第9話 午後の模擬授業 その1
座っている場所はやっぱり教室の左のまん中あたりで、舞子がいちばん左の列、稲子がその隣だ。広い窓から外がよく見える。外は噴水池のある中庭で、あまり大きくない木が植わっている。その向こう側も高校の校舎だそうだ。濃いベージュというのか濃い黄土色というのか、そういう色のレンガ造りのような建物だ。
この
いまは物理の模擬授業をきいている。今度も舞子も稲子も一人で来ている。舞子のお母さんはまた加速器につきっきりだ。いまやっている実験が終わるまで帰れそうもない。お父さんは昨日夜十一時を過ぎて帰ってきて、舞子が家を出るまで起きても来なかった。きかなかったけれど、稲子のご両親はいまもまだカキ入れどきなのだろう。
教室の前で話しているのはタマネギ頭の女の先生だ。世間的にタマネギ頭とはどういうのをいうのかはよく知らないけど、髪の色が薄くてタマネギの皮っぽいのと、それほど長くない髪を頭の上で無理やりまとめている感じがとてもタマネギっぽい。声は艶があって、通りがよい。
「それでは、今日、ここに来ているみなさんは」
そのタマネギ頭の先生が教室に問いを投げかけた。
「振動するものの長さが長くなると、音は高くなると思いますか? それとも低くなると思いますか?」
舞子にはすぐに答えがわかった。
低くなる。ヴァイオリンでポジションを上げると音は高くなる。ポジションを上げるということは、鳴る弦の長さを短くするということだから、音の出るものの長さを短くすると音は高くなる。その逆で、振動するものの長さを長くするというのはポジションを下げることだから、音は低くなっていく。
「ただ問いかけるだけではつまらないので、入り口でお渡ししたうちわを使いましょう」
たしかに、受付でもらった資料にはうちわがついていたのだが、教室があまり冷えないからうちわであおいでください、ということではなかったのか?
「エアコンが効かなくて暑いと思っているひともしばらくがまんして」
やっぱりそうか。少なくとも暑がりの舞子には教室はちょっと暑い。
「音が高くなると思うひとは明珠女学館とかの字が書いてあるほうを、低くなると思うひとは字が書いてなくて青色一色のほうを前にして掲げてみてください。あ、音が変わらない、って答えはなしで。どうでしょう?」
これでだれも上げなかったら間が悪い。べつにこの先生を応援する義理もないけれど、舞子はすぐに勢いよく青色のほうを前にしてうちわを上げた。するとそれにつられるように何人かが同じようにうちわを上げる。
隣の稲子のようすを伺うと、右手の人差し指と左手の人差し指を机の上に並べて、その距離を近づけたり遠ざけたりして考えている。それでけっきょく舞子と同じように青いほうを前にして上げた。
教室を見回すと、「低くなる」の青い色が少し多いくらいで、だいたい半々だ。いっしょに来ている親と娘で解答が反対なのは、娘が親に逆らったのか、それとも親か娘かどっちか一人は当たりになるようにするためだろうか。
当たっても景品は出ないと思うけど。
「はい」
弦の音の高さはともかく、タマネギ頭の先生の声は少し高くなった。
「じゃあ、正解を言う前に、高くなるという答えのひとに、理由を聞いてみましょう。だれかいませんか?」
答える生徒はだれもいない。しばらく待ってから、先生はうなずいた。
「じゃ、前から二列めで、こっちから三つめの机のあなた、どうでしょう?」
「こっち」というのは右側で、舞子のいるのとは反対側だ。斜め後ろから見てみると、ずんぐりした感じの丸顔の眼鏡の子だった。顔の色が青みがかっていて透きとおるようだ。光の具合かも知れない。親はいっしょではなく、一人で座っている。
「立ったほうがいいですか?」
声は透きとおるようではなかった。
「いえ、すわったままでいいですよ」
「輪ゴムをこうやって」
と、その子は顔の前に両手を出して、輪ゴムの端をつまんでいるしぐさをする。
「それで引っぱりながら輪ゴムを
なるほど。
「実際の体験にもとづいたいい答えですね。では、高くなる、っていう……いまの方の一つおいて斜め後ろのあなたはどうですか?」
「あ、はい」
立たなくてもいいと言われているのに、その子は立ち上がった。夏なのに紺色の長袖のセーラー服を着た、背の高い子で、唇をつんと突き出している。この子は両親と一緒に来ているらしく、大人にはさまれて座っていた。
「わたし、バンドでベースやってるんですけど、ベースって、その、手をこっちのほうにやると」
こっちのほう、と言って、左手をぐんと左へ延ばす。
「低い音になるっていうのは、弦が長くなると音が低くなることじゃないですか? だから、低くなると思います」
ああ、そうか。バンドでベースと来たか。たしかに、弦楽器というのはクラシックだけのものじゃないよね。
でも、なんかこの子派手好きそう。
教室の前の先生はうれしそうにうなずいた。
横の稲子を見て舞子はあれっと思った。左手を左胸の前に出して指で一本ずつ指板を押さえるようなしぐさをしている。それを繰り返す。たぶん、その背の高いバンド少女が言った、ベースで押さえるポジションを動かすと音が低くなるというのを確かめているのだろうけど。
さっきは机の上で人差し指で距離を測るしぐさをしていた。この子が「熱心に聴く」というのは、こういう、指や腕が動いてしまうときなのだろう。
「はい。これも実体験ですね。いまの答え、二つ並べて考えてみましょう」
先生は黒板を振り向き、「ゴムを伸ばすばあい」と「楽器の弦の長さのばあい」と書いて、それぞれ、線を両方から矢印で引っぱっている図を書いた。
「さて、ゴムを左右から引っぱってゴムの長さを長くするばあいと、弦楽器の弦の押さえる位置を遠くして弦の長さを長くするばあいで、同時に何かほかのことをやっていないか考えてみることにしましょう。つまり、長さを長くする、以外で、音の高さを変える何かのことを同時にやっていないか、なんですけど……わかりますか?」
これ、答えを知っていたら何を言いたいかわかるけど、そうでないと、何を質問しているかがまずわからないな、と、舞子は思う。でも
「はい」
と後ろで手を挙げた子がいた。いちばん後ろで女の子二人で並んでいるうちの一人だ。
「はい、じゃあ、いま手を挙げた子、いや、子じゃなくて、手を挙げた方」
先生自身と会場の半分ぐらいが短く笑う。
「はい」
その子は笑わないではきはきと答えた。立つ。
薄いピンクのタンクトップの上に白い薄手のカーディガンを着ている。胸がほどよく大きいのをアピールしている。こんな服で高校のオープンスクールとか来る子がいるんだ、中学生なのに、と思う。
「ゴムを引っぱるほうはゴムに左右から引っぱる力を加えています。しかし、ベースのほうは、弦を引っぱる力は楽器に弦を張ったときのままで変わらないので、押さえる場所を変えたからといって、弦を引っぱる力は変わっていません」
「はい。じゃあ、弦の長さを長くすると、音が高くなるか低くなるかというと?」
「高くなります!」
その子は堂々と答えた。へんだと思ったのは舞子一人ではないらしい。教室は軽くざわついた。稲子も、その肩幅の大きい体をその子のほうに向けて振り向いている。
白カーディガンの子の隣の子が、その子を見上げて、肘で突くふりをした。この子は普通に制服らしい白いシャツを着ている。それで白カーディガンの子は気がついたらしい。
「あ、違った! 低くなります!」
ピンクタンクトップに白カーディガンの子はいっそう高い声で言って、先生の反応を見ないでぺたっと座った。
「はい、そうです」
先生は、最初に、ゴムを引っぱると音が高くなると答えた、顔色がふしぎと青白い、眼鏡をかけた子のほうを見た。
「あなたの答えは、つまり、ゴムに力を加えて、引っぱって、延ばすと音が高くなるということですね? 輪ゴムを引っぱって倍の長さに延ばしたら音は高くなりますが、もともと倍の長さだったゴムを引っぱって延ばさないで
「いいえ」
ふしぎに青白い眼鏡の子は落ち着いて答えた。
「低くなると思います」
「そうですね。ゴムでも弦でも、加えている力を変えないで長さを長くすると音は高くなり、短くすると音は高くなります。では次に……」
先生が黒板消しを持って黒板のほうを向きかけたとき、
「あ、先生」
とバンドのベース少女が声を上げた。
「はい」
先生も落ち着いて答えている。
「ベースの端のねじを回すと、おんなじ弦でも音が高くなったり低くなったりするんですけど、それって、そういうことですか?」
隣で稲子がぐぷっと笑いかけている。「それって、そういうことですか」ではわからない。糸巻きの部分を締めると音が高くなり、ゆるめると音が低くなるのは、力を加えて弦を引っぱると音が高くなるからですが、ということなのだろうけど。
ロックのベースもヴァイオリンと同じ構造なんだな、と、舞子は感心する。
「そういうことです」
先生がそう繰り返して、教室のあちこちから短い笑いが起こった。もともとぐぷっとなりかけていた稲子はこんどは口を小さく開いて笑った。
「弦の引張り力を強めると音が高くなって、弱めると音が低くなるということです。じゃあ、ついでに、いまのベースをやっている方」
「はい」
「あなたの弾いているベースでは、太い弦と、細い弦では、どっちのほうが音が高いですか?」
「えっ?」
ベース少女は意表を突かれたらしい。
「えっと……上のほうが低音弦なんですけど」
先生が軽くうなずく。
「その上のほうの弦と、下のほうの弦では、どっちが太いですか?」
「えっと……それは」
そんなの、すぐわかるでしょ?
ところが、わからないらしい。
そういうのがわからないで弦楽器を弾いているひとがいるというのが、舞子には驚きだ。
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