあ……」
「握手してた子には聞かせられないな、それ」
「まあしょうがないよな」
和臣がへらへらと笑う。すっきりしたのも束の間、俺はまた少しイラっとする。
和臣ってなんかこんなにイキってた奴だっけ。
こうして小牧さんやVine☆girlについて話しているほど、和臣が嫌な奴に見えてくる。
和臣に「推し」ができただけで、俺がぴりぴりしているのはこれが理由なんだろうか。
……でも少し違う気がする。
「……みずき」
「ん」
ふいに和臣に呼ばれる。俺はストローを指先で弄びながら適当に返事する。
和臣は空になったグラスを見ながら言った。
「……いい加減ドリンクバー行けば?」
「めんどくさいからいい」
「じゃあ俺が注いでくる。自分のも行くし。何がいい?」
「んー……任す」
「うーい」
和臣は俺の手元からひょいっとグラスを持ち上げると、自分のグラスも持ってドリンクバーに向かう。そんな和臣の背中を見ながら、俺は思う。
和臣に「推し」というものができて、自分がぴりぴりしてる理由は、まだよく分からない。
それなのに、和臣が今までにないくらい調子に乗っているのを見ると、なんとなくイライラしてしまう。
だけど、こんな風に今までと変わらない和臣もここにある。
(……そんなに、気にしなくてもいいのかもしれない)
そのうち、和臣がグラスを二つ持って席に戻ってきた。
「ほい、お待たせ」
「……コンポタはないわ」
グラスに並々と注がれた冷製コーンポタージュに、俺は溜息をついた。
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