第十話の2

 ウタカは重い体をゆっくりと火のそばへ下ろし、大きく息を吐いた。イャノバとふたりで過ごし始めてから何度目かの寒季で、浜の里は日に日に気温が下がっていく。寒季は短いが過酷で、本来ならこの時期に年寄りや子供は命を落とすことが多い。今はイャノバとウタカふたりだけで、イャノバが何人分も仕事をして火を絶やさないし、それを独り占めできる上に保存食も大量にある。これまでそうしてきたのと同じように、この寒季も越えられる……はずだった。イャノバは深く考えていないが、この寒季にはこれまでになかった新しい障害があり、ウタカはそれがとても大きな壁であると感じていた。

 黄色く燃える火から透かすようにして、ウタカはイャノバを見た。里長の屋敷の修繕をしていて、それももうじき終わる頃だった。もとの通りに完璧とはいかないが、機能的には申し分ない。風は通さず、雨漏りもない。イャノバの工作技術はだんだんと精度が上がってきて、二年前に物置小屋を造るのに成功してからずっと屋敷の修繕を続けていた。

 はじめは小屋をつくるのに成功したら、新しい家を準備するはずだった。生き残った里の人間が帰ってきた時のためにそうする必要があると、他でもないイャノバがそう言った。しかしイャノバは新しい家をつくろうとはしなかった。ウタカはそれについて聞かなかったが、その意味は十分に理解していた。

 三年前、海の向こうに神獣が現れた。イャノバはそれと闘うためにと言って虚空へ消え、帰ってきた。ウタカはイャノバの帰還を喜んだが、半日ぶりに会った彼はほとんど別人のようだった。それでもウタカが彼を受け入れることができたのは、イャノバが人の温もりを求めていたからだ。

 それから何年もして、イャノバはウタカを求め、ウタカはイャノバに応じた。里の巫女としての本来の仕事もそこにはあったから、ウタカは何かを嫌に思うことはなかった。自分がイャノバの心の支柱になっていることは彼女にとっての本望でさえある。

 ただ、半年ほど前からイャノバの態度は明らかに変わった。よそよそしくなり、時には拒絶さえする。

 ウタカは凍える体を震わせ、もうすこし火に寄って大きくなった自分の腹を撫でた。

「ウタカ」

 いつの間にかイャノバがそばに来ていた。

「大丈夫か、寒くないか」

「うん、大丈夫」

 ウタカは微笑んでみせた。イャノバにできることはなかった。イャノバも微笑んで、「哨戒に行ってくる」と残して去った。

 ひとり残ったウタカは、じっと炎に見入っていた。

 いっそこれへ飛び込んでしまえば、体の寒さもすべて消してしまえるんじゃないかしら。




 イャノバは灰色の海を眺めた。空に雲はじっと重く垂れ込めて、日の光もない。

 ウタカが身ごもったのは良かった。イャノバはその事を悪いとは思っていなかったし、いずれはそうなるだろうと予感していた。ただ、ウタカの腹が日に日に大きくなり、目に見えて衰弱していくような姿を見ているとどうしようもなく不安になった。

 ウタカに付き添ってやれるのは自分ひとりで、支えてやらなければならないというのは分かっていたが、里では身重を介抱するのは女の仕事で、男はそもそも身重の女に安々近寄ることすら許されなかった。だからイャノバは、今のウタカには近寄りがたいものを感じていたし、彼女のために何かできるとも思えないでいた。

 イャノバがじっと水平線を眺めていると、そこになにか影が横切ったように見えた。イャノバはハッとして目を凝らし、凍りついたように影を目で負った。それが見間違えだったのか、あるいは鳥か魚か、影はどこにも見えず消えていた。イャノバは胸をなでおろした。

 暗い海から風が吹き付けた。イャノバは毛皮を一枚だけ着て、あとは恒季の恰好、つまり半裸だった。その体には炎の力が満ちて寒さを感じない。暑さにも耐える。イャノバは冷たい風に気づきもしない素振りで踵を返した。




 イャノバとウタカの夕食では、普段どおりの会話しかなかった。

「味は大丈夫?」

「ああ、うまい。お前もたくさん食え」

「うん」

 イャノバが川から汲んできた水に塩と肉を入れたものだ。ウタカは様々な獣の肉を巧みに使って味良くそれを仕上げることができた。

 二人の間にそれ以上の会話はなかった。

 ウタカはイャノバが何かを恐れているのを感じていたが、それが何なのかは分からなかった。きっと本人でさえ分かっていないのかもしれない。その正体を知る日が来ることはないだろうと諦めかけている。

 イャノバはウタカという、自分のよく知る女がどんどん変貌していくのに心が追いついていない。もはや自分の手には負えないと、現実から目を逸らし続ける他なかった。

 ふたりは抱き合うようにしてしとねに横になった。イャノバの体は温かかったが、ウタカは毛皮の下で丸まっていた。すぐに寝息を立てはじめたイャノバの顔を、ウタカは闇のすぐ向こう側に見た。嫌がるイャノバに、ウタカはどうしてもと言い寄って同衾することになっていた。寒季の始まりからずっとそうだ。

 イャノバの働きそのものにウタカは不満を持たなかった。ただ、この寒季の寒さは一段と厳しいものになるとウタカは見通していた。自分はきっと、次の恒季を迎えることはできないだろうと。

 ウタカは我が子を愛でるようにイャノバの顔を撫でて、今ひとつ体を寄せて、目を閉じた。

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