第19話 ネコちゃんも舞子ちゃんも
「あー、こんなところにいたー!」
横でいきなり小悪魔みたいなくすぐったい声がした。顔を上げると、かわいらしい感じの丸顔の女のひとだった。
どこかで会った?
会った。この声にも聞き覚えがある。
しかも、その後ろには。
「あ、先生」
声が二重重ね効果になったみたいに響いたけど。
その黒い服の女のひとといっしょにいるのは
いや、いいのか? 今日の発表会に出たちっちゃい子たちのお母さんたちの相手してなくて。
というか、そこから逃げ出してきたのか。
「あ、未亜、紹介するね」
黒い服で小悪魔っぽい声の女の人が言う。でぶっとした稲子は、ミルクコーヒーのストローを置いて、ソファから立ち上がっていた。
「うちの弟子の
その毛利稲子は、未亜先生に向かってきれいにお辞儀している。
この子、お辞儀するとぶざまだよなぁ。いや、お辞儀のしかたはすごく正しい。左右のバランスもとれているし、上半身もきっちりと傾いている。ただ、あの胸の白い肌もかわいらしい感じの顔も見えなくなるから、なんだけど。
そんなことはどうでもいい!
「あっ」
わかってしまった。
ほんとうは昨日の夜の母のような大声を立てたいところを、小さい「あっ」で止めた。ここで大声にならなかったぶんは、
この小悪魔っぽい声のひとは、いつか未亜先生といっしょにチェロを弾いていた
その弟子ってことは?
チェロ弾くの?
こいつが……?
「じゃ、チェロ弾くんだ?」
未亜先生がきいている。
「ああ、いまはヴィオラだけどね」
そうだ。
ブラームスのピアノ四重奏曲第一番なんて、だれもが知っている曲ではない。舞子だって、あの曲を聴いただけでは思い出せなかっただろう。まして、それが第四楽章の途中から、なんてことは。
横にいるこいつが「シェーンベルクのあれの、ブラームスのあれ」とかいう非常に雑なことを言わなければ。
また、あの音の高さの模擬授業で、指板を押さえてスケール練習しているようなしぐさをしていたのは、こいつがヴィオラ弾きだったからなのだ。
「うちの
未亜先生が言う。
「うん。ともみ先生との三重奏の会で」
みか先生は笑顔になった。小悪魔っぽさが消えて、そこらにいるふつーのおねーさん的な感じになる。
口を閉じるとちょっとつんとした感じで、口を開くと親しみやすい感じになる稲子は、この先生に似たのかも知れない。
「いやあ、今日の演奏、よかったね。積極的に、伸びやかに、って感じで」
「ふだんは違うのよ」
未亜先生が容赦なくばらす。
「細かいところからぜんぶ詰めていく感じの弾きかたで、息が詰まって疲れてしまいそうっていうのがふだんのこの子。それが、なんでか、今日は生まれ変わったみたいにおおらかで大胆な弾きかたで。ピアノがぐいぐい引っぱられていく感じで」
みか先生が、今度は小悪魔っぽいまま笑った。
「そんなこと言って。未亜が煽ったんじゃないの?」
はいそれが正解です。
未亜先生は穏やかに笑って、答えない。みか先生が言う。
「ところで、ネコちゃん、舞子ちゃんとはもう知り合いなんだよね?」
「あ」
稲子がまた大きい口を開いて言う。
「先々週、いっしょに
そう自慢げに言うことか?
「まあっ!」
みか先生が大げさに反応する。
「まあっ。まあっ! じゃあ、ネコちゃんと舞子ちゃん、二人揃って、わたしたちの後輩だねっ」
ああ!
そういうことか……。
未亜先生もみか先生も、あの明珠女学館第一高校室内楽部のメンバーだった。つまり、あのピアノ四重奏曲を、息を合わせたり駆け引きしたりしながら弾いていた、あの四人の先輩にあたるんだ。
「ま、二人とも明珠女を志望して、しかも合格すれば、だけど」
未亜先生がとてもあたりまえのことを言う。そして、脅す。
「明珠女、高校から編入の枠はそこそこ多いけど、推薦でもちゃんと試験あるからね。それも推薦なら学科と論文と両方あるからね。そこで落ちたらせっかくの夢が台なしになっちゃうよ」
まあ、それでも、偏差値の高い
みか先生が調子を合わせる。
「だから、ネコちゃんも舞子ちゃんも、勉強も手を抜かないようにがんばらないとね」
まあ、中学校の三年生だから、あちこちからそういうことを言われる年頃なんだけど。
ところで、さっきから気になっていたのだが……。
「稲子って、ネコ?」
「うん」
稲子があたりまえのようにうなずく。
「
「うふっ」
みか先生が今度も小悪魔っぽいまま笑う。そのとおり、ということだろう。
それでまた一つ、巨大な謎が解けた。
「あ、それで、自画像、っていうか自分用スタンプがでっかい猫なんだ!」
「えーっ?」
その反応は、違うのか?
「それ知ってて、舞子って、質問したがってるみたいな猫のスタンプ送ってきたんじゃないの?」
「いや、あれ、偶然」
というかあれは「無表情な猫」なんですけど!
稲子とみか先生は、二人とも今度は小悪魔的でなくすなおに笑った。
先生たちの背後でエレベーターが開いた。
なかから出てきたのはスーツの女のひとだ。ヒールのついた靴でこつこつ音をさせ、できるだけ早足でこっちへ歩いてくる。
「先生!」
未亜先生の、社会人のお弟子さんだ。もうちょっとでどこかのオーケストラに就職できそうだ、という話もきいた。第二部の最後のステージに出る。バルトークの無伴奏ヴァイオリンソナタという難しい曲を全曲弾くという。いまは有能に事務やってますというスーツ姿だけど、そのときにはきれいなドレス姿で登場することだろう。
「そろそろ戻ってください」
第二部のステージの準備のためなのか、それとも先生にごあいさつができなかったちっちゃい子のママが
「じゃ、わたし、行くね」
未亜先生がそのお弟子さんについて行く。
「じゃ、わたしもくっついて行くわ」
みか先生までいっしょについて行った。
いや、ついて行って何するんだ、みか先生?
未亜先生は社会人のお弟子さんにお小言をもらっている。
「どうしてスマホを楽屋に置いて行くんですか? 連絡も取れないし」
「三階から一階に下りるだけで、そんな大げさなこと?」
「だいじなことです!」
そう言ったところでエレベーターのドアが開いたので、三人はその向こうに消える。お弟子さんは稲子と舞子に軽く会釈し、みか先生は小さく手を振ってくれ、そして未亜先生はお弟子さんのお小言攻撃に圧倒されていた。
残された舞子と稲子は、どちらからともなくふふっと笑うと、だいぶ温かくなってしまったはずのミルクコーヒーとメロンソーダの前に座り直した。
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