第五話の4

 一人で物思いにふけっているうちに、アキは自分が浮かれていたことに気付いた。ユイにもう一度会えた喜びに身を浸して、とりあえずここで待つことにしたが、これからのことなどは全く考えていなかった。

 ユイは八年前に死んだと思った。だから再開できるなどとは考えなかったし、再会したらどうしようともいうことも考えたことがない。

 両親の記憶が薄れるように、ユイへの気持ちも限りなくゼロへ近づいていたはずだったが、この運命的な出会いを経て、アキはユイへの気持ちが一層強くなったことに気付いた。

 ユイを他の男にやるのは嫌だと心から思い、自分なら彼女を幸せにできると確信し、またそのための努力を怠らないことも誓えた。

 ユイさえいてくれれば、ユイがいてくれたなら……。

 ふとアキの胸に蘇ったのは、古い記憶だった。五年前、中学校の校庭で暴走族かなんかの集団を半殺しにした時の記憶だ。その光景を生々しく思い出しながら、それが自分の知っている歴史と異なる道へ逸れた。視線を感じてアキが振り返った先には制服を着たユイがいて、悲しそうな顔をしている。アキは自分が何をしたかを知って、後悔し、ユイの胸で泣いた。

 ハッと気が付いて、アキはそのイメージから現実に戻った。ポケットから携帯端末を取り出して時間を見ると、ユイがビルに入った時間は確認し忘れたが、二時間はまだ経っていないようだった。

 それから、あっと気付いた。ジローから貰ったこの端末は、ジローの連絡先しか入っていない。たまに電話の呼び出しが鳴ってもジロー以外からかかって来たことはないし、頻度も極めて低い。だからすっかり忘れていたが、これでユイと連絡先を交換しておくべきだったのだ。

 もうしばらく待てばユイが戻ってくるだろうから、その時に改めて聞こうと、アキは端末をポケットにしまった。

 ユイがあの回転扉から出てくるのを今か今かと待つうちに、アキの勘が左を向かせた。ビルの正面は比較的人通りが少ないが、左右に続く道路は相変わらずごった返している。その中に不自然に体を揺らして早歩きをする男を見つけた。

 アキは立ち上がってそちらへ向かって歩いた。男は一瞬動きを緩め、かと思ったら素早く反転し人ごみの中を走り出した。人を突き飛ばした後ろから、タイトなワンピースを着た女が追いかける。

 男はアキの方へ向かうように走ってきていたが、アキから見て右へ角を折れた。ユイの入った高層ビルに沿うよう走る男をアキは早足で追う。比較的小さいビルとビルの間にある狭い路地に入ったのを見て、速度を上げた。薄暗い路地はビルを挟んだ向こう側にある道路と連絡するように続いている。途中右に折れる分岐があったが、男はまっすぐ行こうとしていた。

 アキは飛ぶように走って瞬く間に男に追いつくと、あっという間に組み伏した。暴れる男の顔面を一発殴り、気を断たせると盗んだバッグを取り上げた。そしていつものようにポケットをまさぐろうとして、ユイの言葉を思い出した。

 今しがた殴った男の顔をアキはよく見た。鼻血を出して白目をむき、苦しそうに呼吸している。見たところ三十台で、浅黒い肌はかつて従事した仕事か、あるいは生まれつきのものかはアキには分からなかったが、確かにこの男も一人の人間で、自分の知らない歴史の中を歩いてきたのだなと思えた。

 しばらく考えたのち、これで十分だろうとアキは立ち上がった。

 背後から黄色い声が聞こえた。

 後頭部に衝撃が走り、アキはやや前乗りになったが、それだけだった。

 ゆっくりと振り返ると、別の男が鉄パイプを持っていて、その後ろ――アキが入って来た路地の入口には、バッグを盗まれた女が口を押えていた。二人目の男は平然とするアキに驚きながらも再度振りかぶっていた。

 アキは振り下ろされる鉄棒を片手で受け止めて奪い取ると、両手で”千切った”。目を見開いて一歩下がろうとした男の足の甲をすかさず踏み砕く。男は悲鳴を上げて倒れた。

 この二人目の男は、路地の途中にあった分岐から出てきたのだろうとアキは分かった。そして、ひったくりの男とグルなのだ。

 アキはバッグを盗まれた女を見た。なるほど、ひったくり、追いかけてきた女をここに誘導し、背後から襲って”丸ごと”金にしようとしていたわけだ。来なければ来なかったで、金目のものは手に入る。

 アキは女にバッグを投げて渡して、さっさと行くように手をヒラヒラと振った。女は礼も言わず、逃げるように光と喧騒の世界へ戻った。

 清掃されていない汚れた路地を、片足を砕かれた男が這って逃げようとした。必死に何か叫んでいるが、道を歩く人間は誰一人振り返らない。誰にも届かない。アキはこの薄暗がりで冷ややかに男を見下し、ゆっくりと自分の足を上げて、残るもう一方の足も砕いた。




 巨大なビルの前でユイを待ち続け、じき六時間が経とうとしていた。アキは今か今かと待ちわびている。ユイは昼前にこのビルへ入ったが、秋のこの時間は既に暗がりが強くなっている。

 ユイは四時間で仕事が終わると言ったが、伸びることもあるだろうとアキは納得していた。ビルに入る人は少なくなり、今は次々と出て行っている。その中にユイらしい人影を見つけては顔を明るくし、そうでないと分かるたび気落ちした。

 ユイに早く会いたいという気持ちがだんだんと強くなっていく。

 陽はどんどん下がっていき、街灯が代わりに街を照らし出す。闇を街から消しさりながら、光は人の心を惑わすように一層強くなる。街に太陽は必要なく、自分のちからだけで輝いているようだった。

 ひったくりを退治して、金もとらなかった。ユイにこのこと言ったらきっと見直してくれるだろうとアキは期待して待ち続けた。

 十代半ばほどの少年が一人近づいてきているのにアキは気付いた。清潔とは言えない身なりの少年は何事かアキに話しかけたが、困惑しているうちに少年は手に持っていた紙切れを差し出した。

 アキはなおも混乱しながら紙を開いた。

 そこにはアキの読める言語でこう書いてあった。

『怪獣の神秘を拒絶する者、アール区のイチイ通りの建築中のビル、十二階で待つ。女は預かる』

 その文章の意味が最初は分からなかった。それから何度か読むうちに、アキの体が爆発的に熱を帯び始め、髪が逆立ち見るものを等しく恐怖へ陥れる形相へと変わっていた。チップを受け取ろうと思ってか、しばらくアキのそばでじっとしていた少年は恐ろしくなり、いずこかへ逃げだした。

 アキは素早く逃げる少年の前へ回り込むと、胸ぐらを掴んで片手で持ち上げた。衣が異音を発して、少年は目を白黒させる。

「誰だ! この紙をてめえに寄越したのは! てめえは誰の使いだ! てめえも連中の仲間か!」

 支離滅裂だった。

 アキに分かったのは、ユイが誘拐されたということだった。確証は寄越された文にあるだけで、ない。ないが、アキはそれが真実に違いないと直感した。なぜ誘拐されたのか、それはレッドカイザーとアキが深い関係を持っていると判断した第三者がいて、そのアキとユイが接触したからだ。

 今のアキにそれ以上のことが考えられなかった。思いついた単語を並べて少年を脅迫し、体を激しく揺さぶったが、言葉は通じないし泣きじゃくってそれどころではない。アキが掴んでいた胸元の布が破けて少年は地面に落ちる。彼は腰を抜かして、頬を濡らした顔でアキを見上げた。

 らちが明かない、こいつは使えない。

 アキは素早く周囲を見回した。多くの人々が距離を取りながらアキを見つめ、通り過ぎていく。最初から何事もなかったように空を見て進む人も少なくない。そんな雑踏の中から、注意力を欠いてなおアキは目当ての人物を見つけた。

 車道を渡ろうとすると車が迫った。アキが車に拳を叩きつけて強引に止めると、運転手はエアバッグに体を埋める。車体後部が浮いて、やや時間をかけて着地した。運転手にかかった衝撃は凄まじいものだったはずだが、アキは気にせずまっすぐ進んだ。

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