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 まずい、一瞬目を離した間で見失ってしまったのだろうか。慌てて周囲に視線を巡らせると、存外すぐにその姿が見つかりホッと胸を撫で下ろした。

 彼は清流から離れ、沿って拡がる森へと入るその手前で私のことを待っていた。目が合うと視線を残したまま踵を返し、今度こそその姿をくらませてしまった。


 ぴり、と首筋辺りに妙な緊張が走る。案内をしていたはずの彼が姿を消したということは、もうその必要も無いくらい間近まで来ているということに他ならないだろう。普段はただ静かにそこに在る森だったが、こうも踏み込み難くなる時が来るとは思いもしなかった。

 改めて気持ちを奮い立たせると、一歩一歩を踏みしめながら、慎重に森の方へと近付いていく。最中、離れていっているはずの川のせせらぎが妙に耳に付いた。

 まだ日も高いこの時間。暖かな陽の光が射し込む森の中は、鬱蒼としていながらもどこか心を落ち着かせてくれる、そんな穏やかな空気感を持ってそこに広がっていた。世辞にも道と言えるようなものは存在しないが、決して足を踏み入れられないほどではない。

 いざ入り込んでしまえば普段と何も変わらない、幼少の頃から慣れ親しんだその雰囲気に安心して小さく息をつく。たったそれだけのことだが、凝り固まった緊張が解れるのには十分だった。

 恐らくどこか近くに居るはずの彼を探して、辺りを見回しながら森の中へと踏み込んでいく。果たして本当に見つけられるのだろうか。それ以前に、これは何かの罠だったりしないだろうか。そんな心配も杞憂だったと、程無くして胸を撫で下ろすことになった。


 シダの生い茂る中にある、苔むした一本の倒木。彼はそれに上体を伏せてもたれかかっていた。式神がここまで道案内をしたのはこういう理由だったのだと、葉擦れの音に混じって聞こえてくる微かな寝息に気が付きようやく腑に落ちた。

 彼が眠っているのだと分かると、いくらか心に余裕が生まれるのが分かった。不思議だ。ここへ来るまでの不満や疑念は、一体どこへいったのだろう。

 人心地が付いた所で改めて見てみると、この空間だけが時間の流れから隔絶されているのではないかと錯覚させるような光景がそこにあった。


 不規則に揺れてきらきらと瞬く木漏れ日たちが、彼の上を踊るように滑っていく様を、息をするのも忘れて眺めていた。彼がそこに居るだけで、いつもの森が蜜色に輝いて見えるのはどうしてだろう。何ものにも侵し難い光景を前に、吐く息は全て感嘆とこぼれ落ちていった。

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