第五話の7
殺気を隠そうともせず階段を上っていき、目的の階まで来た。大きな窓を嵌める予定の外壁の向こう側には金属製の棒で組まれた足場があり、網のようなシートが建物を覆うようにかけてある。
遅い夕暮れの残火がひっそりと窓辺を照らすがらんどうの中心に、一台のカメラがあった。
アキは一瞬体から力を失い、足から崩れかけた。それをなんとか堪え、自分を鼓舞するように早足でカメラの方へ歩いていく。
『アキ、どうした? 何が起こっている』
「ユイがさらわれた」
『なに?』
レッドカイザーは上ずった調子で返した。ユイとは誰で、それが攫われたという状況を素早く飲み込むのは難しいことだろう。八年前一度だけ話した少女の名など覚えている方が珍しいし、覚えていても死んだはずなのだからどう転んでも混乱する。レッドカイザーはそれ以上の説明をしばらく待ったが、アキは何も言わなかった。
カメラの左右にはスピーカーがあった。中々値の張りそうな中型サイズで、寛大なことにステレオで何かを聞かせてくれるらしい。
《こんにちは、怪獣の子よ》
聞いたことのない男の声だった。歳を取っているようだが、初老にも達していない若く力強い声だ。その男の顔など分かるはずがないのに、アキにはそれが異国の人間で、複数人でユイを囲っているのが目の前に見えるような感覚がした。
『どうしたアキ、何が起こった』
レッドカイザーが語り掛けてきたが、アキは無視した。
レッドカイザーにはこの手の遠隔での会話はできない。近くにいれば高級な防音室の壁を隔てても会話ができるが、それは物質的な音と言う現象を把握しているからではなく、人の表層意識、その更にごく浅い部分と意志のやり取りをしているからだ。
目の前にスピーカーがあって、ユイを攫った張本人から話しかけられていると、アキは一々説明する気がなかった。カメラにはアキ一人しか映っていないし、怪獣が出現している今現界を急かされるかもしれないからだ。
アキはレッドカイザーに無視を決め込み、カメラに向かって話しかけた。
「てめえら、自分が何したのか分かってんのか」
肩で息をして、体の芯は熱いが背筋には絶えず冷たいものが走っている。
体がばらばらになりそうな感覚を覚えながら、アキは精いっぱいの強がりを見せた。
《我々に彼女をどうこうしようという意思はありません、安全は保障しますよ》
「だったら! すぐに開放しろ!」
怒鳴るとがらんどうのビル内に声が反響する。カメラの向こう側にいる男は、少し時間をおいてまた言葉を発した。
《まったく、なんて……醜い》
「なに?」
《君の品性、人格、思考、すべてがその力に見合ってない。なんておぞましい存在なのか。この星が君を守護者に任じた意味が分からないな。いや、あるいはそれも我々人類への試練なのかもしれない》
アキの目が釣り上がって髪が逆立つ。手は真っ白になるまで握られていた。
侮辱されたからではない。武力で圧倒的なイニシアチブを持つアキは、この程度の蔑みに青筋を浮かべることはない。アキはこの期に及んで自分の世界に入り浸り、その妄想を絶対的に正しいものとして押し付けてくる男の性根が端まで気に入らなかった。
「人を攫っておいて言うことじゃないぞてめえっ……! ユイを返せ! てめえらも出てこい! 全員ぶっ殺す!」
《恐ろしい。彼女も怯えていますよ》
「ユイ!」
《アキ》
ユイの声がした。
《私は大丈夫、何もされてない。だから、怪獣のところへ》
「だめだ、怪獣よりも君が!」
『アキ、ユイが危機なのはわかった。しかし今は怪獣を』
「レッドカイザーは黙ってろ!」
『……』
アキは頭に血が上ったままだが、今自分が言ったことをなんとか振り返り、毒をあおるような苦渋の表情でカメラから一歩引いた。
「もうすこし、頼む、待ってくれ」
『ああ』
《レッド、カイザー》
レッドカイザーの声は男に届いない。ただ、アキの口走った単語は興味深かったようだ。この男の妄想力なら、レッドカイザーと言う名前と赤い巨人を安易に結びつけることなど造作もないだろう。
「要件は」
《簡単です。今ちょうど、怪獣が出ています。我々の計画をこの星が祝福し、試練を与えて下さった……そうとしか思えない完璧なタイミング!》
「おいッ」
《あなたには、怪獣と戦って死んでもらいます》
アキは眉をひそめた。
「俺を、殺したいのか? 俺が死んだら怪獣は永遠に地上を彷徨って破壊しつくし、人類はおろか他のあらゆる生物も死に絶えるぞ」
《その通り。そして、試練に耐えた者だけが新時代に到達できる》
ばかげている。そんな歪な自殺願望を叶えてやるためにユイは攫われたのかと思うと、アキは怒りを通り越して呆れさえ覚え始める。
「あんたは、俺がこの星を守っている側だとは考えないんだな」
《あなたが? ご冗談を》
男は笑いを含ませた。
《怪獣はこの星の血肉から生まれるもの、そして死すれば星へ還るもの。この星の意思が生み出した怪獣に対抗する者が宇宙意思への反逆者であるというのは、自明だと思うがね》
前提が食い合わない。アキはレッドカイザーから得た知識で、怪獣がエーテル界からの侵略者だと知っている。男の方は見たものを見たとおりに解釈し、そこに自分の願望を加えてそれらしい理屈を作り上げている。
クソカルトが、とアキは内心で毒づいた。
「殺したいならここでショットガンでもおいて自殺を迫りゃよかったはずだ。あんたまさかそんなことも考えつかなかったのか? それとも、全人類もろとも心中するつもりでも目の前で人一人が死ぬのは怖くて見たくなかったのか」
《いいや。我々は人を殺さない。全ての命の運命は怪獣の一歩によって決まる。尊き一歩によってな》
「だけど俺には踏みつぶされに行けと言うんだな」
《君が真に選ばれし者ならば生き残れるだろう》
『アキ』
レッドカイザーに呼ばれる。アキの胸の内の炎が猛り始める。それを必死に抑えながら、アキはカメラを睨みつけた。
「ユイは」
《あなたが死んだのを確認したら開放します。それには時間がかかるかもしれませんがね。その確認が取れない限り、彼女はお返しできません》
「てめえ!」
《安心してください、彼女の面倒は我々で見ます》
《アキ行って! 私にかまわないで、怪獣を倒して!》
『アキ!』
アキはカメラを凝視して、黒いレンズの向こうでほくそ笑む男の顔が見えた気がした。
ユイ、どこにいるんだ。
これから怪獣と戦いに行けば、帰ってくるまでに怪獣教は街を出るかもしれない。そうなると、もう自力では見つけ出せない。自力で見つけたとしても、アキが迫っていると知って簡単にポリシーを曲げてユイを殺すかもしれない。
アキにはユイが救えない。火照った頭ではその方法が思いつかない。
救う方法は一つしかない。
しばらく沈黙を保っていたアキは、粉々に生唾を飲み込んで言った。
「ユイ、必ず助けるから」
アキはユイから何かを言われる前にカメラの後方へと駆けだした。
まっすぐ走り、バッグの中の黒いケースを開けて、熱を持った赤いおもちゃを取り出した。薄暮の地平は街の陰に隠れ、天まで明らかにするような輝きが街に満ちている。人の欲望と変わらぬ光が、いずれ必ず訪れる終焉の気配にすら怯えるように。
風の吹きいれるその先に飛び込みながら、アキは叫んだ。
「レッドカイザー! 現界!」
アキの体は黒く染まり、世界から消失する。
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