第6話

本物だった。


そりゃそうだ。数メートル先のステージ上にちゃんと両の足をつけてまっすぐ立つ彼は間違いなくだ。声だってちゃんと自分の耳に届いている。


ステージに立つ彼はちょうど諸注意を読み上げているところで、彼が時折挟む「人を肩に担ぐ、担がれる行為も禁止ですよ」みたいな軽い冗談も、顔にかかった細い栗色の髪をかき上げる仕草も、全てがリアルタイムに目の前で起きていることだった。



しかし、動画で、写真で、何度となく見てきた「彼」が目の前で確かに存在しているというたったそれだけが、どうしてこんなにもエモーショナルなのだろう。



(顔小さい……てか、生だとマジで顔が良すぎて直視できないし、脚長……眩しい、無理、しんどい……)



舞台袖から出てきた時こそ騒がしかったファンも、今は静かに彼の諸注意に耳を傾けている。俺も彼の声をもっとよく聴こうと聴覚に神経を集中させる。


いつもイヤホンから聴こえてくる声が、今、直接耳に届いているのはやっぱり不思議だった。


しばし聞き惚れていること数分。


彼が手に持っていた紙から顔を上げ、にこりと微笑むと丁寧に一礼する。後ろに束ねた彼の美しい髪がはらりと垂れた。


ぱちぱち、とどこかで拍手が起こる。


俺も何かに操られるように手を叩く。


やがてそれは会場全体に広がっていき、拍手が空間を満たした。


彼は顔を上げてまたにこりと微笑むと、颯爽と袖に捌けて行った。


俺はさっきまで彼が立っていたステージ上の一点をしばらく見つめていた。





「和臣!」


突然耳に入ってきた声にはっとする。


声の主は考えるまでもなく、一緒に来ていたみずきだ。

俺はみずきの方を向き、呼びかけに応えようとする。


すると、みずきが俺の顔を見るなり、目をぱちくりさせる。


俺はみずきがどうしてそんな顔をしているのか分からなかったが、頰を伝うものを感じて気がつく。


俺は泣いていた。


目の奥からとめどなく涙が出てくる。


けれどそれは全く悲しくなくて、むしろ涙を流せば流すほど心が満たされていくようだった。


「大丈夫か?」


みずきが俺の顔を覗き込みながら、肩をポンポンと軽く叩く。


俺はTシャツの袖で目をぐりぐり擦り、鼻をすすって「大丈夫」と返した。


「感動しすぎて泣いただけ」


「まだイベントも始まってないのに?」


みずきが不思議そうに言う。


俺だって、自分のことが不思議で仕方なかった。

まだ、彼の姿を見て声を聞いただけなのに、こんな風になるなんて。


誘っておいて申し訳ないが、俺はみずきを連れて来たことを後悔し始めていた。

イベントが始まってもないのに隣の奴がいきなり泣きだすなんて、さすがに気持ち悪すぎるか。


まして、みずきにはまだ何も説明してないのだ。


俺は、みずきに何から説明しようか考えていると、みずきの方から俺に聞いてきた。


「あの人ってマネージャーとか、スタッフじゃないのか?なんかすごそうな人だけど」


「ああ、ええと。あの人は確かにマネージャーだよ。だけどそれだけじゃない」


「どういうことだ?」


「それは見た方が分かるかもな。あ、ほら」


ステージを照らしていたライトがぱっと消え、袖から出てきた人影がステージの中心に向かって歩いていく。

周囲のファンが体を逸らしてほとんど雄叫びのような声をあげたり、突然腕を左右に振って踊り出す。皆気持ちが昂っているようだった。


次にライトがステージを照らした時、光の中に3人のアイドルがいた。

俺はみずきにその3人組のアイドル―『Vine☆girl』について説明する。


艶やかな黒髪を頭の高い位置でツインテールにした、イメージカラー紫のアイドル―


肩に少しつくくらいの長さの黒髪でなこより5センチ程背が高い、イメージカラー白のアイドル―


そして、他の2人よりも頭一つ抜けて背が高く、美しい栗色の長髪を耳よりも少し上でツインテールにした、イメージカラー水色のアイドル―小牧こまきさん。


そこまで説明すると、何かに気づいたみずきが俺にストップをかけてきた。


「あの、和臣。その小牧さんってさ、もしかして……」


俺はみずきの言いたいことを察し、頷く。


「ああ。さっき、出てきてたマネージャーさんだ」


「えっと?」


「Vine☆girlは3人組のアイドルなんだけど、諸事情でメンバーが足りてないんだって。だから今小牧さんが代わりにアイドルやってる」


「えっと?」


「今はアイドルだからあんなふわふわで可愛い膝上丈のスカートの衣装を着てるけど、小牧さんは男性なんだ。あと、他のメンバーも皆男だ」


みずきの目は明らかに困惑に揺れている。

俺はその目がちょっとだけ怖くなって、思わず聞いてしまう。


「引く?」


みずきは俺から目を逸らし、壇上の彼らを見た。

そしてまた俺の方を見て言った。


「和臣が好きならそれでいいと思う」


「…そっか」


別に何とも思わないし、とみずきは続けた。

俺はそんなみずきに何だか安心していた。


みずきはいつも、俺の趣味に対してすごくフラットだ。


理解でもなく、共感でもなく、かといって嫌悪や偏見を持つわけでもなく、ただそのまま受け入れる。


人によってはそれを寂しく思ったり、物足りなく感じるのかもしれないが、少なくとも俺にとってみずきは居心地のいい存在だった。


(…まあ、みずきにとって俺はうるさくて面倒くさい奴なのかもしれないけど)


それでもこうして付き合ってくれているので、俺のことが嫌なわけではないんだろうな、とは思いたい。



そのうち、彼らのパフォーマンスが始まった。

まだオリジナルの曲を持っていない彼らは、おそらく他のアイドルのものであろう曲をカバーして披露する。


イントロが流れた瞬間から会場のボルテージは最高潮に達した。

皆、あらかじめ練習していたのではないかと思う程揃って何事か叫びだした。

俺は彼らのライブに初めて来たので何を言っているのかは分からないが。


Vine☆girlの3人は言われなければ自分と同じ男だなんて思えない程、可愛いと思う。正直なところ小牧さんは他の2人よりも少し、いや大分年上だけど、それを感じさせない程今この瞬間『アイドル』になりきっている。


小牧さんの動きに合わせて揺れるツインテールや、スカートの下から伸びる毛の1本も生えていない引き締まった脚、そして激しいダンスをしながらも一切崩さない笑顔。俺は目が離せなかった。


時々、小牧さんと目が合っているかのような錯覚に陥る。だけど何故か100パーセント錯覚だと言い切れないような、ひょっとしたら本当に小牧さんは俺を見ていたかもしれないと期待させられてしまう。


これがアイドルなんだ。



「…本当に好きなんだな」


みずきがぽつりと言った。


「うん」


俺は何も考えずそう答えていた。言ってから、自分の顔が熱くなるのを感じた。


付き合いの長い親友が相手だったとしても、本当に好きなもののことを話すのってこんなに緊張するのか。


「なあ、みずき」


「ん?」


「……すげえなあ」


「語彙力ないな」


「もうそれしか出ないんだって」


みずきがなんだそれ、と笑う。少し呆れているのかもしれない。

しかし、みずきは一拍置いてからこう言った。


「でも確かにすごいと思う。皆可愛いと思うし」


それを聞いて、俺はさっきまで少し恥ずかしかったのが嘘みたいに清々しい気分になっていた。


誰かに自分の好きなものの話をする、それは単に自分のことを知ってもらうという以上に、こんなにも誇らしい気持ちになることだったのか。


引かれたり受け入れられなかったらどうしようと不安になったり、褒められると自分のことのように嬉しくなる。


みずきを連れてイベントに行ったことは何度もある。だけど、こんな気持ちになるのは初めてだった。


「和臣は小牧さんが一番好きなんだな?」


「えっ?!なんで分かんの?!」


「分かりやす」


またみずきが笑った。俺もまた少し恥ずかしくなる。


俺はみずきに答えようとして思い出す。

そうだ、俺の周りの奴ら、自分にとってのこういう存在のこと、こう言ってたっけ。


「うん、小牧さん。俺の『推し』なんだ」

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