+グリーンローズ 6
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その後、月曜の夜は何事もなく明け、続く火曜日も目立ったトラブルは起きなかった。
火曜はローズにとっては休日であり、本業副業ともに出勤をする必要がない日だ。それなら外出の必要もないかというとそうもいかず、この日彼女にはどうしても外せない用事があった。週に一回のボイストレーニングである。
ローズは朝のうちに身支度を整えると、出先で簡単な昼食を摂り、それから馴染みの音楽教室に向かった。
レッスンは二時間ほどで終了した。
次いで彼女は帰宅途中に日用品などの買い出しを済ませたのち、ほどなく家に帰り着いた。この時点で時刻は一六時少し前。あっという間に夕刻だ。
そこからは簡単な家事と夕食とが続き、そして最後に、このところハマっているらしい連続ミステリードラマをたっぷりと堪能してローズはこの夜を締めくくった。
そうやってリビングでくつろぐ姿を見るに、彼女は余暇のひと時のお供には〈フォア・ローゼズ〉を柑橘系のジュースで割った物に、つまみとしてナッツを添えるのがお好みであるらしい。肩ひじを張らないというか、どことなく気さくな趣味である。
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火曜が終わり水曜。この日はローズがラウンジの舞台に立つことになっていた。
曜日は違えど例の脅迫状がそのショーに関するものであった以上、ザックとしては否が応でも警戒心が高まる。
ところが結局のところ、その日彼がローズの活躍を直に見届けることはなかった。先週の金曜に起きた出来事を覚えていたからだ。
早い話、彼は前回の住居侵入の状況を踏まえ、一八時から夜中にかけての時間帯をローズ宅の監視に費やすと決めたのだ。
先週の金曜日、ローズ宅ではノーランが寝ずの番についていた。もし仮にあのマネキンの首が夜以降に運び込まれたのだとすれば、彼が異変に気づかないはずがない。
付け加えるなら、あの晩はローズも帰宅後には冷蔵庫を開かなかったそうだ。また外出前の軽食時には問題はなかったそうなので、やはりあの異物はローズがステージに立っていたそのさなかに設置されたと考えるのが妥当だろう。
さらに言えば最初の脅迫状が届けられた日付も忘れてはならない。ローズがそれを発見したのは先週の木曜日。初めてザックの元を訪れた日の前日の出来事だ。
そうすると、「犯人が計画を実行に移した最初の日はその週の水曜だ」という公算が大きくなる。
ならば待つ甲斐は十二分にある。直前の犯行からは五日間、最初のそれからはちょうど一週間が経つかという今日この日、犯人が何らかの動きを見せる可能性は高い。
ローズ本人に対しアクションを起こすか。それとも再度自宅に忍び込むか。でなければザックたちの存在を警戒し、手出しをしてこなくなったのか。
そのあたりの情勢を見極める意味でもこの水曜日は勝負の一日だと言えた。
ところが、結論から言えばザックのこの目論見は完全な空振りに終わった。
彼は目を皿にしてディスプレイを凝視し続けたが、収穫はまったくなかった。不審人物はおろか虫一匹見つからない有様だ。
どうやら敵は予想以上に慎重か、そうでなくても適切に己の欲望をコントロールできる人間であるらしい。
ひるがえってローズの様子はどうだったかと言えば、こちらはまたしても順調そのもの。彼女はトラブルとは無縁の一日を過ごしたようだった。この日はラウンジバーでいくらか飲んできたらしく、帰宅時には少しばかり興奮した様子を見せていた。当然、「ショーが上手くいった」という喜びや安堵感も手伝ってのことだろう。
機嫌がいいのは彼女に限った話でなく、その従者たるノーランもまたいつになく浮かれた調子であった。
頭上に見えるはシルクハット。首から下はタキシード。素顔を隠すは羽根つきマスク。これはいわゆる〈ベネチアンマスク〉と呼ばれる種類の面だ。いったいどこで用意してきたのか、すっかり洒落込んでご満悦だ。
実際のところ、ノーランはローズの歌声を直接に聞いてはいないはずだった。極力人の目に触れないようにとラウンジ内には入らず、店の裏手で待機する手筈になっていたのだ。
しかしながら、その裏路地からでもショーの盛り上がり――思わず踊りだしたくなるバンド演奏と割れんばかりの拍手の音――は肌感覚で分かったのだろう、彼はザックと落ち合う段になってもまだ興奮冷めやらぬという調子であった。
少しばかりはしゃぎすぎだという感がないでもないが、ザックもこの日ばかりは小言を言う気にはなれなかった。そうして水を差すのがためらわれるくらいには、この夜のローズとノーランとは楽しそうに見えたのだ。
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歓喜の夜もやがて過ぎ去り、あくる日は木曜日。相変わらず犯人からのアプローチはない。ここまで静かだとかえって不気味な感じもする。
ともあれこの日はローズも朝から忙しかった。木曜は副業の出勤日ということで、正午前にはスーパーに到着していなければならない。家事なり朝食なり身支度なりと、その朝は実に慌ただしくはじまった。
反面ザックとしては、この日は意外にも時間を持て余すくらいの余裕があった。というのもこの一日のおおまかな流れが、直前の月曜とほとんど変わらなかったからだ。
ローズが店内一番奥のレジに着いたこと。昼下がりには客足が途絶えたこと。さらにはその時間帯にイギリス製の高級クーペが現れたこと。
まさしくそっくりそのままの焼き直しだ。モロー氏を除けばことさらに目立つ人物もなく、存外に穏やかな平日だった。
よってザックは少し能動的に行動することにした。容疑者を特定すべく情報を集めるのだ。
ザックは張り込み業務をノーランに一任すると、最寄りのロス市警の分署まで車を走らせた。分署オフィスの情報端末を利用するためだ。
警察署内の端末であれば犯罪歴などをまとめたデータベースにアクセスできる。むろん閲覧には相応の権限が求められるが、その点に関しては問題ない。ザックとて正式なライセンスを受けた探偵だ。市警の設備を利用するくらいの権限は持ち合わせている。
この日ザックが前歴を当たってみたのはローズの同僚や隣人、あるいは「お得意様」と呼ばれる者たちの一部であった。それでどんな進展が見込めるかと具体的な見通しがあるわけではなかったが、この手の調べ物は駄目で元々だ。
ストーカー犯に関する手がかりが何も掴めていない現状、ほんのわずかなとっかかりでも得られれば、それだけでも十分に捜査が進展したと言えるのだ。少なくとも、動向を注視すべき人物の見当ぐらいはつけられる、かもしれない。
そういうわけでザックも二時間ほどは端末の前で粘ったのだが、残念ながら芳しい成果は得られなかった。ざっと調べた限りローズの周辺につきまといなどの迷惑行為の前歴をもつ者はいない。
ただ、興味深い事実がいくつか明らかになったのも確かだった。
それらのうちの一つは例の州議会議員殿のご親族、ドレイク・モロー氏に関するものであった。
モローの記録には目を見張るほどの前科は記されていないが、しかし複数の道路交通法違反の前歴と、同じく複数の交通事故の記述とは認められた。それも一度や二度ではない。どうやらこの男は十代の終わりごろに免許を取得してからというもの、かなり派手に暴れまわっていたらしい。
とはいえ彼も根っからのワルではないようで、記録中の事故内容はすべてが対物事故であった。なかには怪我人が出た事例もあるが、その怪我人というのはほかでもない、誰あろうモロー氏本人である。
在りし日のドレイク青年が血気盛んで命知らずだったのは事実だが、しかしながら救いようがないほど無謀かと言うとそうではない。それが証拠に事故現場はその大部分が深夜の田舎道に限定されていた。
つまるところ、彼は老若男女で賑わう街の通りを暴走するタイプではなく、もっぱらさびれた峠道を攻めるのがお好みという趣味の人間だったのだ。
なるほど複数の中古車販売店を経営しているというその手腕は、元来の車好きが高じたゆえのことらしい。彼とて親の七光りならぬ「親族の名声」のみを頼みにしてきたのではないということか。
と、一度そんなふうに考えてみると、あのやけに気取った感じのする氏のファッションや立ち振る舞いもそれほど気にならなくなるから不思議である。
どうあれこの男の無鉄砲さも今となっては過去の話。一時はそれこそ毎年のように様々な器物を損壊してきたモローも、ある時期を境にすっかり鳴りを潜めていた。その時期とはおよそ八年前の西暦二〇六四年ごろ。氏の年齢が二十代の終盤にさしかかったころのことだ。
おそらく事業に本腰を入れはじめたか何かで、そう過激な生き方もしていられなくなったのだろう。彼にも年貢の納め時、もとい多種の税金と向き合う時がやってきたのだ。
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