5

 しかして魔法は解けるものであると──いや、魔法などではなく夢だったのだと、あまりにも突然知ることとなった。

 唐突に突き付けられた現実に目を見張ると、うわ言のように繰り返す。


「滞、在?」


 一瞬、男の言っている言葉の意味が分からなかった。ちゃんとその意味を噛み砕くのよりも早く、男は深く頷いていた。


「旅、してるんだ。好きな時に気になる場所に行く、気ままな一人旅だけどね」


 開いた口が塞がらなかった。よくよく考えてみれば確かに、こんな男に見覚えは無い。そう人の多い土地ではないのだから、この辺りに住んでいてこの容姿なら、相当強く印象に残っている筈だ。


「……へぇ、それは結構なご身分だな」


 男がどれ位の間この地に滞在するかなんて、たかが知れている。そんな限られた時間で、一体何が会得できると言うのだろう。もしそれが可能なら何もこんな、道に落ちている小石のような希望にまで縋らずとも、親族から受けた教えだけで十分間に合っている筈なのだ。それをこの男は易々と、何のつもりでそんなふざけた事を言うのだろうか。

 恐らくだが、この男にとって自らが操る魔法とはそういう認識なのだろう。素養さえあれば、少しの手解きで身につけることのできる簡単な技術か何かだと。もしそれがこちらの勝手な勘違いだったとしても、そう暗に言われているようで段々腹が立ってきた。


「なら私なんかに構ってないで、どこへなりと行ってしまえばいいじゃないかっ」


 語気荒く言い捨てると、手に持っていたコップを水が零れるのも構わずに突き返して背を向ける。零れた水が掛かりでもしたのか、少し慌てた様子の男の声に、僅かだが気が晴れたのが唯一の救いだった。


「僕、何か君を怒らせるようなこと言っちゃった?」


 本気で分かっていなさそうな、とぼけた声が癪に障る。苛立ちを吐き出すように大きく息をつくと、ろくな返事もしないまま早々に立ち去るべくして足を踏み出した。

 今度はしつこくついて来る気配はしなかった。あの男からようやく解放されるかと思うと一息つける心地がしたが、所詮その程度の気持ちで声を掛け、手を差し伸べてきたのかと思うと、少しだけ虚しかった。

 まぁいい、仕方ない。期待した私が馬鹿だったのだ。この男が先ほど言っていた通りに旅をしているのであれば、金輪際会うことも無いのだから。さっさと思い出にしてしまって楽になろう。

 一歩一歩日常へ戻ろうとする背を引き留めるように「ねぇ、」と呼びかける男の声が聞こえてくる。振り向くことも、足を止めることさえしなかったが、構わず男は言葉を投げ掛け続けた。


「ただ、君とお喋りがしたかったのは本当なんだ。また明日、ここで待ってるから」


 せせらぎの中、その声だけが妙に鮮明に聞こえてきて。その声を、言葉を、振り切るように家路を歩き続けた。聞こえなかった振りをしたかったのに、その日一日、彼の言葉が耳について離れてくれなかった。



 *****



 彼女は背を向けたきり、一度も振り向いてはくれなかった。力が抜けたようにその場に腰を下ろすと、宵の闇を吸い込んだような水面に視線を落とす。

 ──何か失礼なことを言ってしまったらしい。でもそれが、どれのことなのか全く分からなかった。


(こういう所、ほんっと変わらないよな)


 似たようなことで失敗してばかりだ、と組んだ手に額を寄せて目を閉じる。途中までは上手くいっていたようにも思うのだが、どこで間違えてしまったのだろう。

 自分の言葉を注意深く思い返してみたが、やはり分からず終いだった。諦めて大きく息をつくと立ち上がり、今夜の寝床を探そうと動き始めるのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る