天使

め組のめ

第1話

風の音がした。一切の曇りのない、爽やかな音。私はこのさえずりが何より好きで、鼻を掠める青の匂いも格別だった。むろん、窓の中に閉じ込められた私にそれを直接堪能する術は無い。それでも幾度となくその愉悦を味わってきた私にとって、この程度の障害など無いに等しかった。温さや、ほんの少しの生臭さが愛しい。

鳥が飛んで、葉が揺れる。カラカラ、音が鳴るのが分かった。黒い鳥は空高く逃げて行く。今の私にはここしか無いというのに、彼はどこまでも自由だ。果てしない羨望が、胸を占める。

しかし、彼はこの青の美しさを知らないだろう。その青の裏側はとても暗くて、隙間から零れる光を欲してしまう程だから。私は彼に勝る唯一を見つけて、得意気に鼻を鳴らした。


病室というのは存外暇で、私は窓から目を逸らした瞬間、意義を失う。陸上一筋だった私に特別な趣味は無く、テレビも本もゲームもすぐに飽きた。することもなく、ただぼうっとしていると、向かいの老人が読んでいる本に目がいった。ドフトエフスキーの『罪と罰』。それを読んだことは無いのだが、そのタイトルが、私の胸に強く残った。罪と、罰。

今しがた空に飛び立った、彼の罪はなんだろう。その翼を受けたこと?それともあの自由だろうか。

では、私は?私の罪は一体、どこにあるのだろう。かつての栄光、その代償?失ったはずの足がずきり、痛んだ。

誰よりも高く飛んだ私のその罪は、空の青さに魅せられたことかもしれない。

フラッシュバック、私の翼を失った日を思い出す。


昼の部活終わりの、晴れた日。そう、今日とよく似ている、そんな日。上を向いて歩いていたから。横断歩道の緑は見えていた。上を向いて歩いていたから。背の低い、信号無視の黒い車の突っ込んでくるのは、見えなかった。風の柔らかい音がやんで、硬い車と、柔く硬い私がぶつかる鈍い音が響く。努力して白を保っていた私の翼は、地底の色、血の色、真っ赤に染まる。ただただ赤いそれを見て、頭が真っ白になった。目の前には顔面蒼白の知らない顔が、泣きそうな顔をして、何やら色々話しかけてくれていた。

泣きたいのはこっちだよ。

ばたん。頭を地面につけて目を閉じる。目の前が滲むのに、耐えられなかったからだ。しかし人間、五感のひとつが遮られると他が覚醒するもので、私の耳はいつもより色んな音を拾った。空の音、車のエンジン音、人の走る音、喧騒、どこかに電話をする音。そんな、たくさんの音と一緒に、「車が逃げたぞ!」やら「意識が飛んだ!」やら色んな声も響いた。そうして私は、意識を手放す。


深い眠り。青の裏側の世界。一筋の光。

か細いその光に、私は必死に縋り付いた。


ハッ、と目の前が明るくなった。周りの音が聞こえる。静かな部屋特有の空調音と、ポッ、ポッ、と初めて聞く機械の音がする。呼吸の音もいつもと違くて、どうやら口になにかつけられているらしい。ゆっくり感覚を取り戻してくると同時に、鈍い痛みを下半身に感じた。その、己の覚醒と同時に痛みだした体を無視して、重い瞼を開ける。そこは綺麗な白の病室で、既に私の翼はなくなっていた。

これが、私の翼を失った日。


彼の罰は、私の罰は、誰が為にあるのか。それともそれは、己が為か。


かぁ、間延びした乾いた声が聞こえる。それに導かれて外を見ると先刻の穏やかな青から一転、厚く暗い雲が立ち込めていた。音に濁点が増える。サヤサヤ、ゴロゴロ、ザァァ、ガヤガヤ、カァ、ドッドッ、ザァザァ、ダン。

この空が邪魔で、どうにか遮ってくれる人がいないか部屋の様子を伺うと、向かいの老人は既に本を閉じて眠っていて、隣の人はカーテンを閉めているため何をしているのか分からなかった。もう一つのベッドは空だ。訪ね人もいない。些細な頼み事を叶えてくれそうな人がいなかったので、手元にある丸いナースコールのボタンを押した。私に足があればなあ。頬を膨らませる。

パタパタ、看護師さんの走る音が聞こえて、私は更に顔にしわを作った。白衣の天使の、その白く軽やかな羽がたまらなく美しいから。鼻の奥に、ほんのり潮の匂いがする。

部屋にやってきた天使は「どうしましたか?」と、優しく声をかけてくれる。雨が降ってきたのでカーテンを閉めて欲しかった、と伝えると「分かりました」と、すぐに願いを叶えてくれた。感謝の意を告げると「いいえー、また何かあったら呼んでくださいね」。ふわり、笑った。勝手に嫉妬して、勝手に無愛想になっている私にも優しく対応してくれる。いい人だ。本当に、天使みたい。

では、と笑顔で一瞥して、他の二人のルームメイトにも声をかけたり様子を見てから、天使は去っていった。部屋がワントーン、暗くなった。

外はもう見えなくなっていたが、カーテンの隙間の、ほんの僅か見える窓から水の滴るのが見えた。私は、真似するなよ、と思った。

他愛もない絶望。既に憔悴しきっている私にとってそれは甘美で、他の何にも、風の音、空の色でさえ、変え難いものだった。


「贖罪」

例えあなたが青に染まったとしても、その深淵まであなたを落とすことなど決してありません。

「懺悔」

もしそれをできたならば、その時は二人で紅を探しましょう。

「寛恕」

だから私、あなたの白をどこまでも欲してしまうのです。

「末期」

さいごにふたりで碧の園、踏んで踊ってさようなら。


雨の中、カラスの狭い鳴き声だけが、まっすぐ私の耳に届いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

天使 め組のめ @mey_chan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ