第七話の4
ヴルゥが下位世界に侵攻を行うと聞いてから、ずいぶんと時間が経った。その間何度も門が開かれ、ヴルゥは力の安定のために試行錯誤をしているようだった。ヴルゥはダーパルのように物思いに耽るのが好きな方ではなかったから、ダーパルより大きな力をレッドカイザーに与えられながら、力の精度は今一つだった。
レッドカイザーは自分で門を開く練習はしなかった。なぜか練習しなくてもできる自信があり、いざとなればダーパルに開けてもらえばいいとも考えていた。
ダーパルは時折宮殿へ赴いて、ヴルゥの様子を見てはレッドカイザーに伝えていた。下位世界へ送れるのは一度に一体で、一度開ければ再度開くのに集中する時間が要るらしい。
「一度に一体? 奇妙な話だ」
「一つの門に一つの生命しか通せないという話ではないでしょうか。ヴルゥ様はまだ生まれて時間が経っていません、力の特徴や機微はそう簡単に掴めるものではありませんゆえ」
兵士を集め、誰が最初に行くかを決めたらしい。ヴルゥと同じ程に若い戦士で、血気に溢れているという。ヴルゥにはかつてレッドカイザーに仕えた二十の将軍が預けられているが、ヴルゥは彼らよりも若い戦士に支持されているようで、逆もまた然りだった。とくにハンバスはたまにレッドカイザーのもとへ来ては、それとなくヴルゥの考え方を非難し、レッドカイザーに逆座へ戻ってきて欲しいと仄めかすこともあった。レッドカイザーはそんなハンバスを嗜め、臣として我が子を支えてくれと言うのに留まった。
「ハンバスが味方に付けば心強いでしょうに」
「ハンバスがああ言ってきたのは、将軍たちそれぞれが異なる思惑を抱きつつあるからだろう。私がヴルゥと対立する道を選んだと言ってみろ、エーテル界はそのときこそ断裂してしまう」
下位世界侵攻については若い生命たちこそが沸き立っていた。戦争と虐殺を知らない闘争心が、かつてあった偉業と同じことを自分たちも成し遂げるのだという情熱へと変わった。
そしてついにその時は来た。
「門が開いた」
「はっ」
レッドカイザーは自ら宇宙に力を打ち込んだ。点が面へと変わるように空間が口を開く。その作業はあっさりとして、驚くほど簡単だった。下位世界へ通じる門は安定していて、レッドカイザーが力の供給を止めても残り続けた。ダーパルは、レッドカイザーが門を開く練習をしないので自分が開けるつもりでいたのだが、それが完全な杞憂だったことを知った。
「まずは意識だけ降ろそう。力を降ろすのはその後だ」
「そのようなことが可能なのですか?」
「分からんが、そこからやってみようという話だ」
レッドカイザーは下位世界へ降りるのは初めてのはずだったが、不思議と不安はなかった。できると思った大概のことは思うように進み、これから先の全ての未来が自分のために開けているという充実感すらあった。自分が下位世界で戦士となり、エーテル宇宙を相手に立ち回れば、両の世界が救われるはずだと確信していた。
レッドカイザーはダーパルに別れも告げず、固定された門を通り下位世界へ降りていった。
狭いところへ押し詰められたように周囲の状況が判然としない状態が続いた。レッドカイザーは自分の意識が何に降りたのか理解することもできず、目は見えず耳も聞こえなかった。灰色の世界が自分をぴったりと覆って、息苦しいことこの上ない。
レッドカイザーはすぐそばに力を感じた。エーテルの力だ。ヴルゥの配下が、門を通って限界したのだろう。力そこにあることは分かるが、物質界で"断面"と化したその形質を捉えるのは困難だった。知っているものでも対面しなければ判別はできないだろう。一方で、下位世界に来てこれだけ力が薄弱になってしまうからには、相手から意識だけの自分を見つけるのはまず困難なはずだろうという分析もできた。
敵たる戦士の力はすぐそばにあるようだが、それは宇宙の規模から見た距離で、物質界の空間的な広がりの上で見る距離はそれなりにあるように思えた。
レッドカイザーは色々考えて、自分がエーテル界と同じものの見方をしているのがいけないのだと気づいた。下位世界では下位世界でのものの見方をしなければならない。さすがにこればかりはしようと思ってできるものでもないかもしれんと、できないで元々の精神で挑戦してみた。
この器には目も耳もないようだった。しかし、周囲の状況が少しずつ判別できるようになっていった。
(ふむ、不思議だ。物質がエーテルのように見える。形なき部分の本質的な側面だ……いや、こんなことがありえるのか? 物質界でこのような……)
思いながら、レッドカイザーは自分の状態を探ってみた。
周囲には下位世界の生命体がずらっとならんで自分を見守っているようだった。かれらは二本の脚と二本の腕を持ち、胴の上に頭があった。二つの丸い目、二つの尖った耳があり、ものによって口を開けたり閉じたりしている。彼らはわずかばかりの服飾で動の一部を隠していた。傍らに二体の生命ががいて、今レッドカイザーの入った"体"を手に取った。これは小さい体だが、意識がミクロ物体ではなくマクロ物体に移ったというのは僥倖だった。乾いた木の枝を芯に蔦などを巻いて形を整え、泥を塗り火を入れて表面を固くしたものらしい。
さてレッドカイザーの意識が入った白い人形を手に持った生命体は、それを両手に持って天に掲げた。隣のもう一体も同じことをしている。そして、隣の生命は手に持っていた人形をすぐ背後の火に焚べた。
(むっ! なにっ!)
『待て!』
自分を持つ手が火へ向かって動いた刹那、レッドカイザーは声を発した。いちかばちかの賭けだったが、声は届いたらしい。レッドカイザーを手にしたものはもちろん、周囲の生命も声の主を探している。
『私はここだ、この人形だ。どうか燃やさないでいただきたい』
レッドカイザーはまくしたてるように訴えた。十か二十か、数多の生命の目がレッドカイザーへ注がれる。
「なんと、まあ」
「アキノバさまがご降臨なすったのじゃ」
「これ、イャノバ、こっちへ」
レッドカイザーを持つものが何れかを呼ぶと、衆人の中から一体の生命が歩き出てきた。老女はその少年に恭しい手付きで持っていたレッドカイザーを渡す。少年もまた両手でそっと受け取った。
「アキノバさま、どうか知恵のない我らに教えてください。此度天上の世界からのご帰還は、邪悪な霊をお鎮めになるためでございましょうか」
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