第10話 午後の模擬授業 その2

 「じゃ、ほかのひと」

 なんとなく稲子いねこが答えそうな予感がした。でも、答えたのは、さっきのピンクタンクトップ白カーディガンの子の隣にいた、白シャツの制服の子だった。

 「細い弦のほうが音は高くなります」

 この子も立ち上がってはきはきと答えた。顔の頬のところがすべすべで、外からの光をいっぱいに照り返している。

 「はいそうです」

 タマネギ頭の先生が勢いよく答えた。

 「ベース、上の弦のほうが太いでしょ? こんど、弦を張るときに確かめてみてください」

 「あ、いえ」

 バンドのベース少女が答える。

 「そうです。上のほうが太いです。一弦とかはすごく細いんですけど、ギターの子にはその一弦もめちゃくちゃ太いって言われて、傷つきました」

 なぜそんなので傷つく? 同じことをみんな思ったらしく、教室のあちこちで笑いが起こる。先生も笑って説明する。

 「ギターのほうが音が高いから、弦一本も細いし、楽器のネックの長さも短いんですね」

 「はあ……」

 ベース少女は、納得したのか、してないのか。

 「こんど、ギターの子とよく話し合っておきます」

 そう言って勢いよく座る。いや話し合ってどうにかなるものではないから。みんなそう思ったらしく、こんどは教室にいるみんなが笑った。

 この教室はあの新治にいはり附属の階段教室より狭い。座れる人数もすぐにわかる。一つの列に机が八個で、列が八つだから、六十四人。座っているのは半分よりちょっと多いぐらいだから、ここにいるのは三十五人から四十人ぐらいだろう。親も混ぜてだけど、中学校の普通のクラスと同じくらいの人数だ。

 それが、こんなにみんなで笑ったり、自分から手を挙げて答えたりするものだろうか?

 明珠女めいしゅじょってそういう学校? そう思って、いやいやこれは体験授業なのだから、ふだんもこんなものだと思ってはいけない、と思い直す。体験授業とか模擬授業とかいうのは見せるためのものだから、それがそのままその学校の授業だと思ってはいけない、と、進路指導の先生にも言われた。

 タマネギ頭の先生は、ちらっと教卓の上を見た。顔を上げて、言う。

 「では、引っぱる力は別として、長さが短いほうが高い音が出る、弦の太さが細いほうが高い音が出るというのは、つまり、何が音の高さを決めているのでしょう?」

 これも答えがわかってないと何をきかれているかわからない質問だな。

 そのとき稲子がすっと右手を挙げた。

 一心不乱に、というように、タマネギ頭の先生を見つめている。

 「はい」

と先生が稲子のほうに手を伸ばした。指さしたりはしないが、手のひら全体で稲子を指している。稲子が顔を上げて座ったまま答える。

 「太さというのは底面積だから、底面積と長さで、鳴るものの体積だと思います。体積が小さいものは音が高くなって、体積が大きいものは音が低くなります」

 バンド少女よりもタンクトップ少女よりもその隣の制服少女よりも弛んだ声で、でもはっきりと稲子は答えた。

 たしかに、と舞子まこは思う。

 管楽器、とくに金管楽器を考えるとそうだよね。チューバとかホルンとか、見ただけで「体積が大きい」のがわかる。

 「そのとおりです」

 タマネギ頭の先生はじっと稲子を見ている。その稲子に質問を続ける。

 「では、どうして鳴る体積が小さいものだと高い音、鳴る体積が大きいと低い音になるのでしょう?」

 「エネルギーだと思います」

 稲子はまた弛んだ声ですかさず切り返した。そういえば、今日はセーラー服の前のファスナーを下ろさず、リボンもしっかり結んでいる。

 先週の新治附のときよりも今日のほうが暑いのに。

 そして、それでも声には緊張感がない。

 「高い音を出すほうがエネルギーが必要だとして、小さい体積にエネルギーが集中すると高い音が出て、大きい体積にエネルギーが薄まっていくと低い音になるんだと思います」

 「うん」

 先生は口を結んで、稲子を見ている。

 なんか、怒りそうな感じ?

 「正解です」

 先生は簡潔にそう告げてから、にこっ、と笑った。体の緊張を解く。

 「いやぁ、この答えに到着するまで、もっと話をしないといけないかな、それで時間切れになるかな、と思ってたんだけど、すぐに答えが出ましたね。次の試験の受験生は優秀だなぁ」

 いや、全員がそうかどうかわからないけど。

 先生はそのまま続けた。

 「時間切れにはならなかったですけど、時間が終わりそうというのは変わらないので、まとめ、行きます。音っていうのは波の一種で、響くものの体積が小さいほど高い音が出ます。それは、高い音を出すためにはエネルギーが高くないといけないからで、同じエネルギーだと体積が小さいほうがエネルギーの高い音を響かせやすいからです。まあ、楽器の場合は、いろいろな要素があって、そうかんたんには言えないところがあるんだそうです。けど、基本的には、そうです。そうだということです」

 先生はことばを切って、教室を見回した。

 「ここから先は、今日は言っていないところですけど」

と前置きしてから、続ける。

 「音も、海の波も、あと光とか電波とかもぜんぶ波なのですけど、その波の大きい役割は力を伝えてエネルギーを響かせることなんです。それに気づいたことで、物理という学問の世界はとても大きく広がったんですけど……そのお話は縁あってみなさんとこの学校で学ぶことができるようになれば、そこでやることにしましょう。それでは、物理の模擬授業はこれで終わりにします」

 タマネギ頭の先生が教卓のところで頭を下げると、教室のどこかから拍手が起こった。舞子もあんまり熱心ではない拍手を送る。いい授業だと思わなかったから、というのではない。授業に拍手なんかするものかな、とためらっていたからだ。

 「先生、ありがとうございました」

 教室の外から入ってきた制服の女子生徒が、手を腰の前に揃えて一礼する。明珠女一高の夏の制服は、袖に細い青のラインが入った白の開襟シャツと、明るい青色のボックスプリーツのスカートというシンプルな服だ。

 司会役であるらしいその女子生徒が言う。高校の……何年生だろうか?

 「ちょうど時間どおり終わってくださいました。さすが物理の先生ですね」

 何の関係がある? いや、うちにいる物理の先生なんか、とても時間に不正確なんだけど。

 ま、自分の母親だけど。

 「模擬授業のほうは、三十分後、定時ですね、国語の古典の授業を始めます」

 司会の女子生徒が流暢に話す。

 「下の階では受験相談、生徒生活の紹介、あとここの三階では部活の公開もやっていますので、ご自由に回ってみてください。あと、食堂とか軽食とか飲み物など、あといろんなものの販売は、ここの一個隣の建物の一階です。あ、それと、ここの東側、海とか駅の近いほうですね、そこの、ロープの張ってあるエリアは中学校の敷地ですので、恐れ入りますがそこには立ち入らないようにお願いします。それでは、明珠女学館第一高校での夏のひととき、ご自由にお過ごしください」

 ここで会場にもう一礼する。そして先生のほうに軽いステップで歩んで行った。

 さっきのふしぎに青白い眼鏡の子が、さっそく教卓のところに行って、その物理の先生に話しかけている。この子のばあい、青白くて透きとおりそうなはかなげな要素が、ずんぐりしていて少しも不健康に見えない実在感と結びついているからふしぎだ。その子が先生のところに行ったのを見たからか、後ろのほうから、あのピンクタンクトップ白カーディガンの子とその連れの子が、スキップするような早足でその先生のところに行く。

 稲子はどうするだろう? 「体積」とか「エネルギー」とかを言い当てた稲子のことだから、先生のところに行くだろうか?

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