僕は結局、朝宮珊瑚に勝てなかった
くろねこどらごん
第1話
朝宮珊瑚に、僕はずっと勝てなかった。
「今回のテストも私の勝ちね」
三桁の数字が書かれた答案用紙をヒラヒラと揺らしながら、珊瑚は勝ち誇った笑みを浮かべていた。
「うぐっ…」
対する僕こと夜凪司は渋面である。
僕の点数は98点。簡単なケアレスミスだったが、間違いは間違いだ。
たった2点とはいえその壁はとてつもない分厚さを伴って、この勝負の勝敗を分けていたのだった。
「また負けた…」
「司は集中力が足りてないのよ。だから簡単なミスを犯しちゃうの。そこら辺もレベルアップしないとねー」
思わずガックリと肩を落とす僕とは対照的に、珊瑚は白い歯を見せながら楽しそうに笑っていた。
それを見て、僕の闘争心に火が付いた。
負けたくないと切に思う。
「次は絶対勝つからね」
「そのセリフ、いったい何度聞いたことやら。そんなこと言ったって、司は一度も私に勝てたことないじゃない」
「うぐっ…」
悔しいけど、それは事実だ。
僕はこれまでのこの小生意気な幼馴染に、一度も勝てたことがないのだから。
朝宮珊瑚は僕の幼馴染だった。
光沢のある艶やかな長い黒髪はまさに烏の濡れ羽色。
まるで人形のように整った綺麗な顔立ちをした珊瑚は、昔から皆から愛される人気者だった。
運動神経も抜群で、コミュ力にも隙がない。
トドメに珊瑚の一番の特徴といえるのがその頭の良さだった。
成績優秀という言葉では収まらず、テストでは常に学年トップ。
小学校から中学、そして高校生になった今でもそれは変わらない。
僕の記憶が正しければ、一度も一位の座を逃したことはなかったはずだ。
珊瑚に勝とうと躍起になる生徒もこれまで何人かいたけど、全員が結局珊瑚に勝てずにやがて諦めていったことを、僕は長い付き合いから知っていた。
僕は決して頭の出来がいいほうじゃない。
物覚えだって良くないし、集中力も長続きしない自覚がある。
むしろ悪い方だと思う。珊瑚と競おうとした彼らにだって、きっと容易に負けることだろう。
じゃあなんで僕が珊瑚に勝負を挑むのか。
その理由を聞かれたなら、僕は言葉を濁さざるを得ない。
別に複雑なわけでもないし、なんなら人によっては笑い話にだってできるかもしれないような、些細な理由ではあるのだけど。
だからどうか、これはここだけの内緒話にして欲しい。
単純に、珊瑚に知られたくなかったんだ。
勝負を挑む生徒が諦めていく姿を見る珊瑚の目が、ひどく寂しそうに見えたからなんて。
好きな子を一人ぼっちにしたくないから負けると分かっている勝負にムキになって挑んでるとか、そんなこと珊瑚にだけは絶対知られるわけにはいかなかった。
「どうする?今日はうちで勉強してく?」
放課後になると、珊瑚が僕の席までやってきた。
「いや、今日はいいよ。自分の家で勉強する」
「分からないところがあったら教えてあげてもいいのよ?」
勝ち誇った意地の悪い笑みを浮かべる珊瑚。
まさに勝者の余裕という言葉が相応しい、完璧なドヤ顔だった。
「今回はケアレスミスが原因だったんだ。あれがなければ同点だった。勝てはしなかったけど、負けもなかったはずなんだ」
それを見てるとムカムカする気持ちと、可愛いという素直な気持ちがぶつかり合って、頭の中がグチャグチャになってしまう。
これが惚れた弱みというなら、恐ろしい病に僕はかかってしまったものだと思う。
「それは確かに。前は成績すっごく悪かったのに、今じゃ私の次にいいもの。もうちょっと頑張れば、本当に追いつかれちゃうものね」
咄嗟に叩いた憎まれ口だったけど、珊瑚は納得したように頷いている。
事実として、今の僕は学年でも二番目の成績を保てていた。
人並み以上に努力した自負はあるけど、並以下だった僕の成績が急上昇を果たしたのは珊瑚の教えが抜群に上手だったのが大きいだろう。
―――司、そんなやり方じゃダメよ。それじゃ効率が悪いじゃない
それは中学2年生の時のことである。
珊瑚に追いつこうと悪戦苦闘しながら参考書をめくっていると、たまたまうちに遊びにきた彼女に思い切り駄目出しを食らったのだ。
お説教の後、すったもんだの挙句、気付けば暇があればふたり肩を並べて互いの部屋で勉強するようになったのが、それに関しては割愛させてもらう。
ひとつ言えることは、思春期の男子に女の子の部屋というのは刺激が強く、ますます珊瑚に懸想することになったということだけだ。
とにかくこのことが僕が成績を伸ばす大きな一因となったのは間違いない。
「追いついてみせるさ」
「それじゃ期待してるわ。勉強を教えてきた身としては嬉しい限りだもの」
僕がそう言うと、珊瑚が笑いながらこちらへと手を伸ばしてくる。
それは昔から変わらない、僕の大好きな子供のように無邪気な彼女の笑みだ。
「ほら、今回も頑張ったわね。よしよし、褒めてあげるわよ」
その笑顔に一瞬見とれてしまい、気付いた時には珊瑚の手は僕の頭を撫で回していた。
「うわっ、ちょっ、やめてよ!」
「遠慮しないの。私からのご褒美なんだから、素直に受け取っておきなさい」
、
そんなこと出来るわけがない。
なにせここは教室だ。まだクラスメイトも残っている。
クスクスという笑い声がそこかしこから聞こえているし、これじゃまるっきり晒し者である。
「もういいって!やめてくれよ!」
周囲の視線に耐え切れなくなり、未だ頭を撫でてくる珊瑚の手を払いのけようとするのだが、その前にスルリと白い手がひっこみ、僕のそれは宙を切る。
「あっ…」
「アハハ。ごめんごめん。ちょっとした冗談よ」
珊瑚が謝ってくるも、正直それどころじゃなかった。
柔らかい感触がなくなって少し寂しいという、小さな子供みたいななんとも言えない感覚が、僕を襲ってきたからだ。
「それで許されるとでも?」
それがなんだか恥ずかしくて、つい刺々しくなってしまったのは、仕方ないことだと思う。
「…あれ?司、ひょっとして怒ってる?」
「怒るに決まってるだろ。ここは教室だよ?」
僕の態度に違和感を覚えたらしく、珊瑚が恐る恐る尋ねてくるが、なにをか言わんやというものだ。
「あー…ごめんね?ちょっと調子に乗っちゃったかも。許してよ。ねっ?」
珍しく素直に謝ってくる珊瑚。
滅多に見れない殊勝な姿だ。
どうやら本当に悪いと思っているらしい。
「…まぁいいよ。もうしないっていうなら別に…」
「あ、そうだ!こうしようよ!」
許してあげようと口を開くも、それより先になにか閃いたらしい。
珊瑚はパンと両手を合わせると、こんなことを言い出した。
「もし次のテストで私よりいい点数だったら、司の言うことをなんでもひとつ聞いてあげるよ!」
一瞬、脳がフリーズした。
「……え、なんでも?」
思わず聞き返す僕。
いや、でも。今なんでもって言ったよね?
「うん、なんでも」
頷く珊瑚。
え、マジで?いいの?
「ほんとに?」
「しつこいわねぇ。いいわよ。ドンと来なさい!」
そう言って胸をドンと叩く珊瑚。
反動から弾むそれを思わず凝視してしまったのは、悲しい男のサガというやつなのかもしれない。
「……わかった。その言葉、忘れないでくれよ」
「もちろん。司こそ頑張りなさいよ。私を負かせて見て頂戴」
珊瑚は本当に、楽しそうに笑っていた。
僕の挑戦を心底心待ちにしているような、嬉しそうな顔で。
「うん、わかったよ」
それがなんだか嬉しくて。
僕も気付けば、笑いながら頷いていた。
珊瑚が楽しそうに笑う姿が、僕はなにより好きだったから。
珊瑚が笑っていてくれるなら、僕はそれだけで満足だったんだ。
「期待してるわよ、司」
だけど、その勝負は果たされることはなかった。
その日。
僕らが教室で別れ、互いに別々に帰った放課後。
珊瑚は、交通事故にあった。
スゥスゥと、微かな吐息の音だけが耳に届く。
それ以外はひどく静かだ。
身じろぐ音も物音も、なにも聞こえてきやしない。
「…………」
点滴も音がしないのだと、ここ最近になって初めて知った。
パックから伸びる長いチューブに繋がれた腕に、体を動かすのに必要な栄養が送られているんだろうか。
そんなどうでもいいことを考える時間が最近増えた。
当然といえば当然なのかもしれない。
学校での授業や出来事なんて、まるで頭に残っていないのだ。
「なんで、こんな…」
最初はまるで現実感がなかった。
珊瑚が事故にあったと聞いてもなにかの間違いだとしか思えなかったし、なんなら家族を巻き込んだドッキリかと思ったのだ。
焦る両親に連れられ、こうして病院のベッドの上で横たわる珊瑚を見て、ようやくこれが現実なのだと認識したけど、それでも頭のどこかでそんなわけないと否定している自分がいた。
これは僕の見ているタチの悪い夢で、目が覚めたらいつものように少し意地の悪い顔で僕に笑いかける珊瑚がいるはずだと、そう考える自分がいるんだ。
……本当にそう信じ切れたなら、どれだけ良かったことだろう。
「僕の、せいだ…」
珊瑚が事故にあったのは、商店街の近くの交差点だった。
僕は真っ直ぐ家に帰ったし、てっきり珊瑚もそうだと思ってた。
「僕が、僕が…」
だけど、実際は違った。
珊瑚は真っ直ぐ家に帰らなかったのだ。
僕らの家と商店街は反対の位置にあって、なにか用事がない限りはまず行くことはない。
「あんな…」
ならその用事はなんだったのか。
答えは簡単だった。珊瑚は買い物をするために商店街を訪れていたんだ。
聞き込みをするまでもなく、現場に散乱していた荷物からそれはすぐにわかったのだという。
購入したばかりのそれらは、紙袋から飛び出した状態で見つかったんだそうだ。
「あんな約束をしなければ…!」
見つかったのは、参考書。
ちょうど次のテスト範囲に当たる箇所をカバーするくらいの参考書が、数冊購入されていたらしい。
そうだ。
珊瑚は僕との勝負に備え、参考書を購入するために商店街に訪れたんだ。
そうでなければ真っ直ぐに家に帰り、事故になんてあわずに済んだはずなんだ。
「ごめん、珊瑚…」
僕のせいだ。
全部僕が悪いんだ。
僕が軽はずみにあんな約束に頷かなければ、珊瑚はこんなことにはならなかったんだ。
「ごめん、本当にごめん…!」
謝ったって許されるはずがないのはわかってた。
今の珊瑚は耳も聞こえていない。目だって開かない。口を開くこともない。
事故からもう一ヶ月が経っているのに、珊瑚は今も眠ったままだ。
魂というものがあるのなら、それが今の珊瑚の中にあるのかも疑わしい。
医者の先生の話では、事故の時珊瑚は強く頭を打ったのだと言う。
一命を取り留めただけでも奇跡だったと、そんなことを語っていた覚えがうっすらとある。
頭部に強い衝撃を受けた今の珊瑚は一種の植物人間状態で、いつ目を覚ますかも分からないのだそうだ。
明日か。それとも明後日か。
あるいは一生このままかも知れない―――
その話を聞いた時の珊瑚のおじさんやおばさんの表情を、僕は一生忘れることはないだろう。
あんなに珊瑚のことを可愛がって大切にしていた仲のいい家族を、僕はぶち壊してしまったのだ。
死んでしまえるなら、僕は素直に死を選んだことだろう。
罪悪感と後悔で胸が張り裂けそうになりながら、それでも僕は毎日病院へと通い続けた。
だって、珊瑚はまだ生きているから。
例え目を覚まさなくても、珊瑚のそばにいることだけが贖罪になると、そう思っていた。
「もう珊瑚のお見舞いには来ないで欲しい」
それからさらに三ヶ月が過ぎた。
春休みももうすぐ終わり、三年生に上がる直前のとある日。
未だ目覚めぬ珊瑚のお見舞いに今日も通うと、病室にいた珊瑚のお父さんに僕は呼び止められていた。
「え…な、なんでですか」
当然僕は戸惑った。
なんでそんなことを言われるのか、まるで分からなかったからだ。
少なくともこの4ヶ月、珊瑚の両親からは来るななんて一度も言われたことがなかったのに。
「司くんも、もう三年生になるだろう。進路を決めないといけない時期だ。成績もだいぶ下がっていると聞いた。このままでは進学も危ういとも、君のご両親からは聞いているよ」
それを聞いて、一瞬頭がカッとなった。
「成績なんてどうでもいいですよ!?進学だって、珊瑚がいないと!!」
「駄目だ。君には将来がある。いつまでも目が覚めない珊瑚のそばにいても、なんの得にもなりはしない。私の家と君の家族。お互いにとって、だ」
嗜めれるけど、到底納得のいく理屈じゃない。
「そんな!?僕には珊瑚が!?」
「分かってくれ。自分では気付いていないのかもしれないが、今の君は以前よりだいぶやつれてしまってる。まるで骨と皮だけのようだ…そんな司くんの姿は、きっと珊瑚だって喜ばない」
「っつ…!」
そんな…僕のことなんて、どうでもいいじゃないか…!
「だって、僕のせいなんですよ!?僕が余計な約束をしたから、珊瑚は事故にあったんだ!だから!」
「違う。君のせいじゃない」
食いかかるも、珊瑚のお父さんは譲らなかった。
どこまでも冷静で、憐れむように僕を見た。
「運が悪かったんだ。だから頼む。どうか自分をそんなに責めないでくれ。司くんはなにも悪くなんてないんだ。今の君を見ていると、私もとても辛いんだよ」
それはきっと大人として、とても立派な態度だったんだろう。
対して僕は子供だった。
かけられる慰めの言葉に、なにも言えなくなってしまうのだから。
「珊瑚のことは忘れて欲しい。司くんは今は自分のことを大事にして、将来のことを考える大事な時期なんだ」
珊瑚のお父さんの言葉はどこまでも優しくて、暖かくて。
結局最後まで、僕を責めてくれはしなかった。
「どうしろっていうんだよ…」
家に戻った僕は、ベッドの上に体を投げ出し、天井を見上げていた。
「将来のこと?そんなの、珊瑚がいないと意味がないじゃないか…」
僕にとって、珊瑚の存在は全てだった。
彼女がいたから頑張ってきたし、勉強にも打ち込んだ。
「なのに、こんなのって…」
大学だって、珊瑚と同じところを選ぶつもりだったんだ。
先のことなんてなにも考えてなんてない。僕はただ、珊瑚が笑っていてくれたら、それだけで…
「珊瑚はいつ目を覚ますのかな…」
身を縮こませながらふと思う。
珊瑚が目を覚ましたなら、全て解決するはずだ。
これまでずっと待っていた。だけど目覚めない。目を開けてくれはしない。
本当に珊瑚は、これから先一生眠ったままなんだろうか。
「駄目だ」
そんなのは駄目だ。
あの子がずっと眠ったまま?そんなの、許されるはずないじゃないか。
体に熱が灯った気がした。心にも火が入ったように熱くなる。
だってまだ、珊瑚とはやりたいことがたくさんあるんだ。
勝負にだって勝ってないし、約束だって宙ぶらりんだ。そもそも勝負をしていない。
「それに…」
僕の気持ちだって、まだ伝えてない。
「起こしてあげなきゃ…」
誰が?なんて言わない。
誰かに、ううん、誰にも託したくない。
「僕が…」
僕がやるんだ。
僕が、僕が珊瑚を…
フラフラと、導かれるように立ち上がる。
迷いなんて、どこにもなかった。
僕はただ、彼女に起きて欲しかった。
それからはただひたすら、がむしゃらに頑張る日々が続いた。
机に齧り付いては、これまでの遅れを取り戻すために猛勉強を繰り返した。
辛くはなかった。
そうしなければいけない理由があるのに、立ち止まってる暇なんてどこにもない。
ただなにかに追い立てられるように勉強して勉強して勉強して。
三月を迎えた頃、僕は国立の医学部に合格した。
三年から巻き返しての現役合格に、周りは随分と驚いていた。
その中に、珊瑚の姿はない。
結局高校生の間、彼女が目覚めることはなかった。
クラスメイトからは奇跡だとか頑張ったねとか、色々言われた気がするけど、正直言えば祝福の言葉なんてどうでもよかった。
むしろ煩わしいくらいに感じていたと思う。
珊瑚がいないなら、なんの意味もないんだ。
それからも毎日。毎日。毎日。
僕はずっと勉強をし続けた。
必要なことはなんでもした。
どんなことでもやろうと決めた。
彼女のためならなにひとつ惜しくなかった。
命だって、いくらでも捧げて良かった。
それで珊瑚が目を覚ましてくれるなら、僕はそれで良かったんだ。
頭だってたくさん下げた。
色んな人に色んなことを教えてもらった。
その全てを自分の糧にしていった。
そしてそれは、医者になった今でも変わっていない。
それでも彼女は目覚めない。
気付けばもう、あれから10年以上の月日が経っていた。
「先生、こんにちは」
「ああ、近藤さん。どうですか、体の具合は?」
「お陰様で調子がいいですよ。先生のおかげです」
「それは良かった。お体を大事にしてくださいね」
患者さんと挨拶を交わして廊下を歩く。
例えお世辞であろうとも、お礼を言われるのは嬉しいものだった。
最近ようやく先生と呼ばれることにも、慣れてきた気がした。
昔はもっとむず痒くなったものだけど、僕も年をとったということなのかもしれない。
廊下を進む。
この白塗りの廊下にもすっかり慣れた。
ここを往復しなかった日は記憶にない。
目を瞑ってたって、目的の病室にまでたどり着けることだろう。
「そんなことはしないけど、ね」
危ないし、事故なんて真っ平御免だ。
ほかの誰より僕自身がそれを許容できるはずもない。
慎重にかつ速やかに。
それでいて挨拶も忘れずに、足をただただ前へと運ぶ。
そうしていると、すぐに病室の前に着いていた。
「ふぅ…」
立ち止まると、僕は一度小さく息を吐く。
いつだって、ここに入るのは緊張するのだ。
きっといつまでも慣れることはないだろう。
慣れなくてもいいと思っている。
ここに来たとき、僕は昔の自分に戻ることができるのだから。
「入るよ」
コンコンと数回ノックする。
返事はない。いつものことだ。
僕は病室へと踏み入った。
スゥスゥと、微かな吐息の音だけが耳に届く。
それ以外はひどく静かだ。
身じろぐ音も物音も、なにも聞こえてきやしない。
「今日も君は変わらないね」
心からの安堵と、ほんの少しの落胆。
それが同時に襲ってくる日々にも、もうすっかり慣れていた。
「少し顔色は良くなってきたかな」
前はちょっと悪くなっていたから、正直心配だった。
点滴の量を増やしたのがよかったのかも知れない。
このまま継続したほうがいいだろう。
そんなことを考えながら、改めて彼女の様子を伺う。
眠る珊瑚の顔は相変わらず整っていた。
だけど、昔よりだいぶ痩せている。
肌も白すぎるほど白く、髪も多少くたびれていた。
「後で手入れもしないとね」
自慢の髪だったはずだから、起きたときにかつての光沢が褪せていたらきっと驚くことだろう。
それはさすがにちょっとまずい。珊瑚が目覚めたとしたら、17歳の少女のまま時が止まっているはずだから。
「はは…」
彼女のびっくりした顔を想像してしまい、思わず苦笑してしまう。
記憶の中の彼女は、少し色褪せてしまっていた。
どんな声をしていたのかも、今ではよく思い出せない。
当時の映像で補うことは出来るだろうけど、それはなんだかしたくなかった。
これまで灯ってきた熱に、水を差したくなかったのかもしれない。
「僕だけ年をとってしまったなぁ」
途中で、色んなことがあった。
頑張りすぎだと言われて、無理矢理休まされたことがある。
次の日からそれまで以上に働いたら呆れられてなに言われなくなったっけ。
出世のためには結婚しなさいと上司に言われ、これも無理矢理お見合いに持ち込まれそうになったけど、断固として突っぱねたら思い切り嫌われてしまった。
おかげで出世はパーになったけど、元々そんなことには興味がなかった。
僕にとって医者であることは手段であって目的じゃない。
派閥闘争なんて、どうぞ勝手にやってくれ。
あの子のことは忘れて自分の幸せを掴んで欲しいと、君の両親から言われたよ。
だけど僕にとっての幸せは、もう見つけてしまってたから、申し訳ないけど首を横に振らせてもらった。
……うん、本当に申し訳ないことをしたと思う。
また後で謝りにいかないとなぁ。また泣かれそうだけど。
あとは…そうそう。あの患者さんのことは忘れて私と付き合って欲しいとも言われたことがあるよ。
もちろんごめんなさいしたけど。
同僚にはいい女だったのに振ったのかとこれまた呆れられたけど、僕はとっくにいい女に巡り合ってる。
成績の悪かったあの僕が、こうして医者なんてやれてるんだ。
すごいだろ?これも全部君がいたからだ。君のおかげでここまでこれた。
「ふぅ」
一通り語り終えると、少し息を吐いた。
疲れやすくなっているのかもしれない。
まだ若いつもりだったけど、最近白髪も増えてきた。
「まだ大丈夫だ。僕は頑張れる」
まだまだ学ぶことはたくさんある。
医学だってまだまだ進歩するだろう。
10年がなんだ。ここまできたら20年だろうが30年だろうがとことん付き合ってやろうじゃないか。
「それじゃ、また…」
来るよ。そう言って立ち上がったその瞬間。
「え…?」
クラリと大きく視界が揺れた。
「お、ああ!」
たたらを踏んで持ちこたえようとするも、ダメだった。
ぐらりと揺れた身体は勢いそのまま、珊瑚の眠るベッドへと倒れ込んでいってしまう。
「ぐっ!」
せめてもの抵抗で手すりに身体をぶつけて威力を落とすも、おかげで肺の中の空気が一気に吐き出されてしまう。
息をするのも苦しかった。
「つぅ…」
まさか珊瑚の前でこんな醜態を晒すとは。
なんとなく情けない気分に襲われる。
「カッコ悪いな…いや、今更か」
珊瑚の前では、いつだって僕はカッコ悪かった。
彼女に勝てたことは一度もなくて、昔から呆れられてばかりだった。
「はは…」
がむしゃらに頑張ってきたつもりだった。
脇目も振らずに駆け抜けてきた。
多分、多くのものを取りこぼしてきたと思う。
それでも珊瑚のためにと、僕はただ走り続けた。
「僕さ、結構頑張ったんだぜ…」
気付けば言葉が口から出ていた。
「出来が悪いなりに頑張って努力してさ。似合わない医者にまでなったんだ。今じゃ先生って呼ばれるくらいには、なんとかやれてると思う。頑張ったんだよ」
止まらなかった。
「テストの点数いつも負けてばかりだったけど、これはもう勝ったって言えるんじゃないか?いや、普通に勝負しても勝てると思うよ。今も定期的に、あの頃の問題を解いてるんだ。結果はいつも満点だよ。すごいだろ?ケアレスミスもなくなったんだ」
止まらなかった。
「だからさ…勝負しようよ。起きてテストで競おうよ。そして笑ってくれよ」
止まらなかった。
「約束、覚えてるだろ?僕の願いはそれだけなんだ。僕はただ、珊瑚が笑ってくれていれば、それで良かったんだよ」
止まらなかった。
「笑ってくれて、そしてあの時みたいに頭を撫でてくれて。褒めてくれれば、僕はそれで…」
それだけで、本当に良かったんだよ。
「う、あああ…」
気付けば僕は泣いていた。
みっともなく泣いていた。
大人になんてなれてなくて、子供みたいに彼女にすがりついていた。
「僕、は…」
まだ、頑張れるはずなのに。
「―――そっか、頑張ったんだね」
ポンと、頭が柔らかい感触に包まれた。
「え…」
「医者、ねぇ。すごい、じゃない。なったことないから、よく、わからないけど」
つっかえるようなたどたどしい声。
誰のなんて考える間もなく、言いようのない懐かしさだけが僕を包んだ。
「あ、ああ…」
「なに、これ。声、全然でないんだけど。けほっ、うわ、これひどっ」
言葉が出ないのは僕のほうだ。
だけど、体を動かすことはできる。
僕は震えながら、ゆっくりと顔を上げた。
「さん、ご…」
そこには、彼女がいた。
目を開いて辛そうに咳き込む、彼女がいたんだ。
「体も上手く、動かせないし。てか司、アンタ老けたわね」
そりゃそうだろ。
10年以上経ってんだぞ。
当たり前だろ。
「う、ううう…」
そう言いたかったのに、僕はなにも言い出せない。
やっぱり僕はいつまで経っても、とてもカッコ悪い男だった。
「ああ、もう泣かないの。男でしょ」
もう一度、珊瑚に頭を撫でられた。
懐かしさとか嬉しさとか。
言葉にできない感情が、次々と溢れ出る。
ああ、もう考えるのが面倒だ。
全部が全部どうでもよかった。
僕はもう、バカでいい。
勝てなくたって、もういいんだ。
彼女に勝てない夜凪司のまま、僕は彼女のそばで泣き続けた。
僕は結局最後まで、朝宮珊瑚に勝てなかった。
僕は結局、朝宮珊瑚に勝てなかった くろねこどらごん @dragon1250
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