第四話の5

 翌日、アキはいつものようにケンの車に乗せられて学校へ向かった。アキにはいつもの快活さがなく、目に見えて怒りを溜め込んでいる風でもなかった。怪獣が野放しにされている現状に彼は多くの部分で納得できていないが、ジローたちが第一に自分の身を案じてくれているからこそ軽率な行動に出ることができないのだと分かっていた。だから、心を閉ざすようにすることでアキはなんとか平静を保った。車内は静かで、楽天的なケンもこの日の朝は何も言わなかった。

 学校に着いて、アキはさっそく後悔することになった。生徒たちの話題は海外に出た怪獣だ。崩壊区域外で怪獣が出た前例はない。脅威が遠ざかったことに安堵する者や、なぜ突然発生地が変わったのかについてネットで仕入れた陰謀論じみた仮説を話しているグループもいる。

「今までの怪獣は国内の生物兵器開発のテスト品で、それが完成したから海外に送ったんだよ!」

 みるみる体調が悪くなっていくのをアキは感じた。胸やけがして足が重くなる。

「大丈夫かアキ」

 カズキたちが心配して話しかけてくれると、アキは体調が悪いと言って誤魔化した。友人たちは納得したような顔をしながらアキの席の近くでたむろして冗談や馬鹿話をした。急に話を振られたり話題の矛先を向けられることには、アキはこれと言って悪い気はしなかった。集中して授業を受けて、教師への愚痴を言ったり次の授業の宿題が終わってないだのの悲鳴を聞いたりする休憩時間を繰り返していると、アキは少しずつ気分を回復していった。

「そういえばさ、怪獣海外に出たんだってさ」

 給食の時間だった。アキは一瞬手を止めてしまったが、すぐにスープを掬ったスプーンを口に運ぶ。仏頂面のアキをよそに、テーブルを突き合せた班員たちは怪獣の話を始めた。

「崩壊区域にはもう出ないのかな」

「先輩はさ、この教室から怪獣同士が戦ってるの見たんだってよ!」

「えーやだー」

「遠くに行ってくれたんだったら私らは万々歳よねー」

 崩壊区域に人はいないが、海外のどこぞの都市は今頃地獄絵図になってるはずだった。アキは初めて怪獣が現界して、自分の町を破壊した時の景色を思い出す。二回目の怪獣が砲撃で遠くの町まで巻き込み、三度目の怪獣で……。

「アキ君……?」

 名前を呼ばれてアキが顔を上げると、班員たちの視線が自分の手元に注がれているのに気づいた。見ると、鈍い銀色のそれがアキの拳に巻き込まれるようにひしゃげていた。アキは手を開いて慎重にスプーンを取り、机の下に引っ込めて元の形に戻そうと伸ばしてみた。不格好なスプーンを出して、引きつった笑みを浮かべながら言った。

「マジック」

「すげえ」

 皆が目を丸くしてどう反応すべきか困惑している中、カズキだけが感嘆した。カズキは自分のスプーンを差し出して、同じようにやってみてくれと言った。皆が見つめる中で、アキはスプーンの柄をマジックでやるように意味深に指で撫でてみた。

「これはちょっと堅いかな」

 そう言ってスプーンをカズキに返して、班員はようやくアキが本当にマジックをやってみたのだと信じたようだった。

 自制心を強く意識ながら、アキは昼休みを過ごした。

 怪獣のことを考えてはいけない、力の使い方を間違えてはいけない。心を落ち着かせようとすると、アキは自分が何者か分からなくなる。

 普通の中学生らしく。十三歳の少年らしく。子供らしく。

 だがアキには拭い切れないものがある。

 どんなに怪獣を倒そうと、どんなに今を幸福に生きようと、決して忘れることのできないその感情が、消えることのない炎となって魂の奥底で燃え続けている。エーテルの炎が、永遠に燃え続ける炎が。

 体が熱かった。自分の体の周囲が嫌に熱気だっている気がして、アキは午後の授業が始まる前に体を冷まそうと、人気のない男子トイレに足を運んだ。

「よおアキ大丈夫かよ」

「分からない、熱っぽいかもな」

「体弱いんだなぁ」

 カズキがお節介で着いてきた。一階端のお手洗いは移動教室の時にしか使われないような穴場で、転入してから一週間ほどでお世話になるとはアキも思ってはいなかった。

 アキたちがトイレに入ると意外なことに先客がいた。

 中には男子が四人いて、一人が這いつくばって他の三人が笑いながら見下ろしている。そのうち一人はアキのクラスメイトの素行の悪そうな少年だった。一人を見下ろす三人は制服を着崩してズボンを腰まで下げて、いかにもな不良だった。

 アキはカズキたちとの話で、校内で荒れている不良たちのことを聞いていた。クラスメイトにその一人がいて、関わらないようにと釘を刺されていたのだ。

 カズキはその光景を見るや否や何が行われているのかを察して男子トイレから出た。その時にアキのシャツを引っ張ったが、動かなかった。

「金持ってこないのが悪いよな。じゃ、そのままでもっかい」

 男子が怯えた表情で立ち上がろうとすると、「そのままでいいっつっただろうがよ!」と別の一人が脇腹に蹴りを加えた。軽い威力だったようだが、男子は蹴られた場所を抑えて身もだえしている。

 邪悪なことが行われているのを見て、アキの怒気が瞬間的に沸き立った。

「おい!」

 全員が振り返ってアキを見た。カズキはアキの様子をトイレの入り口から見ていたが、視線がこちらへ向くとすぐに顔をひっこめた。アキは、やはり動じないまま三人を睨み返す。

「イジメだろ、やめろ」

 三人は顔を見合わせて、にやりと笑った。倒れた男子を無条件で蹴りだす。

「やめろ!」

 静止の声を聞かずに、不良たちは丸まった男子に蹴りを加え続ける。

 不良たちはアキを試していた。三対一で向かってくる勇気などあるはずないし、向かってきたとして、何ができるとも思っていなかった。今は目の前の扱いやすいおもちゃに集中して、アキのことは後日脅かしてやろうと考えていた。それで、せめて屈辱と無力感を嚙みしめてもらうために不良たちはアキの目の前で凶行を止めずにいた。

 アキは体を動かしてから、ケンに言われたことを思い出した。

――ケンカとかは、勘弁してくれよ。

 一番手前にいた背の高い不良少年を振り返らせて、アキは次の手に詰まった。

「カズキ、先生呼んできて!」

 トイレの入り口の方へ言葉を投げたが、返事はなかった。カズキはそこでアキが出てくるのを待ってはいたが、名前を出されて先生を呼びに行けなくなってしまったのだ。そこで、せめて返事をしないことにした。この三人に関わることは学校生活の終わりを意味するからだ。

 アキはカズキの考えなど知る由もないが、特別失望したわけでもなかった。

「おい、放せよ」背の高い非行少年はにやにやと笑いながらアキに言う。

 他の二人が足蹴にしていた男子から離れて、アキを囲むように動いた。二人は真顔で、アキへの苛立ちを隠せていない。

 アキもまた胸くそ悪い思いだった。こいつらは悪で、いる意味のない害虫に等しいが、暴力を振るえば自分も加害者になる。小学生の時なら否応なしに奇襲でも何でもして叩きのめしていたし、あのまま成長していればこの局面でも同じことをしたはずだった。今アキの手にあるのは怪獣に使うための力で、人に向けるべきものではない。

「手加減してやる」

 言った直後正面から飛んできた拳を、アキは大きくのけ反って避けた。ほとんど勢いを付けないでそれから宙返りへ転じると、背中のすぐ下を左右の不良たちの拳と脚が通った感触があった。そのまま宙で一回転し、不良たちから距離を取りつつアキは着地する。

「やめるなら今だよ」

 それから起こったのは、狭いトイレの中でアキが三人の攻撃を掻い潜るだけの三十分だった。壁を蹴り床を滑り、アキは不良たちの攻撃にかすりもせず、乱れかけた制服をズボンに入れ直しながらひたすら避け続けた。途中で授業開始のチャイムが鳴ったが、中で何が起きているのか気になったカズキと、不良たちのいじめの被害に遭っていた男子が口をあんぐりと空けながらその様子を見て、興奮を隠せなくなり、アキを応援し始めた。

 やがて不良たちはすっかり疲れ果てて、肩で息をしながら汗だくで座り込んだ。アキはと言うと、手には殴った痕も、顔に殴られた痕もない。体調も至って健常で、何事もなかったようにいじめられていた男子に声をかけた。

「付き合わせてごめんね」

「すげええええ!」

 一部始終を眺めていたカズキは不良たちに睨まれるのも構わずにアキに駆け寄り、彼の両肩を掴んで飛び跳ねた。

「うわ、お前熱いぞ大丈夫か!」

「大丈夫大丈夫、平気平気」

 このことはカズキがクラスメイトに吹き込み、古い時代に口承で英雄の歌が語り継がれたように校内を駆け巡ると、最後の一人が知る頃にはとんでもない話へと変わっていた。

 転校生はこの学校にいじめがあると知るや否や、不良たちを校舎に裏に呼びつけ、その罪状を高々と並べあげて良心を苛めせしめると、今一度この手を取るならば我が誇りにかけてその身その魂の清浄に助力しようと改心を促した。しかし不良たちはこれ受け入れると見せかけ、卑怯にも転校生を奇襲したのだが、その軽やかな足取りにただの一打も与えられず、終いには激しい運動で上気した転校生が生み出した蜃気楼に惑わされて、不良たちは仲間の拳をそれぞれ身に受けて倒れてしまった――という話になっていた。

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