第8話 怒らせると怖い先生かあの女か

 レッスンが終わって帰る直前に言おうと思っていたけれど、これからやる最後の通し練習の出来が悪かったら、いっぱい指摘を受けて頭がいっぱいになって忘れてしまいそうだ。

 「ところで、次のレッスンなんですけど」

 こういうときに、自分の声が細くて澄んでいるのが、なんだか疎ましい。

 「うん」

 先生はまたケーキを切ってぱくっと食べた。もぐもぐしている。そのもぐもぐが終わって、

「日曜日、今日とおんなじ時間だったわよね?」

 「それが、来れなくなってしまって」

 「あら、どうして?」

 先生は無邪気に顔を上げた。無邪気に見えるように。

 でも、これはかちんと来てるな、というのが舞子まこにはわかる。

 演奏家として忙しい先生に、わざわざ時間をとってもらっているのだ。

 それを、直前になって、来られないと言うなんて。

 「発表会まで来週であと三週間、しかも先生はその次の日からアイルランド行くから、そのあと十日はレッスンできない、っていうのはわかってるよね?」

 「はい」

 前に、この未亜みあ先生と、同じ年頃のチェロの先生、そして未亜先生よりちょっと歳上のピアノの先生の三人で演奏会をやったことがある。舞子も聴きに行き、未亜先生の「弟子」ということで、終わったあとのパーティーにも入れてもらった。そのとき、チェロを弾いていた宮城野みやぎのみかという先生から

「あなたは怒られたことないと思うけど、未亜って本気で怒らせると怖いから、気をつけなさいね」

と言われた。小悪魔みたいな、くすぐるような声で、いたずらっぽく笑って、だったけど。

 先生が本気で怒ると怖いんだ。

 それを考えると、やっぱりあのでぷっとした女のほうを断っておくべきだった。

 WiSワイエスでやり取りする合間には、やっぱり断ろうか、と何度も思った。でも、一度はあの子と約束したのだ。断るには理由が必要で、そのためには、舞子がヴァイオリンを習っていることから説明しなければならない。あの女が「えーっ? ヴァイオリン習ってるんだ!」などと言ってきて、「どうしてヴァイオリンを始めたの?」とかきいてきたら、答えを考えないといけない。そういうのがうっとうしくて、断ると言えなかった。

 言えなかったから、先生に言うしかない。

 「じつは、高校の見学会がその日で」

 「うん……」

 先生の返事は不景気だ。

 「どこの高校か、よかったら教えてくれない?」

 それは、舞子がうそをついていると思われているのだろうか? もしうそならば、すぐに学校名は言えないかも知れないし、てきとうに答えたら、あとで見学会の日を調べてみればすぐにバレる。

 うそではないからいいのだけど、なぜ明珠女めいしゅじょ、ときかれたらどう答えよう?

 先生は上目づかいに舞子を見ている。自分のレッスンがどこの高校に負けたのか、確かめたいとでもいうように。

 あまり考えている余裕はない。

 「明珠女一高いちこうですけど」

 「まあっ!」

 先生は大きい声で反応した。それまで丸めていた背中をぴんと伸ばす。

 どういう意味なのかわからない。もしかすると、あんな田舎のほうの高校に行くのでレッスンを休むなんて、とあきれているのかも知れない。

 「そうなんだ。やっぱり、海潮うしおさん、舞子ちゃん、明珠女受けるんだ!」

 この先生も、たんに「明珠女」といえば第一高校のことだと思っている。

 それで正解なんだけど、第二高校もあるんだけどなぁ。

 というより、この先生の反応は何?

 少なくとも、怒ったのではない。

 「ああ、考えてみれば、それはそうだよね! そうかぁ」

 先生は、それまでの不景気な表情を忘れたように、そして浮かれたように、感心している。

 「じゃ、レッスンはいいから、ちゃんと行って、ちゃんと見てきなさい。レッスンのかわりの日取りは、あとで調整しよ。わたしがアイルランド行く前に日が取れるかも知れない」

 言いわけが通って、舞子はほっとした。

 それに、あのでぷっとした稲子いねことまた会えるのだ。

 明珠女では、あの女は何を食べるだろう? 田舎の高校だから、食堂とかにそんなにいいメニューがあるとは思えないけど。

 いや、明珠女もたしか大学あったよね? それも第一高校とおんなじ敷地に。それでも、新治みたいに、休みの日も食堂開いてるかな? 新治の食堂が開いているのは、大きい学校で、休日に出てくる学生もそこそこいて、何より、お母さんのように実験とかで平日休日に関係なく出てきている教授とか准教授とかポスドクとかも多いからだ。

 明珠女はどうかな?

 そんないろんな思いが頭を駆けめぐる。

 それで、先生がどうして明珠女ときいて急に態度が変わったか、その謎を考えるのを忘れてしまった。

 そういうものだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る