第五話の2

 事実上の異国外であるこの街にはとにかく外国人が集まる。政府がそのように主導しているというマクロな理由もあるし、移民者たちが自分の言語が通じる人間に会う期待や母国に近い文化の中に身を置きたいというミクロな理由もある。

 人種のるつぼであるこの街は、とにかく治安が悪いのだ。金を持たない者、命のために母国を捨てた者、怪獣災害で家族を失った者、怪しげな新興宗教。この街は国外の有力者が投資をして成り立ったという経緯から、政府の力の働きかけが弱く半ば企業たちの治める自治区と化している。警察は明らかに人材が不足しているし、異国語が分からないまま怪しきを罰する体制で強気に出てしまうと人種差別だと騒がれかねない。

 人々はそれを良しとせんばかりに悪事に手を染めた。ひったくりをし、強盗をし、暴行を働いた。

 アキの日課は、そんな犯罪者たちを見かけた端から痛い目に遭わせることだった。五年前、彼の通った中学で得たシンプルで強力な手段だった。痛い目にあわせて、逆に手持ちの財を失わせてやれば反省するだろう。それでもまた罪を犯すならば、再び断じればいい。

 逃げるひったくり犯を片っ端から掴まえ、顔を殴り、強盗犯の覆面から服から全てはぎ取って素っ裸で放り出し、路地裏で白昼堂々暴行やカツアゲが行われていれば骨の一本二本は砕いた。たまにパトロール中の警察に見つかってもアキには関係なかった。麻痺している司法の穴を自分が埋めているという意識は、制服を着た彼らへの労りすら生んだ。あらゆる実力行使の通用しないアキを拘束する手段などないのだから、警官たちも彼を見逃すほかなかった。

 幸か不幸か、アキは罪を犯した人間にしか拳を振るわないから、この街の警察組織には彼のすることを黙認するような風潮までできつつあった。

 アキはこの、罪を力で購わせる日課の最中は常に上機嫌であったし、この日もそうだった。凪のような心で、誰が見ても悪だと明らかな現行犯をとっちめるのは充実感がある。

 また一人、ひったくりを見つけた。四車線の車道を挟んだ先の歩道で、男が人込みを強引に走り抜け、その後ろを女が追っている。

 男の進路を目で追うと信号機があった。そこを渡って捕まえようとアキが動いたとたん、ひったくりの男に誰かが体当たりを仕掛けたのが見えた。別の女のようだった。全体重でもって男に仕掛けた女はもろとも地面に倒れたが、そのまま押さえつけるようしながら揉み合いになった。

 これは急いだ方がいいと、アキが横断歩道へ走ろうとしたとき、何かが胸を騒めかせた。

 あの女。

 アキはガードレールを越えて、車の行きかう車道へ出た。背後に小さな悲鳴が聞こえ、喧騒の焦点がアキへ向く。何かにとりつかれたようにまっすぐ反対側の歩道へ歩く男は、明らかに他の車への注意を欠いている。

 車が寸で止まり、ブレーキをかけながら進路を変えなんとか男を避け、かと思えばせっついていた後続車両に小突かれる。クラクションとドライバーの怒号に晒されてもアキは一切怯みもせず進んだ。

 女とひったくりがコンクリートの硬い地面で揉み合っているところに着いて、アキは女の後頭に向かって声をかけた。

「ユイ……?」

 自分を向いた女の目は、赤みを帯びて大きく、人の心を覗き込むような深さがった。こんな目をした人を、アキは他に知らなかった。

 八年前、自分の力が足りなかったばかりに死んでしまったはずの女の子が、生きていた。

「アキ、くん」

 目が合って、一瞬動きが止まった拍子に男はユイを突き飛ばし、拘束から抜け出した。アキは咄嗟にユイを支え、脚を伸ばして立ち上がった男の両足に引っ掛け転倒させた。うつぶせになった男は、意識を飛ばしたのかもう動かなかった。

「大丈夫?」

「う、うん、ありがとう……」

 バッグを盗まれた女はすぐに現れた。アキは男からバッグを取って返し、それから懐を探った。

「何してるの?」

「有り金探してる」

「え?」

 紙幣二枚と小銭が二枚出てきたので、ひったくり被害に遭った女に渡そうとすると、ユイがそれを止めた。ユイが異国後でなにか言うと、女は礼を言って去っていった。

「あっ、まだ渡してないのに」

「それは、この人に返して」

「無駄だよ、こんなところで寝てたらどうせ全部取られる」

「じゃあ安全なところに運んで」

「そんなところないけどなぁ」

 アキは意識のない男を路地裏のごみ箱の影に置いた。金も返したが、納得いかなかった。ユイに振り向くと、いない。人ごみ戻って頭を巡らせて、見つけた彼女を追いかけた。

 ユイは早足気味に歩いていたが、人が多いので実際はそう速くなかった。アキはゆっくり目に歩いてユイと並んだ。ユイはパンツスーツに近い格好だが、色は明るいし大きめのジャケットが余裕を作っている。かつて黒かった髪は茶色く染められて、肩の辺りまで伸びている。

「ユイ、その、キミにもう一度会えて俺はすごく嬉しい。まさか生きてたなんて」

 何と言っていいか分からないまま、アキは思うままのことを言った。

「どうしてあの人からお金を取ったの」

 ユイは眉根を寄せていた。アキは困惑しながらも答えることにした。

「だって、ひったくりをしたんだよ。人のバッグを盗んで、なんのお咎めもナシじゃまた同じことをするし、盗まれた人も可哀そうだ」

「あの人がなんで盗んだか分かる?」

 横断歩道に差し掛かり、信号を待ちをしながらユイはその大きな赤みのある目でアキを見た。不意に胸が高鳴ったが、アキは反射的に目を反らした。

「不法入国者だから?」

「そうするしかなかったからよ」

 信号が青になり、人波が一斉に動き出した。

 昔はアキとユイは同じくらいの身長だったが、今ユイはアキの肩くらいの背丈だ。アキは体が大きくなって、背は高く筋肉もある。父も母も大柄ではなかったから、アキは自分の体格についてレッドカイザーのエーテルの影響を考えていた。

「彼らは怪獣災害のせいで、来たくもない国に来るしかなかったの。家族の命を守るために。それで財産を使い切って、家族丸ごと路上生活をしてる人がたくさんいるの。この危険な街で、今日明日生きられるかって極限の中に彼らはいるの。だから、お金を取るなんて絶対ダメ」

「それは自業自得じゃないか。何の覚悟もしないでろくに想像力も働かせずにここに来て、ひったくりに失敗したら被害者面は正直どうかしてるよ。それに、キミだってあいつを掴まえようとしてた」

「悪いことを見過ごせって言ってるんじゃないの。ただ、お金を取るなんてことやめて欲しいの。それは、あの人だけじゃなくてその家族全員の命を奪うことにつながるんだよ」

 アキは頭をかいた。

「でも罪を償わせないと、また同じことをやる」

「お金が無くなったことに気付いたら、もっと過激な手段に出るかもよ」

 そうしたらもう、両足の骨を折るなりするしかないだろうな、とアキは考えた。でも、ユイはそれにも反対するだろうと思った。この街の司法は麻痺しているから、一々警察に突き出すわけにもいかない。ただでさえキャパシティを越えてるのに、アキの掴まえた現行犯を連れて行こうものなら日に三十人分の対処すべき事案が追加で発生しうる。

 街のためを思いアキは私刑を下しているが、ユイが嫌がることをするのも気が引けた。

 一番いいのはユイの前では罰を軽くし、ユイのいない場所では今まで通りに振舞うことだが、それはアキにとって自分にもユイにも嘘をつくようであまり採りたい手段ではない。

 考えるアキを見たユイはため息をついて、少し遠い目をした。

「あの日」

 ユイの声色が変わったのに、アキは気付いた。

「私たち家族は午前の輸送車で移動することが決まったの。アキ君に何も言わなかったのは悪かった。本当はお別れを言ってから去りたかったんだけど、地震があってね。怪獣の地震。それで一刻も早く移動するってなって、そのままお別れになっちゃった」

「そう、だったんだ」

 アキにとってあの日のことは既に遠い過去のことだった。怪獣に両親を奪われたという事実とその憎悪は形ばかりのものとなっている。

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