第3話 舞子と稲子

 新治にいはり大学附属高校は新治大学の隣だから、高校から大学まではすぐに行ける。

 その食堂で

「わー、おいしそう!」

と言って太った子が買ったのは、クリームとつぶあんがたっぷりのパンケーキだった!

 太るよ、と思う。

 こういうのをいつも食べていて、その結果としてこの子はこんなに太ってしまったのだろう。

 舞子もつきあってメープルシロップがたっぷりでアイスクリームのついたパンケーキを買った。舞子は太らないのか、というと、あとで何かでバランスを取る。必ず取る! この子はもとから太っているからいいだろうけど、舞子は小柄なので太るとすぐ目につく。

 「で、名まえは? ……うんー、おいしーっ!」

 食べるか質問するかどっちかにしてほしい。でも、目を超とても細めて、ほっぺを盛り上がらせてもぐもぐとパンケーキを噛んでいる相手の顔は、幸せっていうのはこういうのだろうな、と思うほどすごく幸せそうだ。

 まだ食べてない舞子にも、柔らかいクリームが口のなかでとろけていく食感が伝わって来る。

 こういうのって、得だよね。

 「海潮うしお舞子まこ。字の説明は食べてからするね」

 そう言って、自分のパンケーキもナイフで切って口に運ぶ。お菓子用のちっちゃいナイフではなくて肉とかを切るのと共通だけど、大学の食堂だからしかたない。もちろんフォークも大きい。

 ほっ。

 自分も目が細くなって口もとが緩くなるのがわかった。

 「やっぱり、おいしいね」

 ふふんと笑う。メープルシロップの味がぽわっと広がって行く。向かいに座った相手のパンケーキにもメイプルシロップはかかっているはずだけど、こっちのほうが量が多い。

 相手の子も、目が「超とても細い」から「普通に細い」ぐらいまで広がったけど、嬉しそうな表情は続いている。

 「えっと」

 相手が次の話に移らないうちに自分から説明する。

 「海潮は、海の潮。潮はなめると辛い塩じゃなくて……って辛いのはいっしょか」

 笑う。普通は「海の潮」だけで止めておくんだけど。

 「海の水のことね。満ち潮引き潮とかいうときの。海の潮の二文字で「うしお」」

 「潮」一文字で「うしお」というのもあるらしいので、そう言っておく。ま、「牛尾」とか「牛男」とかに間違われなければいいんだけど。

 「舞子は、ダンスして舞うっていう字と、普通の子。普通は「まいこ」だと思うんだけど、なぜかまこ」

 お母さんに説明を求めると、「舞う」が「まう」になるのは送り仮名に「う」がつくからで、「舞」という文字の読みは「ま」だから、「舞子」で「まこ」でいいんだという、理屈っぽいけれどあんまり納得できない答えが返ってきた。物理学の研究なんかやってるとこう理屈っぽくなるのかと思った。自分で説明するときは「なぜか舞子」と言っている。漢字だけ見るとみんな「まいこ」と読むので、めんどうくさい。

 「わたしはさ」

 心ゆくまでもぐもぐした相手の子が、きかれる前に言う。感心感心。もっとも、これだけではこれから自己紹介が始まるとは限らないけど。

 「毛利もうり稲子いねこっていってさ、わりと常識的な字」

 それで、またパンケーキを切ってぱくっとする。見ていると、わりとつつましく、小さく切っている。

 そんなに少しずつ食べてたら冷めるよ、と言いたいところだけど、もともと作り置きをあっためてあって、乾きかけていたパンケーキで、冷めて味が変わるというほどのこともないだろう。それにタッパーに入っていたつぶあんをすくって、生クリームをかけて。

 大学の食堂だから、そんなものだ。

 ところで、常識的な字って、どれが常識的?

 「毛利なんとかって幕末とかにいた殿様の毛利と、食べるご飯の稲と、子」

 「植物の稲」ではなく「食べるご飯の稲」なのか。そりゃ太るよ。

 ところで、毛利って、幕末……?

 よく覚えていない。来年の初めに高校に入るための試験を受けるのにそれでいいのかと思うけど。

 そのかわり、ちくっ、ときいてみる。

 「で、その殿様の家系?」

 しらじらしく目をそらして自分もパンケーキをぱくっとする。うん。しょせんは大学の食堂のパンケーキと思っても、甘くておいしいものはおいしい。

 「あ、ぜんぜん違う」

 言って、いつもどおり、目をとても細める。

 「毛利ってほんとはいろいろあってさ、あの殿様の家系だけが有名なだけ。うちなんか、うちのまわりが森だったから森って言ってて、明治にその長州の毛利が有名になったから毛利って字にしただけじゃないのかな? わかんないけど」

 わかんないなら言うな。もし間違ってたらご先祖様に失礼だろ?

 もっとも、舞子も「海潮」というわりと珍しい名字がどこから来たか知らない。親戚は東京にいるけど、もともと東京の家かどうかわからない。

 似たようなもの?

 「家のまわり、森なんだ?」

 「あ、昔はね」

 毛利稲子は言った。こんどはべつに笑わない。

 「穴生あなおってところでさ。山の上に大きい神社があって、坂の途中がぜんぶ家になってるんだけど、お父さんが生まれたころにはまだ半分ぐらい森や竹藪だったんだって」

 穴生ならばわかる。

 「そこに、明治の前からずっと?」

 「わからないけど」

 わからないんだったらさっきの話成り立たないじゃん?

 「でも動いたとしても百メートルぐらいだね。その坂の向こうのほうに本家ってあってさ。うちがほんとは本家らしいんだけど、ずっと前、昭和のころにそっちが本家だって言い出して、言い争いするのもめんどくさいからってほっといたら、いつの間にか向こうが本家ってことになったらしくて。それでうちが追い出されていまのとこに移ったのか、それとも本家のほうが出てっていまの家に移ったのか。覚えてるひとがもういなくて、わかんない」

 なんかすごいな。古い家なんだ。それにおカネ持ちっぽい。

 でも、あまり追及せずに、パンケーキを味わうことにする。

 冷めてシロップが硬くなってきた。あ、それと、早めにアイスクリーム食べないと融けてしまう。

 うん。融ける前に食べるよりも。

 「あ、アイスクリーム半分ね」

 といってフォークでアイスクリームを割って、半分以上を稲子の皿に置く。

 「あ」

 稲子は困った顔をした。口を半開きにして、ずっと細かった黒い目をちゃんと開いている。

 「どろどろになったつぶあんと生クリームって、いらないよね?」

 いらない。

 そう言うと険悪になりそうなので

「今度、何かの機会になんかちょうだい」

と言う。「今度、何かの機会」なんてあるのかわからないけど。

 でも、たがいに名まえを知ってしまったし、あるんじゃないかな、と、このときはなんとなく思った。

 「うん」

 言って、毛利稲子はそのどろどろになったものをすくって食べている。食べて、目を細くして笑って、そして舞子からもらったアイスクリームをパンケーキの上に載せた。

 そうか。自分もスプーンを持って来ておくんだったな。いま思っても遅い。いや、取りに行けばいいだけの話だけど。

 まあ、いい。

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