第五話の3

 あれから八年が過ぎているのだ。当時アキは十歳だった。もう二年もすれば十年経ち、両親と過ごした時と同じだけの時間を一人で生きたことになる。アキは自分が彼らからどんなふうに呼ばれてどんな声色で呼ばれていたのか、もうほとんど覚えていなかった。それを忘れるのに十分な時間が経っていた。

「でも、無事ならなんで連絡をくれなかったんだ? 君が無事だと知ってたら俺は」

 俺は、どうしたんだろうと自分で思いながらアキは聞いた。

「連絡は、取ろうと思ってた」ユイはアキを見ないで答えた。「でもアキ君がどこにいるか分からなかったから。テレビで戦ってるのは見てたから、元気にしてるんだって言うのは知ってたよ。だから私もそこまで必死になって連絡先を探そうとは思わなかった」

 アキは相槌を打ってから、ユイの言うことに引っかかった。ユイは世に稀な能力を持っている。下位世界のエーテルと言う不確かなものを目にすることができる力だ。それを使えば、アキの居場所など簡単に知ることができただろう。ユイは自分で思うところがあってアキとの接触に積極的ではなかったのだ。

 ユイはアキをちらと見た。赤みがかった瞳は揺らいでいて、悲しみとわずかな後悔が見て取れた。それからアキのショルダーバッグへ目を落とした。

「”彼”も連れてるんだね」

 ユイはレッドカイザーのことを知っている。盗まれたレッドカイザーの居場所を当てたばかりか、一度だけ二人を会わせ、話しをしたことさえあった。ユイには現界した時とおもちゃの時とで全く違うものに見えるようだった。上位世界のエーテルを降ろしていないレッドカイザーは普通の人にしか見えないらしい。レッドカイザーはエーテル界の戦士と言う超常的な存在である一方、あまり近寄り難さはないのでアキにもその感覚は分かる気がしていた。

「まあね」

「うまくやってるんだね」

「どうだろう」

 そのアキの返事は、ユイにとってはさほど予想外と言うわけでもないようだった。

 アキは、思い至って試しに聞いてみることにした。

「アバンシュ、って何か分かる?」

「え? うーん……」

 明後日を見てユイは考えていたが、思い当たるものは無いと首を振った。

「レッドカイザーの炎の力を使うと聞こえてくるんだ、アバンシュって言葉が。多分怪獣がそう言ってるんだ」

「彼に聞いてみたら?」

「レッドカイザーは教えてくれないんだ。聞かれたく無いみたいでさ。それでか分からないけど、怪獣が出ないとほとんどこっちに来ることもなくなって。なんだか……信用ができない、というか」

「誰にでも隠しごとはあるよ」

「でも、俺たちは命がけで戦ってる協力者同士なんだよ」

「じゃあアキ君は彼に全部本当のことを話してるの?」

 それはどういうことだろうとアキは思った。当然そのつもりだった。レッドカイザーには一切の隠し事をしていない。しかしユイの目は、困惑するアキの目を通して彼の心に奥底にあるものを、自分自身で認識できいないものさえも見通しているようだった。

 とたんアキはなんだか後ろめたくなり、別の話題を探そうとした。無意識的に都合の悪いことから離れようとした。

「ユイは、その……そうだ、なんでここに戻って来たんだ? 家族は?」

「一人でこの街に住んでるよ。どこも家賃高いから、狭い部屋でも大変。この街に来たのは、私の歳でも稼げると思ったから。物価も貨幣価値も上がってて、私たちはこの国の人間だから今は影響薄いけど、この先分からないでしょ。今のうちに少しでも多く稼いでおきたいって思って」

 そこまで聞いて、アキはユイが何歳か知らないことに気付いた。同い年だと思っていたが、同学年でユイの顔は見た覚えがない。

「ユイって何歳なんだ?」

「今年で十九」

 アキより一つ年上だった。目を丸くしてユイのオフィスライクな恰好を見直すと、妙な色気があるように思えた。

 それから二人で当たり障りのない会話をしながら歩いた。ユイは話すと長くなる会話を避けているようだったので、アキも二三言で終わるような話題を出した。

 じきにユイが立ち止まったのは、巨大なビルの前だった。高さもあるが幅もある。レッドカイザーを縦に二回並べてもお釣りがあるな、とアキは想像した。多様な国籍の人間が絶え間なく出たり入ったりしていて、みんながみんな仕事のできるエリートに見えた。

「じゃあ私ここだから」

「えっ」アキは驚愕した。「こんな、こんなすごそうなところで働いてるのか!」

「まさか、アキ君世間知らずだね。このビルは一個の会社が運営してるんじゃなくて、フロアごとに違う会社が事務所として使うことを契約してるの。会社のマンションみたいなもんだよ」

 それでもこんな立派なビルに居を構える会社はとんでもない大企業に違いないとアキは思った。

 アキは見落としていたが、この街ではこれが普通だった。一戸建ての建築は数えられるほどに少なく、それらは全て最上階級の有力者の住まいだ。崩壊区域の限られた土地にはマンションやビルを建てて、とにかく多くの人が入るように、とにかく多くの事業が可能なように設計されている。この国は地震が頻発するから、万が一にも倒壊しないよう極めて頑丈に、幅も十分とった建物が作られる。そのうえ一番古い建築でも五年以上前のものは存在しないから、つまり街には新築の物件しかない。世の億万長者がこぞって居を移したこの街は世界のビジネスの最先端であるし、ここに事務所を持つことは今一つのステータスとなりつつあるから、目玉の飛び出るような契約料でもフロアを借りる人間は多かった。

「それに私はここの会社員じゃない。フリーランスの翻訳者やってるんだ。今五ヵ国語を喋れるの」

「五……すごいなぁ」

 アキは感心しながら、ユイは自分の才能を今の時代でも有効に使える道を見つけたのだなと気付いた。レッドカイザーはかつてユイの能力をシャーマンや巫女のようなものが持つ感覚だと言ったが、より踏み入った言い方では”下位世界のエーテルを感じる力”らしい。その超越的な感覚は言語の習得にも、初対面の人とのコミュケーションでも使える強力な武器になるだろう。

「この街って外国の人多いでしょ。だから、私みたいなフリーの翻訳者が需要高いの、特に三ヵ国語以上話せる人。会社の機密とかにも触れる機会があるから、違約したらとんでもない賠償を払ってもらうって契約書を書かされるんだけどね。私は信用も実力もある」

「すごい自信だな」

 この仕事はユイにとっても楽しいもののようだった。楽しそうなユイを見ると、アキも温かい気持ちになる。

 ビルの方に歩き出したユイを、アキは呼び止めた。

「仕事、どれくらいで終わる?」

「多分、四時間とか、それより長くなるかも?」

「待ってていいかな」

 ユイは少し考えてから、特に嫌がる様子も、かといって別段嬉しそうにするでもなく言った。

「アキ君がいいなら」

 ユイの背中がビルのガラス張りの回転扉の向こうに消えるのを、アキは見送った。ビルの正面を通る歩道のガードレールに腰かける。晴れた秋の気候で過ごしやすく、風はあるが寒くはなかった。

 アキは体温が一般の人よりも高く、四十度近くある。レッドカイザーのエーテルのせいだろうが、それに何か不便を感じたことはなく、逆に夏だろうが冬だろうが一定の調子で過ごせることやこの数年一度も体調を崩したことがないなど、有利に思える点はいくつかあった。

 しばらくアキはじっとしていた。ビルを見上げて、ユイは何階にいるんだろうと考えた。大人の女性になったユイが、いかにもエリート然とした外国人たちに囲まれて自分の手腕を振るっているのを想像した。

 ユイは見た目もいい。アキは思った。能力も高いとあっては、さぞモテるだろう。恋人など、いるのだろうか。さっきは一人で暮らしていると言ったから、そこまで深い関係の人はいないのだろう。

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