+グリーンローズ 7
六
そうこうしているうちに木曜日も終わりを告げた。
言わずもがなローズの身辺に異変は認められなかった。副業の勤務はつつがなく終了したし、家路にも帰宅後にも目立ったトラブルはなし。いたって普通の一日だ。
また、ザックの調べ物もほとんど骨折り損に終わった。モロー氏の〝過ぎ去りし栄光の日々〟を垣間見たことを除けば、これといった成果はない。
徒労感は否めないが、しかしそれもこの日に限ってはどうでもいいことだ。なんといっても今日はいよいよ金曜日なのである。
言ってしまえば、ローズの警護を開始してからの一週間はあくまでも準備期間だった。彼女の身に迫る危険がどういうものなのかを把握し、その対処法を検討するための期間だ。
これまでのところ経過は順調とは言えない。くだんの脅迫者の正体はおろか、その見当すらついていない有様だ。
はっきり言ってどうしようもない体たらくだが、それでも今日までは問題なかった。これまでは「金曜日」ではなかったからだ。
ローズマリー・シェリー氏の安全を確保するにあたって現時点でもっとも有効な行動は「今夜の舞台に立つのを断念させる」ことだ。
この脅迫者は標的を脅して反応を楽しむタイプではない。彼はただ漠然とローズに嫌がらせをしているのではなく、明確な目的に沿って行動をしている。すなわち「ローズが金曜のショーに出演するのを阻止する」という目的に沿って。
ならばそれを果たさせてやればいい。そうすれば、ローズもこれ以上は不安な夜を過ごさずに済む。そうした弱腰な対応が脅迫者の要求をエスカレートさせる恐れもないではないが、ともあれ当分のあいだは命の心配はいらない。
ゆえにこの朝、ザックはローズに映像通話をかけ、訊ねた。ラウンジのマネージャーに頼んで出演日を変えてもらうことはできないか、と。
対するローズは一瞬ひるんだような表情を浮かべたが、すぐに首を横に振ってこう答えた。
「ごめんなさいマクブライドさん。私には、せっかく与えられたチャンスをふいにするようなことはできません。たとえどれほど悪らつな脅しをかけられていようとも、です。それに、そんなふうに素直に相手の要求を呑むくらいなら最初から身辺警護なんてお願いしておりませんわ」
平時より客足の増える週末、それも二〇時からのショーといえばそれこそゴールデンタイム中のゴールデンタイムだ。いま勤めているラウンジを除けばほとんど歌手の実績がないローズにとって、この時間帯を任されるのはまさに願ってもいない幸運である。彼女の強情も無理はない。
相手がどう出るにせよ要求には従わない。この方針が覆ることはないだろう。
こうなれば覚悟を決めるのみだ。下手な企みは今は忘れ、とにかく全力で歌姫を守り抜くしかない。
ローズ本人の希望でこれまでは隠密的に行動してきたが、この日に限ってはやり方を変えるべきだろう。すぐに駆け付けられる場所で待機するのでは不十分。ここからはローズの姿をなるべく肉眼で確認しつつ、危機それ自体ではなくその兆候を察して行動を起こす必要がある。
ゆえにザックは、今度こそ自らの目でローズの晴れ舞台を見届けることにした。言わずもがな、頼れるパートナーを引き連れて、である。
ザックらがラウンジに到着したのは一九時を少し過ぎたころのことだった。むろん、ローズの出勤時間に合わせての到着だ。
そのまま店に入ってもよかったのだが、ザックはさきに建物周辺の様子をあらためておくことにした。
ローズのそばを離れるのは得策ではないが、楽屋の中まで付いては行けない。舞台用のメイクや衣装を整えたり、また本番前に喉を温めたりという大事な集中のひと時を邪魔するわけにはいかない。
ならば、せめてそのあいだに周囲の環境を把握しておくのが賢明だろう。脱出経路の確保はさきに済ませておいて損はない。
ところでローズによると、「一連の脅迫事件について、新たに何人かの知人に事情を伝えた」とのことだった。具体的には水曜の夜、彼女の雇い主たるラウンジのマネージャーと、同僚であるバンドメンバーたちに事の概要を話したのだそうだ。
住居侵入の一件があったのち、店のほうにまで被害が及べば一大事だと秘密を打ち明けたのだが、当のマネージャーはあまり大ごとには捉えていないらしかった。「そんなことでいちいち怯えているようじゃあ芸能界では生きていけないよ」というのが彼の返答だったという。肝の据わった男である。
さておき今は状況の把握が優先だ。ザックも事前に店の外観ていどはホームページ上で確認していたが、やはり実物を見てみないと分からないこともある。
店は通りに面した場所にあった。通りから敷地内に入ると左手側に店舗が見え、右手側に専用の駐車場が見えるという構図だ。建物自体は横幅の広い二階建てで、やや扁平な輪郭を有している。ラウンジは事業として成功しているようで、その建物を一軒丸ごと利用する形で営業していた。
建物の裏手には細い通路があった。通路は店の裏口に続いており、道幅は車一台通るのがやっとだ。通常、ラウンジのスタッフはここから出入りするのだろう。いざという時に脱出経路として使えるかもしれない。
そのほかに通りの雰囲気や当日の交通量の多さ、また店の駐車場に停められていた車のナンバーなどをひととおりチェックしたのち、ザックはようやく店に入ることにした。彼も神経質といえば神経質な男だ。
そしていよいよラウンジ内部の様子であるが、これについてはここでは触れるまい。一九五〇年代風のやわらかな装飾。マナーを感じさせる人々の所作。上質な生演奏のスロージャズ。味わい深いテネシーウイスキー。いかめしい鉄仮面を小道具に謎の紳士を気取るノーラン。ともあれそういう様相である。
一点だけ付け加えるとすれば、店の空間的な規模は外観から予想されるよりも大きく感じられたということだ。計七脚のスツールが並ぶバーカウンターと、ほかに四人がけの丸テーブルが全部で七セット。利用客が狭苦しさを覚えないようにか、テーブル同士の間隔はかなり広めに取られてあった。
ともあれ問題はこの日これからこの場所で、いったいどういう事態が引き起こされるのかということだ。
二〇時〇三分。美貌の歌姫、ローズマリー〝グリーンローズ〟シェリー氏をメインボーカルに据えたそのショーは、定刻を三分遅れて開始された。
この時、ザックは心から彼女の才能を認めずにはいられなかった。一言で言えば彼女には華があるのだ。
若さもあってか技術面では不安定さもあるものの、その未熟さを補って余りあるほどの魅力、人の目と心とを惹きつける無類のエネルギーが彼女のパフォーマンスには現れていた。
声質に清涼感があり、かつ声量も豊かなため彼女の歌声はバンドの生演奏にもまったく引けをとっていない。むしろ、ステップに合わせて揺れるブロンドの長髪や、その軽やかさを引き立てる深緑のロングドレスとの調和も相まって、今宵のステージ上では他を圧倒するほどの存在感を放ってさえいた。
警護対象として付き合いがあるから、という贔屓目があるのも事実だが、しかしその分を差し引いても彼女が並外れたパフォーマーであることに疑いの余地はない。
涼風に揺れる夏の草原――例えるなら、ローズマリーとはそういう女性だ。
そんな彼女の活躍を目にして、だがザックは思う。
――いやしかし……駄目だ、だからと言って腑抜けていては。
ザックが「駄目だ」と考えたのは当然ながらローズではなく、自分自身を指してのことだ。彼は束の間ながらステージに目を釘づけにされていた。これはボディガードとしては完全な失態だ。視界は常に広く保っておかねばならない。
彼は今更ながらに店内を見回した。
直後、改めて思い知らされた。自身がいかに愚かであるかを。
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