第20話 ヴェネスパの湯

 やってきたのは俺が行きつけにしているヴェネスパの湯だ。


 竜の尻尾亭から近いので、他の三人もここに通っている。


 番台のねーちゃんは短い間に二度も風呂に入りに来た俺達を不思議がったが、事情を説明したら快くミント油の使用を許してくれた。

 

 浴場には女風呂と繋がったでかい湯船の他にも小さな湯船が幾つかあり、普段からそっちの湯船は入浴剤の持ち込みが許されている。

 

 もっとも、そんな洒落た真似をするのは女連中ばかりで、男連中は仕事や内緒話をする際に使う程度だ。

 そういうわけだから、先客がいたら遠慮するのが暗黙のルールになっている。


 マーブルからミント油の入った小瓶を借りると、俺とジャッドは男湯に向かった。


 幸い小さい湯船は空いている。

 早速ミント油を入れようとする俺をジャッドが引き留める。

 先に身体を洗えだそうだ。

 朝洗ったし大丈夫だろうと思わないでもないが、他の客が白い目で見ている。

 素直に従い、手早く身体を洗った。


「そんじゃあ行くか」


 小瓶の栓を抜く。

 マーブルの話だと、小さい湯船なら十滴くらいが適量だそうだ。

 少しくらいは多くてもいいが、かなり強い効果があるそうで、入れ過ぎは厳禁。

 とりあえず入ってみて、効き目が薄いようなら少しずつ足すようにと言われた。


「やべっ。入れ過ぎた」


 手元が滑ったわけじゃない。

 こんな小瓶で十滴きっかり計れと言うのが無理な話だ。


「ちょっとぐらいなら大丈夫だろ」


 と、ジャッドも気にしない。

 マーブルには悪いが、こんな物で本当に暑さが和らぐのかちょっと怪しい。

 まったく信じていないわけではないが、過度な期待はしていなかった。


 大体、水風呂ならわかるが、普通の風呂に入って涼しくなる事があるか?


 半信半疑で湯船に入るが、良い香りがする事以外は変った所はない。

 ただの熱い湯だ。


 すぐには効かないとも言っていたから、一分くらい待ってみる。

 やはり何も感じない。


「……どうだ?」


 一応ジャッドにも尋ねるが。


「さっぱりだ。そっちはどうだ?」


 俺は肩をすくめる。


「足りないんじゃないか?」

「だよな」と俺。


 この広さの湯船にたった十滴は少なすぎる。

 多分、女風呂とは大きさが違うんだろう。

 とりあえず倍入れてみる。


 もう一分待ってみるが、やはり効果はない。


 ……やべぇな。


 疑ってはいたが、まったく効き目がないとは思っていなかった。

 正直に言ったらマーブルは傷つくだろう。

 他の相手なら気にしないが、気のいいマーブルが相手となるとそうもいかない。

 隣を見ればジャッドも同じ事を考えているらしい。


「どうする?」俺が尋ねる。

「どうしたもんかな」


 奴も苦笑いだ。

 下手に嘘をつくと後で面倒な事になる。

 もしかしたら渡す薬を間違えたのかもしれないし。


 だが、もし間違いじゃなかったら?

 マーブルが半泣きで謝る姿が目に浮かぶ。

 そんな事を気にする俺達じゃないんだが。


 失敗を過剰に気にするのはマーブルの悪い癖だった。

 湯につかり、二人で上手い言い訳を考えていると、不意に身体が寒くなった。


「うぉ!?」

「なんだこりゃ!?」


 思わず二人で声をあげる。


「どうなってんだ!? 熱いのに、無茶苦茶寒いぞ!?」

「こいつはたまげた! やっぱりマーブルは天才だな!?」


 楽しそうにジャッドが言う。


 今まで味わった事のない不思議な感覚だった。

 確かに湯の中にいるのに、ミントを思わせる爽やかな涼しさが肌に染み込み、凍える程身体を涼しくしている。


「う、ううう、こりゃ、入れ過ぎたみたいんだな」


 ガチガチと歯を鳴らして俺は言う。

 湯に浸かっているのに裸で雪山に放り出されたみたいに寒い。


「げげげ、限界だ! おおお、俺は先に出るぞ!?」


 ジャッドが飛び出し、俺も後を追う。


 風呂から出ても寒さは消えず、むしろ一層強くなる。

 暑いはずの浴場の空気が、極寒の風になって俺達を震わせる。


「どどどどど、どうなってんだよ!?」

「おおおお、俺が知るか!?」


 大の大人が二人、真夏に風呂屋で身体を縮めて震えている。

 おかしな光景に、他の客が俺達を訝しんだ。

 頭を指さし、クルクルパーのジェスチャーをしやがる。


「ちちちちち、ちくしょう! このままじゃ凍死だ!」

「ささささ、サウナに行くぞ!」


 ジャッドの提案に乗り、俺達は蒸し風呂に駆けこんだ。

 


 一方その頃女湯では。


 しっかり適量のミント油を入れた小さい湯船に、マーブルとセリアンがつかっている。


「おぉ! すごいなマーブル! 本当に涼しくなってきたぞ!」


 一見するとクールで寡黙そうなセリアンは、宝石のように青い瞳を子供みたいに輝かせ、ミント油の混ざった湯を不思議そうにぱしゃぱしゃと身体にかけた。


 すぐ横には、寄り添うようにしてぽっちゃり体型のマーブルがいた。

 長身で胸が大きく、全身は程よく引き締まり、けれど尻はどっしりと大きいセリアンと自分を比べて、同じ人間なのにどうしてこんなに違うんだろうと、餅のように柔らかな腹を抓んでいる。


「む、どうした、マーブル?」


 それに気づいてセリアンが聞く。


「いえ……セリアンさんは綺麗だなと思って」

「なんだ? 見惚れたか? はっはっは! そうとも、私は綺麗な女なんだ! 引き締まった身体に大きな胸! 腰は括れてナイスバディ! 尻は少々大きいが……まぁ、誰にでも一つくらいは欠点がある! 気にするな!」


 慌ただしくポーズを取りながらセリアンが言う。


 その度に、ぶるんぶるんと形の良い胸が揺れて、マーブルは見惚れる。


 それに引き換え自分ときたら。

 髪は土色の癖っ毛で、背は子供みたいに小さい。

 顔は童顔のへちゃむくれ。

 胸は大きいがセリアンのように前を向いておらず、自信のなさを表すように下を向いている。

 お腹は丸く突きだして、全身ぽよぽよだ。

 急に自分が醜い生き物に思え、マーブルは溜息を洩らす。


「はぁ。私もセリアンさんみたいな姿に生まれたかったです」


 自分なんかどんなに頑張ってもセリアンのような美人にはなれっこない。

 憧れる事すらおこがましいデブチンだ。

 そんな風に自分を卑下するマーブルを、セリアンは真っすぐ見つめて言うのだった。


「なにを言う! マーブルだって可愛いじゃないか!」

「そんな事ないですよ……」


 セリアンの瞳が眩しくて、マーブルは目を逸らす。


「私の気持ちをお前が勝手に決めるんじゃない!」


 セリアンは鼻息を荒げて怒り、ばしゃりと湯船を叩いた。


「ご、ごめんなさい……。でも、じゃあ、どこが可愛いんですか?」


 意地悪な質問だと思いつつ、マーブルが尋ねる。


「そうだな。狸みたいな顔に、柔らかそうなほっぺと、柔らかそうな胸と腹、尻も柔らかそうで私好みだ!」

「……それって、褒めてるんでしょうか?」

「そうだが、そう聞こえなかったか?」

「全然……その、お前はデブだと言われているような気がして……」

「いいじゃないかデブ! 私は大好きだぞデブ!」


 太陽のような笑みを浮かべてマーブルは言う。


「で、デブデブ言わないで下さい!?」


 マーブルは涙目になるが。


「どうしてだ! 素晴らしい事だぞ! 私はムキムキだからな! 同じような女を抱いても楽しくない! 抱くならやはり、マーブルのような女が一番だ!」


 人目も気にせず言うと、セリアンは後ろからマーブルに抱きつき、もみゅもにゅと腹を揉んだ。


「せ、セリアンさん!?」

「あぁ、なんて柔らかいんだ。肌もすべすべで、こうしていると心が落ち着く。最高の抱き心地だ。以前からずっとこうしてみたいと思っていた。マーブル、誰がなんと言おうとお前は良い女だぞ。物知りで性格だっていい。私の方が羨ましいくらいだ」

 

パン生地をこねるように腹を揉みながら、耳の後ろでセリアンが囁く。


「あ、せ、セリアンさん……困ります……こんな所で……」

「こんな所だからいいんじゃないか……」


 白昼堂々二人の女冒険者が絡み合う。


 一応マナー違反ではあるのだが、風呂屋ではしばしば起こる事だった。


 他の客もセリアンとマーブルが重なり合う姿に興味があるようで、咎める者は誰もない。

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