第8話 怒らせると怖い先生かあの女か
レッスンが終わって帰る直前に言おうと思っていたけれど、これからやる最後の通し練習の出来が悪かったら、いっぱい指摘を受けて頭がいっぱいになって忘れてしまいそうだ。
「ところで、次のレッスンなんですけど」
こういうときに、自分の声が細くて澄んでいるのが、なんだか疎ましい。
「うん」
先生はまたケーキを切ってぱくっと食べた。もぐもぐしている。そのもぐもぐが終わって、
「日曜日、今日とおんなじ時間だったわよね?」
「それが、来れなくなってしまって」
「あら、どうして?」
先生は無邪気に顔を上げた。無邪気に見えるように。
でも、これはかちんと来てるな、というのが
演奏家として忙しい先生に、わざわざ時間をとってもらっているのだ。
それを、直前になって、来られないと言うなんて。
「発表会まで来週であと三週間、しかも先生はその次の日からアイルランド行くから、そのあと十日はレッスンできない、っていうのはわかってるよね?」
「はい」
前に、この
「あなたは怒られたことないと思うけど、未亜って本気で怒らせると怖いから、気をつけなさいね」
と言われた。小悪魔みたいな、くすぐるような声で、いたずらっぽく笑って、だったけど。
先生が本気で怒ると怖いんだ。
それを考えると、やっぱりあのでぷっとした女のほうを断っておくべきだった。
言えなかったから、先生に言うしかない。
「じつは、高校の見学会がその日で」
「うん……」
先生の返事は不景気だ。
「どこの高校か、よかったら教えてくれない?」
それは、舞子がうそをついていると思われているのだろうか? もしうそならば、すぐに学校名は言えないかも知れないし、てきとうに答えたら、あとで見学会の日を調べてみればすぐにバレる。
うそではないからいいのだけど、なぜ
先生は上目づかいに舞子を見ている。自分のレッスンがどこの高校に負けたのか、確かめたいとでもいうように。
あまり考えている余裕はない。
「明珠女
「まあっ!」
先生は大きい声で反応した。それまで丸めていた背中をぴんと伸ばす。
どういう意味なのかわからない。もしかすると、あんな田舎のほうの高校に行くのでレッスンを休むなんて、とあきれているのかも知れない。
「そうなんだ。やっぱり、
この先生も、たんに「明珠女」といえば第一高校のことだと思っている。
それで正解なんだけど、第二高校もあるんだけどなぁ。
というより、この先生の反応は何?
少なくとも、怒ったのではない。
「ああ、考えてみれば、それはそうだよね! そうかぁ」
先生は、それまでの不景気な表情を忘れたように、そして浮かれたように、感心している。
「じゃ、レッスンはいいから、ちゃんと行って、ちゃんと見てきなさい。レッスンのかわりの日取りは、あとで調整しよ。わたしがアイルランド行く前に日が取れるかも知れない」
言いわけが通って、舞子はほっとした。
それに、あのでぷっとした
明珠女では、あの女は何を食べるだろう? 田舎の高校だから、食堂とかにそんなにいいメニューがあるとは思えないけど。
いや、明珠女もたしか大学あったよね? それも第一高校とおんなじ敷地に。それでも、新治みたいに、休みの日も食堂開いてるかな? 新治の食堂が開いているのは、大きい学校で、休日に出てくる学生もそこそこいて、何より、お母さんのように実験とかで平日休日に関係なく出てきている教授とか准教授とかポスドクとかも多いからだ。
明珠女はどうかな?
そんないろんな思いが頭を駆けめぐる。
それで、先生がどうして明珠女ときいて急に態度が変わったか、その謎を考えるのを忘れてしまった。
そういうものだ。
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