第14話 情熱的なロンド
出だしは揃った。弦が中心のゆっくりしたエレガントな旋律だ。リズムもずれない。たった三つの楽器で、豊かな音が舞台からふわっとあふれてきた感じがする。
これはひどい演奏どころではない。いまの
「シェーンベルクのあれの、ブラームスのあれだ」
横で稲子がつぶやく。
それではわからないだろうって! 「シェーンベルクがオーケストラのために編曲した、ブラームスのピアノ四重奏曲第一番」だ。その最後の楽章の途中から。
「そうだね」
うなずきながら「あれ?」と思う。でもその思いはすぐに忘れた。
きれいな弦の音色にピアノが答える。ピアノのつぶやくような短い旋律をはさみながら、その美しい旋律をピアノと弦とでやり取りしていく。どこか悲しそうな旋律が印象を深めながら豊かに伝わって来る。テンポが揺れる。
ピアノは弦楽器三人の後ろだ。ピアノ奏者から弦楽器奏者の背中は見えるが、弦楽器奏者からは脇見しないとピアノ奏者は見えない。
これは不安だ。発表会のとき、先生が伴奏で、舞子のヴァイオリンに合わせてくれるとわかっていても、自信のないときにはピアノのほうを振り向いてしまいそうになる。
この先輩たちは違うのだろうか? 弦楽器奏者どうしはずっと目線をかわしているけれど、ピアノと弦楽器は、目で互いを気にしている様子はない。それできっちり合う。
曲はピアノの飛び跳ねるような旋律に移った。その速い旋律を、黒い髪の先輩は平気で姿勢よく座ったまま弾きこなしている。きれいに粒の揃った音を聴かせている。弦楽の三人もすごいが、このピアノの先輩もすごい。
ヴァイオリンの先輩は、がっちりした体型だけど、隣の稲子ほど太っているという感じはしない。丸顔で、二重まぶたが印象的だ。髪型がやっぱりタマネギっぽい。はやってるのか? この学校では。反対側のチェロの先輩はこの先輩と感じが似ているが、チェロの先輩のほうが痩せている。おっとりと落ち着いた感じであまり表情を変えない。いまはほかの二人に合わせるように、大きく弓を動かしている。まんなかのヴィオラの先輩は、弦三人のなかではいちばん小柄だけど、いちばん大人びた顔立ちだ。真剣な表情で楽譜を見つめ、神経を張り詰めさせている、という感じでヴィオラに弓を当てている。
主役になる楽器が変わっても奏者によって楽器の音や弾きかたの違いが出ない。もちろん、楽器が違い、弾いているひとが違う以上、違いはあるのだけれど、違うものがぶつかる感じがぜんぜんない。伴奏に回ったり、主役に
旋律が一つ終わってピアノだけのパートが入ったところで、ヴァイオリンの先輩が顔を上げて、あと二人に短くいたずらっぽく笑ったように見えた。その二人も目を合わせた。笑ったりうなずいたりはしない。楽器を弾いているから大げさにリアクションしている余裕がないのはわかるけど、これ、どういうコミュニケーション?
そこで最初のちょっと悲しそうなエレガントな旋律が戻る。そこで弦楽器の三人はいきなりテンポを落とした! 楽器を歌わせるようにゆったりと音楽を響かせる。四拍ぶんくらいの時間をかけて三拍という速さだ。
後ろのピアノの先輩が口を開いて背筋をぴくんとさせた。その向こうで、楽譜係の大柄な先輩も口をぽかんと開く。
曲はそのまま少しも乱れずに続いた。弦楽器が存分にその美しい音色を聞かせたあと、ピアノが主役のパートに入る。
最初は弦楽器のゆったりさを引き継ぐ。そこから弾く速度を少しずつ上げていく。その「少しずつ」が止まらない!
ピアノという楽器は、舞子も弾けることは弾ける。軽く鍵盤を撫でているだけでは音は出ないのも知っている。弱い音であっても、きちんと鍵盤を押し下げないと音が出ない。その楽器をいったいどうやって弾いているのか。軽く指を少し触れるだけでピアノは魔法で音を出す。そうとしか見えない。そんな流れるような弾きかたでピアノの演奏は速くなっていく。
「ピアノ、煽ってるね」
舞子がつぶやく。隣のでぷっとした女は聴いていないかと思うと
「これ、下手すると自分の首を絞めるよ」
と、同じようなつぶやき声で返して来た。
そのとおりだった。そのあと弦楽器だけの部分が続くが、弦楽器もピアノを引き継いで速度を上げていく。ピアノも入り、速いピアノに弦楽器も速くて力強い演奏で応える。応えるどころか、自分から不自然なぐらいに速度を上げる。しかも三人揃って息を乱さずに速度を上げる。
弦楽器ならこの速さで弾ける。質を問題にしないなら舞子でも弾ける。でも、ピアノは? 下手をすると、ピアノが弦楽器の速さについていけなくなって返り討ちに遭う。
でもそんなことにはならなかった。
ピアノは最後まできちんと粒の揃った音で弦楽器にぴったり合わせていく。しかも、きちんと背筋を伸ばして、たいしたことのないフレーズを弾いているように、その速い音をたたき出していくのだ。そのまま最後の合奏になだれ込む。
弦楽器の三人はもう余裕もない。三人とも口を結んで楽譜をじっと見て、思い切りよく弓を弦に当てている。見るだけだと勢いに任せて弾いているように見える。でも違う。合っているか、ずれないか、音の大きさがちょうどか、三人が三人とも感じ取りながら弾いている。
三小節ずつに切れ目が来る、ちょっとつんのめるような旋律を、ピアノもいっしょに乱れることなく揃えて乗り切った。最後の部分に入る。前から続く曲想が薄れていって、曲を終わらせる旋律が後ろから湧き出してくる。そして音の切れるところをはさんだ幕切れだ。全部の楽器の音が揃わないといけない。ここでだれかが合わないととてもみっともないことになる。
弦楽器三人とピアノはきっちりと音を合わせた。まったくズレない。強い上げ弓で最後の音を鳴らして、楽器から弓を離すタイミングまできっちりと合っていた。
ヴァイオリンの先輩がほっと息をついて緊張を解き、楽器と弓を下ろす。チェロの先輩も、大人びたヴィオラの先輩も、ほっとした表情で笑顔でそのヴァイオリンの先輩に応えていた。頬が紅くなり、息が激しくなっているのがわかる。
そこで調子のはずれたベルの「ちーん」という音が鳴った。客席のほうも魔法にかかったようにしんとしていたけれど、その間の抜けた音で魔法が解けたように、拍手が始まる。さっきの吹奏楽部のときよりずっと大きな拍手だ。窓際から楽員に声をかけたあの茶色っぽい髪の子も熱烈に拍手している。稲子も、さっきのピアノに負けないぐらいに手を動かしてすごい勢いで拍手していた。
「これを演奏にかぶせないために急いだんだね」
もう声を小さくする必要のなくなった稲子が拍手を続けながら言う。でも会場の拍手が大きいので、聴き取りにくさは変わらない。
「でも、弦三人、こうなるのわかっててその前にリタルダンドしたじゃない?」
ゆっくり、情緒たっぷりに、弦楽器の音の美しさを思い切りアピールしていた。
「ピアノを信頼してたのかな? それとも挑戦したのかな?」
でぷっとした女がくすぐったい声で言うので、
「さあ」
と無関心そうに答えてやる。
どっちかは本人たちにきいてみないとわからないし、それに、どっちか一つということはない。挑戦するにしても、ピアノの奏者の力を信じていなければ、きわどい挑戦なんかできるわけがない。破綻したら全員で恥をかくのだ。
気分が乗れば少しは音が飛んでも不正確になっても気にせず速弾きする、という盛り上げかたもある。舞子は、そういうのがかっこいいと思っていちど発表会でやったことがある。あとで先生に小言を言われ、そのあと早く弾いても音の粒が揃うようにするための特別な練習がしばらく続いた。
でも、この先輩たちは違った。最後まで、舞子には想像もできないくらいの速い速度で、音符の長さも音の大きさも正確に揃えて、きっちり弾いていた。
拍手にこたえて、楽譜係も含めて五人が前に出て揃ってお辞儀した。拍手が少し収まったところで、ヴァイオリンの先輩がマイクを手にする。
「えっと。練習は、とくに曜日を決めないで、集まれるときに集まれるメンバーでやっています」
そこでなぜか会場で笑いが湧く。ヴァイオリンの先輩は、二‐三度うなずいて間を取り、続けた。
「ま、今回みたいな本番前は別ですけど。
そこまで言ったとき、二度めの「ちーん」が鳴った。またタイミングをぴったり合わせた! もういちど、みんなでお辞儀して、また盛大な拍手をもらっている。
「はい。室内楽部のみなさんでした」
ちょっとぽっちゃりの司会の先輩も、いまの演奏に興奮しているようだった。
「明珠女学館第一高校の室内楽部と言ったら伝統ある部活で、かつては……」
司会者の先輩が続けている。舞子は稲子に
「まだ聴く?」
ときいてみた。ちょっと遠慮がちにしたつもりだ。稲子ははっきりと首を振った。
「行こう」
とカンバスの肩掛けバッグを引き寄せる。
「いまの聴けば十分でしょ」
「そうだね」
言って、舞子も立ち上がり、群がる大人たちにいちいち頭を下げてかき分けながら、稲子を従えてその大きい教室を出た。
ほんとに、親の率高いな、この教室……。
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