3
(名前を聞いたらすぐに帰ろう、それがいい)
そう心に決めると今一度深く息を吸い、軽く拳を握って気合を入れる。よし、と小さく口にすることで更に気合を上乗せすると、上流の方へと向き直った。その視線の先に、先程までは確かに無かったはずの人影を捉えて目を丸くする。
そこに居たのは、パフォーマンス中に見掛けた男の式神だった。体の向きこそ清流を望むようにして立っていたが、視線だけはしっかりとこちらを窺っているようだった。
「あ、おい……!」
こちらが声を掛けるよりも僅かに早く、彼は上流へ向かって歩き出していた。
突然のことに理解が追いつかず、その後ろ姿を呆然として見ていると、少し行った先で式神は足を止めた。そうしてこちらを覗き見るように振り向くと、何を言うでもなく、静かにその場に佇んでいるのだった。
その様子を見て、彼は案内役として寄越されたのだとようやく確信した。しかし昨日男と待ち合わせをしたのは、この川沿いの開けた場所だ。そんなもの居らずとも良いだろうに。この時は確かにそう思ったのだが、後になって考えると彼の行動は正解だったと言えるだろう。
どうせは自分が向かうのも同じ方向なのだからと、訝しみながらも足を踏み出す。そうすると式神もまた前を向き、進行方向へと歩き始めるのだった。
なんだか納得がいかないが、必要ないと無下に追い払うほどの事でもないだろう。今はこのまま、式神の背を追うように、上流を目指してゆっくりと歩を進めていくことになった。
先を歩く男の式神との距離は、開くことも縮まることも無かった。話し掛けるには些か遠く、だが置いて行かれそうだと不安になる程には距離を開けずと、先導役としては的確な距離感が保ち続けられている。
道中話すのも悪くないだろうと思い、一度は歩く速度を速めてみたのだが、あと少しで声を掛けようという所で彼はふいと姿を消してしまった。そんな彼が次に姿を現したのは、今までよりも随分と先の方。その開けられた距離から、近付かれたくない、話し掛けられたくないとの強い意志が窺えたので、それ以降は試みるのを止めておいた。
ただ黙々と歩く私たちの脇を、我関せずと清流は穏やかに流れ続けている。麗らかな陽光を反射し煌く水面は、見慣れたものとは言え、つい立ち止まって眺めていたくなるほどに美しかった。
余所見をしていて歩く速度が落ちていることに自分で気が付くと、緩く首を振る。今は先導までしてもらっているのだから、そんな場合ではないだろう。寝不足だとどうにも注意力が散漫になってしまうなと、戻した視線の先にあるはずの彼の姿が忽然と消えてしまっていた。
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