第十話 アバンシュ

第十話の1

 レッドカイザーは初めて宇宙の壁を突破して以来、壁の内側に戻ることはなかった。ヴルゥが下位世界へエーテル生命を送った気配を察知すれば、そこからイャノバのもとへ降りて現界した。

 壁の向こうの宇宙は、紛れもなくエーテル宇宙だった。ただ、壁の内側とは大分異なる。その理由の大部分は、エーテル生命がいないということに尽きた。内側では恒星のごとくきらめくエーテルが渦を成し中心へ向かっていくような姿を見ることができた。濃密なエーテルが霧のように流れていることもある。全体として空虚なことに変わりないが、眺めて飽きない美しさがあった。そしてそれは、すべてエーテル生命によるものなのだ。エーテル生命の得た固有の力、その発露された断片やエーテルへ還った数多の生命の残滓が、内側の世界を彩っている。さしずめ、無数の生物の骸に母たる懐を獲得した大海の如き穏やかさと威容だ。

 壁の外側は、そのような生命の誕生と滅亡が繰り返されず、常に一定で面白みのない平坦な世界だった。

 レッドカイザーは一度、背後にある内側と外側とを隔てる壁から離れ、この外部宇宙の果てまで行ってみようと思い、実行した。しかし、内部宇宙の三つ分、四つ分の距離を行ったところでその果のなさに恐ろしくなり、現在は再び壁の周囲で時が過ぎるのを待っていた。

 外部宇宙に訪れて初めて会合したエーテル生命は、レッドカイザーに向けて奇妙な言葉を投げたのちすぐに姿を消してしまった。結果としてレッドカイザーがこの外部世界で唯一見たエーテル生命である。

 あれは、この外部宇宙で生まれた生命なのか。壁を越えたなどとは考えにくいが、もしかしたらどこかに綻びがあり、悠久の時の僅かに一瞬だけ、扉が開くように通行可能になる事があるのかも知れないとレッドカイザーは空想した。

 この外部宇宙ではやることがない。眺めて楽しいものもない。レッドカイザーはとにかくその謎のエーテル生命を探し回ったが、よほど上手く隠れているのか、あるいはこの無限に続くように見える外部宇宙の果てに普段はいるのか、結局見つけられず仕舞いでいた。

 レッドカイザーは振り返って、炎の壁を見た。この向こうにはハンバスがいてヴルゥもいる。あれらは今頃何をしているのかと思うが、中に戻る気はなかった。少なくとも戦争はまだ始まっていない。エーテル界で巨大な戦争が起きれば、下位世界にもその影響は及ぶだろうとレッドカイザーは考えていた。神獣と闘うために下位世界へ降りても、そのような痕跡は見られない。

 だがもし、違ったら? そもそもエーテル界と物質界は表裏一体の世界などではないのではと、近頃レッドカイザーは思い始めていた。というのも、エーテル界がこのように広大でまさに無限の体を見せながら、物質は所詮限りある宇宙でしかない。その在り方は根本的に異なっていて、釣り合っていない。

 まさか、物質界の宇宙も無限に広がっているのでは。

 物思いにふけっていると、レッドカイザーは俄然あのエーテル生命と再び相対し、この宇宙について聞かなければならないような気がした。あのエーテル生命は永いことこの世界にいるのだろうから、自分よりは詳しいことを知っているはずだろうと。

「モノクだ」

 前触れ無く、その意味はレッドカイザーに届いた。見ると、たしかに一度会ったきりのあのエーテル生命がいた。レッドカイザーはそれが名乗りだと気づき、自らも名乗り返そうとした。

「私は」

「待て。……いや」モノクはレッドカイザーを制したが、覚悟を決めるように間を置いて、続きを促した。「名乗れ」

「レッドカイザーという」

 モノクは何も言わなかったが、落胆か失望に似た感情がその精神を通してレッドカイザーに伝えられた。

 知らない?

 レッドカイザーはモノクの態度から、宇宙を統べた王である自分のことを知らないのだと察知した。いかに生まれたばかりの生命であろうと、レッドカイザーという意味はまず最初に知ることになるものだ。決して戦いを挑んではいけない相手、宇宙の支配者、強大なる前王、すべてを灼きつくしたもの。今はエーテル界一のお尋ねものという称号もついてくるだろう。

 このモノクという生命はレッドカイザーを前に怯えるでも、好戦的になるでもなく、それがそこにいるという事実のみを器用に受け取っただけのように見えた。

 レッドカイザーはモノクに聞いた。

「モノク、以前お前は私にアバンシュと言ったな。覚えているか」

「うむ」

「あれはなんだ」

 モノクはすぐには答えなかった。忌み事に面するように用心深く、慎重に考え、やがてレッドカイザーにある要求をした。

「炎を出してくれ」

 レッドカイザーはこれに少々渋った。炎はできる限り使いたくない。たちまちに暴れだしてモノクを灼いてしまったらどうなるか。しかしレッドカイザーはその願いを聞いてやることにした。器のエーテルを厳重に張り巡らせ、その内側に炎を灯した。炎はおとなしく、“器”の中で暴れることのなかった。

 モノクはじっと炎のエーテルを感じ取り、レッドカイザーへもう十分だと合図をした。

「紛れもない、始まりの炎だな」

「む、ああ」

 始まりの炎という呼び方はあまりされることはない。ダーパルがまれにそう呼ぶ程度だった。訝しむはレッドカイザーを知らず、その力である始まりの炎のみに心当たりがあることだった。

 モノクは言った。

「アバンシュとは、いや、アバンシュさまとはな。エーテル界の真の王であり、貴様の前任者、始まりの炎をかつて身に宿しておられたお方だ」

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