第37話 元冒険者と王女の思惑②
「……アデルに一目惚れしたあの時の自分を褒めてあげたいです」
もしかしてこの時を見越していたのかもしれませんね、と恥ずかしそうに付け足した。
思いもよらなかった言葉に、アデルはぽかんと口を開けて、彼女を見る。
「一目惚れ、だったのか……?」
「正確に言うと、一目惚れなのかはわかりません。アデルと話してるうちに、惹かれていって……気付いた時には、好きになっていました。あの日、アデルに出会った時から……あなたの事ばかり考えていましたから」
彼女は恥ずかしさと微苦笑が混ざり合った様な複雑な表情をしてから、視線を逸らした。
「……俺も同じだよ。初めて話してから、俺の中にはアーシャが居た様に思う」
アデルも意を決してそう言うと、アーシャの頬に触れてこちらを向かせ、もう一度口付けを交わす。
そうして唇を重ねながら、アデルは彼女と出会った時の事を思い出していた。あの時彼には恋人がいたはずなのに、彼女に惹かれる自分を食い止められなかった。
命を救われた事もあるだろう。しかし、それだけではなかった。ただ彼女と話すのが楽しくて、癒されていて、心の中の刺々しいものが落ちていく様な、そんな感覚になったのである。
今こうして彼女と気持ちを重ねていると、その感覚は決して命を救われた事による錯覚ではなくて、自分の本心からのものだった事を理解する。
そして、だからこそアデルは、どうしようもなく切ない気持ちになるのだった。良い大人が好きな女と部屋で二人きりで口付けまで交わしているのに、彼らはこれ以上進む事はできないのである。
静かな部屋でただ唾液の交わる音と彼女の舌先の感触だけ感じていると、劣情に襲われて彼女を押し倒したくなった事はこうした逢瀬の度に何度もある。
しかし、アデルにそれ以上の事などできるはずがない。王女の純潔に一介の兵士風情が触れて良いわけがないのである。彼女を大切に想えば想う程、アデルはそうした葛藤を味わうのであった。
また、彼女の息遣いや頬の火照りを見ている限り、そうした葛藤を味わっているのは、自分だけではない様にも思えた。
「アデル……お願いがあります」
次に唇を離した時、アデルの予感を肯定する様に、アーシャは何かを決意した瞳で、彼を見上げた。
「もし、戦争が無事に終わったら……私を何処か遠くに連れていってくれませんか?」
浅葱色の瞳は揺れていて、涙を浮かべていた。しかし、それは迷いのない決意の様にも受け取れた。決して冗談や現実逃避で言っている言葉ではない。
「どこかって……?」
アーシャの意図を理解しなかったわけではない。
だが、アデルの口からそれは言えるわけがなかった。なぜなら、それは彼女を〝ヴェイユの聖女〟ではなくならせてしまう事でもあるし、ヴェイユ王国そのものから希望を奪い取ってしまうものでもある。
「ヴェイユ島ではない、誰も私を知る人がいないどこか、です」
しかし、アデルのそんな躊躇を一蹴する様に、アーシャは自らの希望を伝えた。
「どうして」
「だって、そうしないと私達……いつまで経っても、恋人同士になれないじゃないですか!」
アーシャは心に秘めた言葉──そしてそれは絶対に口に出してはいけない言葉──を吐露した。
「アデルだって、それは……」
「まあ、な」
わかっていた。わかり過ぎているからこそ、アデルは彼女に対して
それ以上進めば、彼女から王女としての価値を奪ってしまう事になる。王族の女が政略上に相手に嫁がされる事は、冒険者のアデルでも知っている事だ。そしてその際に重要なのは、純潔。
彼らが本当の意味で恋人同士になるには、今の立場では不可能に近かった。
「王族や貴族に自由恋愛なんてありません。お父様とお母様は自由恋愛で結婚しましたけど、それは二人が王族と貴族で、しかも六英雄同士だったからです」
ロレンス王とリーン王妃は、王族間では珍しい自由恋愛によって結ばれた二人だという。
ロレンス王は元々ヴェイユ王国の王であったし、リーンはダリア公国の令嬢にして聖騎士だった。二人は先の大戦で共に戦ううちに恋に落ち、終戦後に婚姻したのだという。
世にも珍しい王族の自由恋愛婚として、その逸話はアンゼルム大陸でもよく知られている。
「でも、私達はそうではありません。私が王女である限り、そしてアデルがヴェイユの兵士である限り……私達が結ばれる事は許されません。こうしてずっとこそこそと会うしか、できないんです」
アーシャがばっと顔を上げた。その瞳からは涙が溢れる様に流れていた。
「それで将来、私は好きでもない人と結婚させられて……そうなるくらいならッ」
その言葉の先を言わせない様アデルはアーシャの口元を人差し指で押さえて、首を横に振る。
「それ以上は言っちゃいけない」
「でも……でもッ」
「わかってる。言いたい事は、わかってるから」
アーシャの願いは、アデルの願いでもあった。だが、それでも彼女にその言葉の先を言わせるわけにはいかない。
少なくとも、この国の今の情勢を考える限り、言ってはならないのである。今のヴェイユを救えるのは、アーシャ王女の存在だけだ。彼女だけがルベルーズの兵を率いて、蜂起を促せる。彼女が王妃の密書をルベルーズに運ばなければ、ダニエタン伯爵に立ち上がる正当な理由を与えられないのだ。
それに、今の彼女は頼れるものが何もない。だからこそ、そういった逃避的な思考に陥ってしまっているのではないか、ともアデルは考えるのだった。
「ともかく、今はまずはこの国を何とかしなきゃいけない。その為には、アーシャの力が必要だ。それはわかってるだろ?」
アーシャは力なく頷き、何かを乞う様にアデルをじっと見つめる。
「俺達の事は、その後だ。気持ちは俺だって同じなんだ。きっと上手くいく」
「アデル……はい」
二人はそれから、時間一杯までただ互いを抱き締め合いながら、そのぬくもりから互いの存在を感じ取り続けた。
何が上手くいくのか、どう落ち着けば上手くいったと言えるのかすら、アデル自身もわかっていない。上手くいく保証など何もなかった。
だが、今は──自分にもアーシャ王女にも──そう言い聞かせるしかなかった。
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