第6話 紅茶とケーキと未亜先生
窓から見える庭には太陽の光がこれでもかというくらいに降り注いでいて、明るいというよりまぶしい。
でも、ダイニングテーブルは窓から離れているので、外の明かりはそれほど入ってこない。庭への出入り口のガラス戸から、緑に彩られた庭が見える。ちょうど大きな絵を飾っているみたいで心地いい。もちろん冷房も効いていて、体を動かしてうっすら汗をかくくらいだ。
「あ、
いつものことだ。先生は自分のキッチンには舞子を入れてくれない。
分厚い木の椅子は重くて、どっしりしていた。座るとクッションがふわんとなって心地いい。クッションくらい舞子の家の椅子にもあるが、先生の家の椅子もクッションも、舞子の家のものよりも何ランクか上のようだ。
先生の家は、一階の大部分がこのとても広いリビングダイニングキッチンというつくりになっている。ピアノもここに置いてあって、お茶を飲むのもレッスンもこの広い部屋でやる。
部屋が非常に広いからか、部屋のなかには何本も柱が立っている。柱はどれも白い色に塗ってあって、天井近くには装飾がついている。その装飾が植物っぽいのだけど、さらにどの柱にも柱の中ほどに鉢が取りつけてある。ツタか何かの植物がその鉢が下がっている。
いま舞子が座っている椅子からいちばんよく見える柱には、その植物の上に若いころの先生の写真が飾ってあった。
演奏を終えたすぐ後らしく、左手にヴァイオリン、右手に弓を持っている。着ているのは胸のところが大きく開いた薄いすみれ色のドレスだ。頬が盛り上がって、紅色に染まっている。その胸に金色のネックレスが光っていた。赤い口紅を塗った唇は開いていて、客席に何か言っているところだろうか。
「ああ、その写真?」
後ろから先生に声をかけられてびくっとした。先生は、お盆から、舞子の前に紅茶とケーキを置き、フォークと紅茶用のスプーンを添えてくれる。
毎回、お茶とケーキを出してもらうので、ヴァイオリンを習い始めて最初のころは親がお菓子をもたせてくれていた。でも、先生に「ケーキも月謝のうちですから」と言われてやめた。「じゃあ、ケーキこっち持ちでいいですから月謝を安くしてください」と言ったらどうなっただろう? それでお茶の時間が消滅するといやなので、試してみたことはない。
先生は、声をかけてから、キッチンまでお盆を戻しに行き、かわりにお砂糖とミルクを持って来てくれた。舞子の向かいに腰掛ける。
その写真はずっとここにかかっていた。舞子がここに初めて来てからずっと、だったかどうかはわからないが、だいぶ前からだったのは確かだ。何度も「あ、こんな写真あるな」と思ったのは覚えている。そしていまもたまたま見上げていただけだ。
けれども、先生は舞子がこの写真をじっと見ているのが嬉しいのかも知れない。だから、先生が戻ってきてから、またその写真を見上げた。
先生は、自分のカップとケーキ皿を前に、かわいらしく手を合わせた。小さく
「いただきます」
と言う。舞子も同じようにする。先生も紅茶の会社とか世界のどこかのお茶農家とかケーキのお店とかからいただいているのだろうけど、舞子は目の前にいる先生から紅茶とケーキをいただいているので、「いただき」度が高い。
自分で入れてきた紅茶にミルクを入れて、ちょっとだけ飲んでから、先生は言った。
「ほんとうに最初かどうかわからないけど、覚えているかぎりで最初に、おカネを取って一人でステージに立ったときの写真。一人で、って、ピアノの先生がいっしょだったけどね」
軽く笑って、さっきより多く紅茶を飲み、カップを置く。
舞子も、砂糖とミルクを入れてお茶を飲んだ。紅茶を出してもらえるようになったとき、どれぐらい入れていいかわからず、大人ぶって入れなかったら「ミルク、そんなのでは足りないでしょ?」と言われた。先生もたくさん入れているから、たくさん入れるのが正解らしい。それからはたっぷりと入れることにしている。
先生と同じミルクティーになったのは小学校六年生からだ。「舞子ちゃんももう大人だから」と言われて、誇らしい気もちになったのを覚えている。でも、正直に言えば、そのころはそれまで出してもらっていた甘い冷たいミルクコーヒーでなくなったのは残念だった。
「この写真ね。ほんとにこれで終わったのかな、っていう気もちで、不安で、それが顔に表れてるよね」
言って、笑って、先生はケーキを切って食べる。大人の食べかたという感じで、そつがない。
そういえば、あのパンケーキをちまちま切って食べるやつのせいで、あとで先生に話をしなければならないことができてしまった。
なんか、いまいましい。
「そうですね」とは言えない。また、ほんとに、そうは思わなかった。
「いや、なんか、すごい、達成した、って感じが伝わってきますけど?」
「うん」
先生はケーキを食べながらうなずく。舞子もケーキを口に入れた。
いちど思い出すとあの大学の食堂のケーキを続けて思い出してしまう。
こっちは作り置きで水分が抜けたのをメープルシロップでごまかしているパンケーキとはぜんぜん違う。「ちゃんとしたケーキ」だ。
「いや、まあ、ほんとはそういう気もちだったかも知れないなぁ。たいせつなときほど、ほんとに感じたほんとの気もちなんて、あとでいろんな思いが入り込んで、わからなくなってしまうからね」
言って、カップを持つ。
「そのときは、いまが人生でたいせつなときだ、節目だ、とか感じたりはしないから」
「いや、でも」
舞子は紅茶のカップを持って言う。
「最初のステージって、やっぱりたいせつなときでしょう?」
先生本人が「そのときにはそんな感じはしない」と言っているのに、
先生はくすっと笑った。
「いや、それは頭ではわかってるよ。ピアノを担当してくれた、
ミルクティーを飲んで、わざと横目で舞子を見る。
「いや、それはわたしはいつもそうですけど」
発表会で、楽譜の反復記号で戻るところがわからなくなって、二小節ぐらい弾くのが抜けてしまったこともある。譜面は譜面台に置いているので、それを確かめればいいようなものなのに。それが去年のことで、小学生のころはもっとひどかった。本番で何を弾けばいいかわからなくなって、泣き出したこともある。
「まあ、似たようなものよ」
先生は軽く言う。
「そうじゃないひともいっぱいいると思うけど、わたしは、そう」
笑う。笑うとこの先生はえくぼができて、とてもかわいい。で、ちらっと写真のなかの先生を見てみると、そのえくぼは写っていない。
そのころはえくぼができなかったのか、それともやっぱり心から笑っていなかったのか。舞子にはわからない。
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