第16話 夜のメッセージ
午後十時三十分。夏の終わり、発表会の前日だ。
この時間に寝たことなんて小学校のとき以来ない。でも、もう夜でヴァイオリンの練習もできないし、いまさらおさらいする気にもなれない。かといって、学校の勉強をする気にもなれないし、スマホでネットを見るとなんか心が乱れそうだ。それで、お風呂から上がると、寝付けるかどうかは気にせずに横になることにしたのだ。
「あーっ!」
ヤミをつんざく悲鳴が遠くから聞こえる。
「そういうふうに行ったらダメだってダメだってダメだって! うわあーーっ! うわっ、あーーーっ!」
夢の世界から聞こえてくるメッセージのようだ。
夜十時を過ぎて女の悲鳴が響き渡れば、少なくとも心配するのが義理ってものだろう。
舞子はふーっと長くため息をついた。
心配も何もしない。また、舞子が心配しても何もできないのは最初からわかっている。
「何やってるんだろう、お母さん」
きっと、その加速器の実験データの処理とかをしようとして、何かまちがいをやったに違いない。
舞子の母は、加速器での実験が続いているというのに、娘の発表会だというので帰ってきた。お父さんが出張中で来られないので、急遽、母が戻ってきたというわけだ。しかし、舞子のヴァイオリンには関係なく、世界の物理学というのは一時間一分一秒の猶予もなく先に進んでいく。アトリエそねっとから出ている『「わかりやすい科学」は終わったか?』の一九〇ページあたりに書いてあるとおりだ。その世界でこの母が生き残るために、家に帰ってきてもなんかよくわからないパソコン作業が続くのだが。
無理に帰ってこなくていいのに、と言うと露骨に不機嫌になるので言わないけど。
物理学の発見は全世界で一回きりだ。二度めに同じ何かにたどり着いても「発見」とは言えなくなる。
だけど、娘のヴァイオリンの発表会ぐらいまだ何度でもあるでしょ?
もういちど長く息をついて、寝返りを打つ。とたんにスマホがぶっと振動音を立てた。
自分あてのメッセージが来たらしい。
だれだよ、こんな時間に、と、ふだんならこの時間なら気にせず自分もメッセージを送っていることは思い出しながらも、不機嫌にスマホを取り上げる。
送信者は「いねこ」。
あのでぷっとした女だ。
なんだよ。
また数学の宿題の質問?
少しは自分で調べろって。
次こそそう言ってやろうと思いながら、ごろんと右手が上になるように回転して、メッセージを見てみる。
「明日、行くよ」
おい!
明日はこっちは発表会だ。来られても……。
えっ?
「がんばれ、って言おうと思ったけど、まこなら、むしろ、いい演奏、聴かせてくれるよね、って言ったほうがいいかな」
演奏……聴く……?
「えーっ?」
思わず声が出てしまった。声量はさっきの母の十分の一以下だから、許してもらおう。
あのそこそこ巨体の女、いったいどこで舞子の発表会のスケジュールを……!
「じゃ、また明日ね! おやすみ」
こっちが何も反応してないうちに「おやすみ」とはいったい何だ?
「来るな」と言うと角が立つ。SNSでは、面と向かって言えばどうということのないことばでも相手を傷つけるかも知れないという。まして、「来るな」は面と向かって言っても、やっぱり腹が立つことばだろう。
それに。
じゃあ、稲子に来てほしくない?
ほしい、とも言えない。
でも、ほしくない、とも言えない。
そこで、どう返答していいかわからないときにいつも使う、無表情な猫のスタンプを送る。反応なしかな、と思っていると、笑顔の猫の巨大なスタンプが帰ってきた。大きい耳の片方が折れて、豪快に笑っている。何の意味なのか、まったくわからない。舞子が猫を送ったから、お返しに何も考えずに同じ猫のスタンプを使っただけかも知れない。
それに、耳の折れた犬はいるけど、耳の折れた猫っているかな? それで
「なんだよ、この巨大な猫スタンプは!」
と思わず返しそうになった。
でも、発表会前日に、心を乱すようなことをしてもつまらない。
すなおに「いいね」をして、スマホをベッドの隅に置き、反対側に寝返りを打って、目をつぶった。
あの巨体女の、ゆるめたセーラー襟からのぞいていた鎖骨のところの肌の白さが浮かんだ。
自分がその白さに溶けていきそうになる。
舞子は、正直に、自分はやつより美人だと思う。思うけれど、肌の白さはやつのほうが上だ。春先から焼けやすいのか、両親のどっちかからの遺伝か、いつも日焼け色が少し入っているのが舞子の肌だ。それは自分で気に入っている。ベージュのジャンパースカートの制服ならばこの肌の色に合うかな、と思ったことも、たしかに、
あいつ、かわいいんだけどなぁ。
色白で。
黒くてくりくりした目は笑うとすぐにとても細くなる。もっと笑うと超とても細くなる。口をつぐんでいるとちょっとつんとしたすました感じで、口を開くと口が大きくてなんか安心感を与えてくれる。ほっぺも色白だけど上のほうだけ軽くピンクで、ちょっとぼさぼさ気味の髪は後ろで二つに結んでる。
いま、舞子が寝ている部屋は暗い。
カーテン越しに外の街灯がぼんやり天井に入って来ているだけだ。
あらためて、仰向いて、薄手の毛布をあごのところまで引き上げる。目を閉じる。
浮かんできた。
衣裳はあのピンクタンクトップ白カーディガンの子から借りる。それの子供服アレンジだ。ピンクのシャツ、赤いオーバーオール、白の薄手の上着、そして、あれを少し幼くしただけの、基本的に同じ顔……。
舞子の想像した、小学生中学年ぐらいの稲子。
すごくかわいいっ!
いますぐ飛んでいって斜め上からきゅっときつく抱きしめてあげたいくらいに、かわいい。
でも、その想像の姿はすぐに消えていく。
きっと、あいつは、「かわいい女の子」のまま成長し、かわいい女の子らしく、甘いものおいしいものを食べすぎて太ったんだ。
それで、そのかわいい要素と、でぷっとした体格とがバランスせずに、あんなにブスっとした感じになっている。
そうか。あいつが観に来る……聴きに来るのか。
舞子はまぶたを開いて気合いを入れる。
がんばるぞ!
あ、いや。
いい演奏をするぞ。
そして、ふっと息をついて力を抜き、自然にまぶたを閉じた。
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