第四話の2
アキは車の後部座席で自分の手を眺めていた。上位世界のエーテルが混じったことで、アキ自身にこれと言った変化は感じられない。それでも、何かが起こる可能性は誰にも否定できなかったし、既にその何かは起こっているのかもしれなかった。
「ケンカとかは、勘弁してくれよ」運転手のケンがバックミラー越しにアキの顔を見ながら言った。「ムカつくヤツの鼻っ柱一つ二つ折っても、それが男の子って感じだけどさ。あいや、こういうの今は厳しいんだっけ」
この車は外見は完全に一般車両だが、本来はVIPを輸送する際多数の偽装車両と一般車に紛れて使う本命用の車だ。極めて高い防弾性能と防火性を備えている。こういった車を、基地から出てから二、三度乗り換えてアキは学校まで送られる。怪獣が出た折には早退し戦闘を行う必要があるためにそこまで遠い学校ではないが、それでも彼のために敷かれた警備は厳重だった。
「ケンさんはどう思います?」
「コンプラってやつかい?」
「レッドカイザーのことですよ」
アキは気だるげにシートに背を預けて、窓から外を見た。ジローたちと共に過ごした三年で、アキはエーテル生命体に対抗する唯一の戦力であることを除いても、大人たちから可愛がられていた。親を亡くした子供への同情もあるだろうが、アキは自分の心を枯らさないでくれた彼らに感謝をしている。一方で、レッドカイザーについて微妙な疑念が生まれつつあった。
ケンはアキの言葉に返した。
「ジローさんも、丸まんま全てを鵜呑みにはできないと言っていたね。でも、レッドカイザー君の言葉が正しいか間違ってるか、信じるか信じないかの判断は俺たちがすることじゃないからね。それこそジローさんとか、上の人たちの仕事だと思ってるし、あまり深く考えないようにしてるよ」
「そうですか」
「例のあれかい?」
「まあ……」
アキの疑念の由来は、やはり三年前の戦いだった。
現界したレッドカイザーの中で、アキは完全に意識を失ったわけではなかった。まどろみにあるような状態で彼は怪獣の声を聞いたような気がしたのだ。
「アバンシュさま……」
それはアキの知っている言葉ではなかったし、そもそも下位世界において意思疎通のために使われているあらゆる概念にあてはまるものでは決してなかった。レッドカイザーの意識が表出し、レッドカイザーがこの下位世界の事物に通じているように、アキもあの瞬間だけエーテル界の事物に通じていたのだろう。それまで一度として聞こえなかったはずの怪獣の声が聞こえたのは、おそらくそのような理屈のためだ。
レッドカイザーはあの時アキが聞いた言葉の意味を説明することはなかった。それに加えて、この頃は怪獣出現時以外は下位世界にやってくることもめったにない。
あの時まで怪獣を圧倒できる炎の力を使わなかったのもアキは気になっていた。これまでの戦いで炎の力を使ったのは片手で数えられるほどしかない。あまり細かい制御ができるものではないようで、広範囲に影響が及ぶが、崩壊区域であれば問題ないはずだった。
「説明して困るようなことなんてあるのかな」
「僕たちもアキ君に言ってないことは結構あるし、どこの世界もそんなもんなのかもよ」
楽天的なケンの運転する車は崩壊区域に近いすいた道路を走り続け、やがて検問を越えて住宅地に入った。一度大通りに出てデパートに入り、用意された別の車に乗り換えると、アキはようやく学校に到着した。
登下校にかかる時間は三十分とないが、レッドカイザーが下位世界にやってきたことを怪獣の出現と重ねて見たこともあって、アキは大幅に遅刻していた。
ケンと共に車を降りて、校長室へ向かう。ケンは父親役もかねている。
「すみません、遅れてしまって」
ケンは頭をかきながら校長に頭を下げるが、先方はすっかり恐縮してしまっている。彼はアキについて多くを知らされていないが、要請があった際には速やかに早退させることを国家機関から約束させられている。世界有数の金持ちの子供か、表に出ないような国の裏幕の関係者か。扱いを間違えれば首が飛びかねないという直感が彼にはあった。
ケンが帰って、アキは自分のクラスの担任を紹介される。若い女性教師だ。アキの特別性について校長がなんと説明しているかは不明だが、対応は普通の学生にするようなものと変わりなかった。
学校では三時限目が始まったばかりだが、担任と共に教室に赴いて早速授業を受けることになった。リノリウムの光沢のある床を上履きで歩く感触、列になった水道蛇口の水っぽいにおい、通り過ぎる教室の中には生徒の声で騒がしいものもある。アキの通った学校とは何もかもが違うが、何もかもが同じだった。怪獣に日常を壊されるより前の記憶が蘇る。本当なら、アキは他に一切のしがらみも気兼ねもなく、この輪の中にいられるはずだった。今はもう、レッドカイザーとして戦うことに運命の理不尽さを呪うことはないが、あの頃仲の良かった友達と一緒に中学に通えたらと、思わずにいられなかった。
「転校生のアキくんです、みんな仲良くしてあげてねー」
「よろしくお願いします!」
同年代二十人以上の視線を受けながら一片の緊張も見せず、アキは元気よく挨拶をして頭を下げた。基地に住んでいてすれ違う筋骨たくましい大人たちに比べれば、何も恐れる要素はなかった。
「アキくんはあの後ろの席ね」
担任に言われて、アキは自分の席に着いた。途中、見るからに素行の悪そうな男子に睨まれているのに気づいて、アキは微笑み返した。
担任がこの時限の教師に挨拶をして教室を去ると、授業は再開された。生徒たちがひそひそと何かを話し、アキの方を見る。アキは視線を感じながら、ショルダーバッグから数学の教科書とノートを取り出す。どちらも新品だったから、アキはまず堅い表紙に折れ目を付けた。
「前はどこの学校行ってたの?」
「実はずっと行ってなかったんだ、田舎の方に疎開してて」
「もうすぐ夏休みなのに、変な時期に入って来たねー」
「行くって決めたら少しでも早い方がいい気がしてさ」
「なんでこんな崩壊区域に近いところに来たの?」
「お父さんの仕事の都合かな」
「お父さん何してる人?」
「記者だよ、怪獣の写真とかも撮ったことあるんだ」
「スポーツできる?」
「ずっとやってなかったからなあ、後で校庭で遊ぼうよ」
「授業どうだった? 分からないことあったら聞いてね!」
「結構自分で勉強してたこともあったから、思ったより理解できたよ」
休み時間になると男女問わず人だかりができて、アキは言葉の洪水に晒された。一つ一つの質問に丁寧に、短く答えていって、自分の事情や家族のことについては事前の打ち合わせの通りのことを口にした。
学生たちには、アキには不思議な魅力があるように見えていた。決して物怖じせず、快活で、自信があり、物言いはサッパリとして、気遣いも出来る。額の傷についてはまだ誰も触れることはなかったが、それがアキの人格を形作るのに大きく貢献した要素であろうと、皆子供心に察していた。その傷がいつどうやって付けられたのか直接に聞く者はいなかったが、いずれ仲良くなっていけば自然に聞き出せるものだと信じられた。傷を隠していないことからも、アキにとって忌避すべき過去ではないということが伺えたからだ。
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