第七話 始まりの炎

第七話の1

 はじめ、そこには何もなかった。

 漂う一つの意識は自分の敵となるもの探し求めて、それを灼くことだけが自分の存在証明だとせんばかりに敵意をむき出す。しかし、この空虚にはその炎以外には一切何もかもが存在していなかった。

 炎は自らの灼くべきものを探すため、目を凝らし、耳を澄ませた。肌に感じるものを敏感に捉え、次の瞬間には持てる力のもとに塵芥へする心構えでいた。

 目には何も見えない、耳には何も聞こえない。肌に触れるものは一つとしてない。

 いや、違う。

 炎は永い時間をかけて、ようやく気づいた。

 敵はいる、おれの周りに、ずっと見えていて、聞こえていた。常におれをまさぐっていた。いつの間にか辺り一帯に立ち込めていた力は霞のようで、”存在している”とは言い難い性質のものだったが、炎にはそれで十分だった。

 ようやく見つけた怨敵を、こらえきれず一息に殺してしまうように、炎は時という時をかけずに自らを取り囲む微細な力を灼き尽くした。灼いてしばらく経つと、空虚の狭間から再びにじみ出てくる。それを再び灼く。疑問もなく、楽しみもなく、ただ己が使命感のために炎は力のゆらぎ、エーテルを打ち消していった。

 やがてひとつの変化が起きる。エーテルたちは炎から逃げるように動き始めた。意思を持っているわけではなかったが、エーテルは灼かれることを嫌ったようだった。炎はやはりそれを灼いた。これまでずっとしてきたのと同じように、無感動に、逃避するエーテルを灼いた。

 エーテルは数えることはできない。全てが単一存在であり、同時に独立していた。逃げるときはすべて一緒くたに逃げた。その中から、炎へ立ち向かうものがあった。仲間を逃がす時間を作るように炎にまとわりついたが、一つの手間もかけさないで炎はそれを灼いた。

 逃げるものがいて、立ち向かうものがいた。炎はそのどちらも灼いた。すべてが無意味である連鎖の中で、逃避するエーテルたちは少しずつ少なくなっていき、立ち向かうものが多くなっていった。それで何か変わったことなど、一つもなかった。

 変わったことが起き始めた。炎に立ち向かうエーテルは、それに対抗するために像を持ち始めた。形質の獲得である。エーテルによって骨をつくり、エーテルによって肉を作った。原始的なエーテル生命は、獲得した構造を剣として盾として炎へ挑んだ。

 炎が形を得たエーテルを灼くたびに、それらは少しずつ学習し、形を変えていく。次第に大きくなり、強靭さを手に入れ、獲得した構造のもとに得意なエーテルの現象を発生させられうようになっていった。炎にしてはやはり、それらを葬るのに手間の一つもかけなかった。

 どれほど進化し、どれほどの力を手に入れ、どれほどの徒党を組もうがエーテルたちに炎への勝ち目はなかった。それでもエーテルは諦めることをせず、炎へ立ち向かう。閉じたこの宇宙で、ここにしか生きる場所がないためにと。

 あるいは、宇宙の意志が炎を消すことを願っているのかも知れなかった。

 エーテルと炎の戦いは一時の休みもなかった。エーテルたちは死ぬだけの戦いに挑み続け、炎は面白げもなく淡々と向かい来るものを破滅させた。

 そのような苛烈な戦いのために、はるかな時間が過ぎ去った。

 エーテル生命はより一層の力を手にし、知を得た。仲間を理解し、友を得た。戦士たちの心は結束し、炎への攻撃は激しさを増すばかりだった。

 徒党を組むエーテル生命たちの様子を見てか、それとも悠久の果てに思い至ったのか、炎はふと、なぜ自分はエーテルを燃やさなければ気がすまないのかを疑問に思った。

 胸の奥にある衝動になぜ、と問うても返事はからだった。エーテルへの憎しみの根源は、とうの昔に失われてしまっていた。

 そうしてはじめて、炎は自分の内側に関心を向けた。

 自分は何を知っているのか。この力は一体どうやって手に入れたのか、なぜここにいるのか、自分は誰なのか。

 あらゆる自問におよそ返る答えはなかった。

 憎しみの起源すら忘却してしまえば、この炎には今エーテルを燃やす意義はなかった。炎は襲いくるエーテルの只中を通り抜けて、何もない宇宙の辺境へと至った。戦いから離れていれば、いずれ思い出せることがあるかも知れなかった。かつて激しい憎悪を向けたエーテル生命を野放しにして、感情が再燃することがあれば、その起源について知ることがあるかも知れない。

 炎はそれから鳴りをひそめ、死んだように時を過ごした。

 自分の内側を探索することを除いて、何もしなかった。

 何かを成し遂げたかったはずだと気づいた。それはどうしても成さなければならないことだった。そのためにエーテルを灼いたらしい。それももう意味のないことだと炎はひとりで納得した。

 自分はいつからここにいるのだろうか。宇宙の始まりとともに生まれたのだろうか、ともすればこの宇宙の意志そのものか、あるいは進化を促すなにかの装置なのだろうか。そうでも思わなければ、これほど強大な力を持っていることを説明できなかった。宇宙を作ったものの力だと思えばまだ理解できた。

 自分はなぜ存在するのか、考えても分からなかった。このエーテル宇宙にいのちを芽吹かせることが、我が使命だったのかもしれぬとも思った。

 世界の果てから眺める宇宙は輝きに満ちて、穏やかで、美しかった。大きな光と小さな光が無数に瞬いている。炎は、自分の役目は終わったのだと思った。




 永い時間の果てに、一つのエーテル生命が炎の前に立った。力はそれほど大きくないが、たった一つきりで宇宙を灼く炎の前に立つからには、ただならぬ気勢を感じさせた。

 エーテル生命はダーパルと名乗った。

「今、生命あるものたちによって巨大な戦争が起きています」

 ダーパルが言うところによると、エーテル生命は無数の派閥に別れ、この宇宙の中央をかけて終わりなき戦いを繰り返しているようだった。宇宙の中心を手に入れたものは、強大な力を得ることができるという。それこそまさに、かつて宇宙を灼き尽くした炎、”始まりの炎”のような偉大な力を。

 戦いは、炎が宇宙の中心を去ってから起こり、それから今まで一度の絶え間もなく続いているとのことだった。

「この同胞同士の戦いを、どうか始まりの炎さまに止めていただきたいのです」

 ダーパルもまた、生まれた時は戦士であった。力は強くなかったが、それ故に多くの友や仲間とあった。敵であるエーテル生命と打ち合うたび、友が消えた。悲しみは次の戦いへの動力源だった。しかし、それを何度も何度も繰り返すうち、なぜ自分が生き残り、仲間が消えていくのか、それを不合理に思うようになった。やがて友を失うことを恐れるようになり、ダーパルは戦場を離れ、ひとりとなった。宇宙の縁から見る世界は美しく、穏やかだった。そしてダーパルはなぜ、始まりの炎が宇宙の中心を明け渡し、突然に消えてしまったのか、その理由に気づいた。始まりの炎もまた、この宇宙の美しさを知ったのだと。

「聞きもしないことを色々言ってくれるが、結局は友がなくなるのが恐ろしいだけだろう」

 炎は言った。

「私はいやだ。この力はもう使わん。一つとして生命を奪うことはせんと決めた。この力は強大で、一つの意思のもとに使って良いものではないんだ」

 ダーパルは答えた。

「我々は若く、戦いしか知らない。エーテル生命は戦うために生まれるものです。だが、ならばなぜ友を労れるのか、宇宙を美しいと思えるのか。私はこの世界について、より多くのことを知るべきだと思うのです」

 より多くのことを知るべきだというダーパルの言葉は、炎の胸に切れ込みを入れた。

「我々の力は貧弱で、同胞を殺すことしかできない。だが、あなたの炎ならば争いそのものを灼くことができる」

「ふむ……」

「どうか、力持つものの責務、始まりの炎の精算すべきこととしてこの戦いを終わらせていただきたい」

 炎は少し考えた。ダーパルの言うことはもっともらしい気がした。

 エーテル生命たちの戦いは、元はと言えば炎がもたらしたものだと言える。それらに戦う力を与え、それを使う理由も結果として与えた。それを諌める責はなるほど、種をまいた自分にあるらしい。

 また、多くの生命を燃やさねばならないだろう。それを炎は、かつての自分の傲慢への精算だと思うことにした。そして正真正銘、これが力を使う最後のときだと、自分に誓った。

「行こう」

 声は重かった。

 ダーパルは、炎に名はないかと聞いた。炎は名を思い出そうとして、全てが忘却された中に一つだけ、小さく刻まれたように残ったその言葉を自分の名として使うことにした。

「レッドカイザーだ」

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