第18話 謎のでぷっとしたかわいい女の正体とは!

 発表会は舞子まこの演奏で第一部が終わって、そのあと三十分の休憩時間がある。三十分というと長いようだけど、それは子どもたちのお父さんお母さんが先生にあいさつするための時間だ。

 ところで、大学の研究所で一時間一分一秒を争う研究をしている舞子の母は、先生へのあいさつは開始前にすませ、舞子の演奏が終わると、舞子に

「よかったよ。じゃあ」

とだけ告げてタクシーで駅へ行ってしまった。昨日の夜、苦闘していたあの計算がうまくいったのかどうか、舞子は知らない。朝から疲れ切っていたのは確かだ。それで、研究所に戻れば、またあの加速器というのにつきっきりの日々が始まる。こういうのを見ていると、物理学者になんかなるものじゃないと思う。

 でぷっとしたやつからは、お父さんの会社が運営するWiSワイエスを通じて「下の喫茶コーナーにいるよ」というメッセージが来ている。エレベーターを使わずに一階に下りる。二階から一階が普通の建物の三階分ぐらいあって、ちょっと後悔した。かわりに、階段からロビーを見下ろせたので、あのそこそこ巨体の女がどこに座っているかはわかった。今日は、清楚な白のブラウスに落ち着いた緑色のスカートを穿いている。

 また超甘いパフェとかを食べていたら、今日こそ「こんなんだから太るんだよ」と言おうと思っていたけど、飲んでいるのはアイスミルクコーヒーか何かだ。でも、まさかコーヒーフロートを買ってアイスクリームを崩して溶かしてしまったとかではあるまいな。

 ここの喫茶コーナーというのは、隅にあるカウンターで自分で注文してロビーの席まで持って来るという仕組みになっている。あの新治にいはり大学の食堂と同じだ。喉が渇いていたので、メロンソーダを頼んだ。ちょっと高いけど、切ったほんもののメロンがついてくる。薄くてぺらぺらだけど。

 「お待たせー」

と言って巨体女の向かいに座ると、巨体女はアイスミルクコーヒーを口に吸い込んだところだったらしく、「うむっ」となってむせている。

 やっぱり、かわいい。

 座る前に斜め上から見てもかわいかったし、座って正面から見てもかわいい。

 このでぷっとした体格だけで損してるよな、こいつ。

 そのむせて苦しんでいる目の前で、幸せそうにメロンソーダを置き、手を合わせて「いただきます」もやって、稲子いねこを見返してやる。

 稲子は、むせたのを抑えこんで、目をとても細くして舞子に笑いかけた。

 メロンソーダを吸う。少し口に入れただけだけど、炭酸の泡がはじけて口のなかが涼しくなる。いままで頭のほうに熱がたまっていたんだな、と気づく。

 そのソーダの涼味を味わったところに、稲子が言った。

 「すごい大きい「春」だったね」

 今度は舞子がむせそうになる。いまの自分の演奏への感想だろう。でもいきなり言う? それも、そういう何か抽象画みたいな表現で。

 「大きい、って?」

 ありがとうとも何とも言わずにきき返す。稲子は

「いや、こう、小さくない、っていう意味で」

と言って、また目をとても細くする。

 それはわかってるって。大きいなら、小さくはない。あんたの体といっしょだよ、と言ってやりたかったが、いじめみたいなので、やめる。

 「いや、きれいな曲じゃない?」

 大きい稲子が説明する。今日は、上のボタンを開けているが、セーラー襟ではないのであの白くてきれいな鎖骨のところが見えない。それが残念だけど。

 舞子が着ているのは、クリーム色のシャツに少し濃いベージュのベスト、それとお揃いのスカートだ。あの、行かないことにした新治附属の制服に似ている。

 稲子が続ける。

 「それを、かわいらしくきれいにしてるっていうより、大きくきれいにしてるって感じでさ。拍をきっちり刻んでそれが集まって曲になってるんじゃなくて、大きい呼吸で聴かせてくれてる、っていうか」

 言いたいことは、細かいところはよくわからないが、大きいところはわかってきた。

 それは、弓を大きく動かして、細かいところを気にせず、伸び伸びした音を引き出したいと弾いていた自分のあのときの思いと重なる。

 舞子は、返事するかわりに、また少しメロンソーダを吸った。目は稲子の顔のほうに向けておく。稲子は続ける。

 「それに、ピアノ弾いてた先生も気分が乗ってたよね。前へ前へ出てくる感じで。それに、また舞子ちゃんがさ、応えて前に出ようとして、とっても、なんか、前向きな演奏になってたよね」

 うん。そのとおりだ。

 胸の中途でメロンソーダの涼しさがすっと消えて行く。その余韻といっしょに幸福に浸りかけ、ふと、疑惑が湧いた。

 こいつ、何者?

 なんで弾いてたときの自分の気もちがわかるの?

 こんなに、手に取るように。

 まさかとは思うけど……。

 超能力者とか?

 でぷっと太っているのは、その正体を見透かされないためのカモフラージュ?

 舞子はこの稲子という女をそんなに知っているわけではない。

 あのオープンスクールでブラームスのピアノ四重奏曲第一番をきいたあとは、あの演奏の話をするのがもったいなくて、二人でわざわざ隣の大学まで行って大学の食堂というのを捜しに行った。やっぱり閉まっていたので高校の食堂まで戻り、いっしょにサンドイッチを食べて帰ってきた。中学校には入るなと言われたけれど、大学には入るなとは言われていなかったから、大学のキャンパスをうろうろしてもべつにいいだろうと思った。

 ひとが少なかったせいかもしれないけど、あの新治にいはり大学のざわついた感じと違って、明珠めいしゅ女学館の大学は落ち着いて、整然としていた。ガラスでぴかぴかの、いかにも二一世紀に建ちましたという建物と、あの高校の教室のような古ぼけた建物が、調和して隣り合っている。そんなところだった。

 この学校、第一志望にしてもいいかな、と思って、稲子にそう言うと、稲子も

「うん、わたしも」

と、超とても目を細めて返事した。

 その日からこいつとは話をしていない。WiSでも、互いの学校で夏休みの長さが違うとか、今日も暑いけどそっちいま何度とか、夏休みの宿題の教えあいとか、そんな話はしたけど、舞子には稲子がどんな子か、稲子には舞子がどんな子かわかるような話はまだそんなにしてないと思う。

 それなのに、なぜこんなに舞子が感じていることがわかるんだ?

 このでぷっとしたかわいい女の正体とは!

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