第17話 春

 曲目はベートーヴェンのヴァイオリンソナタ第五番の第一楽章、「春」と呼ばれる曲のいちばん「春」らしい楽章だ。いまは暑さが夏本番と変わらない夏の終わりなので、季節的には合わない。練習を始めたときにはほんとに春だったんだからしかたがない。

 自分のペースで弾けばいいと言われたので気が楽だ。あの先輩たちのように、たがいにアイコンタクトをとったり、アイコンタクトもとらないでぴったり音を合わせなくてもいい。

 それに、先生は機嫌がいい。ピアノの伴奏をしながら気分が乗って来ている。伴奏に徹すると言ったのに、控えめにならないでどんどん前に出てくる。

 ピアノは機械仕掛けで弦を打つので音色が基本的に変わらない。鍵盤を打つときの強弱やペダル操作で表情作りができるくらいだ。ところが、未亜みあ先生のピアノの音色は曲の最初から艶を帯びていた。曲が進むとその艶やかさが増して行く。

 舞子まこも負けていられない。練習のときにやったことがないくらいに弓を大きく動かし、伸び伸びした音を楽器から引き出す。音にムラがないようにしようとか、弓を当てるのが強すぎて意図しないアタックがかからないようにしようとか、そういうのを気にするのを、やめる。

 ほんとうにきれいな音になっているかどうか、楽器が耳に近すぎて自分ではわからない。腕や体に伝わって来る感覚は心地いい。楽器の振動が波で伝わって来てエネルギーを響かせるという。その心地よさを信じよう。

 曲が終わったとき、舞子は、床に足が着いているかどうかわからないくらい、ふわぁっとした気分だった。舞い上がっているというのではなく、ただ、ふわっと柔らかい気もちだ。

 少し前に出て、楽器を持ってていねいにお辞儀する。

 お辞儀をして、下に向いた視線のすぐ先に、あいつがいた。

 いちばん前の席で、目を、とても、ではなく、普通に細くして、熱心に拍手している。

 顔はかわいらしいよな。それでそれが身体とマッチしていない。

 頭を下げながら、昨日の夜の自分の仮説が証明されたことで、舞子はいっそうの幸福を感じていた。

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