第三話の6
アキはいつの間にか避難所のある学校へ戻ってきていた。頭が熱く、朦朧とする視界を頼りにアキは校門をくぐった。アキは自分が一夜を明かした石段に向かった。あの石段は温かい気がした。
「ったく早く死んじまえってんだよな」
男の声がそう言ったのが、アキに聞こえた。中年の男たちが五、六人ほど集まって話している内容は言わずもがなだった。
「いつまでもぐだぐだやり合って、赤いやつはやられっぱなしなんだからさ」
「片方がおっ死ねば、またしばらくは平和になるってのに」
声は内側聞こえるようにガンガンと響いて、アキはたまらず頭を押さえた。いつからか激しくなっていた呼吸をようやく認識した。
レッドカイザーは何日も通して戦い続けていた。決して敵わないはずの敵に。アキにはもう、そんなことはどうでもいいことだった。戦いたいなら戦っていろと突き放していた。
アキは守るべきものを失って、自分がいかに空虚だったかを知った。正義だの平和だのと言う自分の言葉には、何の力もなかった。なぜならそれは、愛すべき人、守りたい人がいてようやくアキの行動に結びつけられていたか細い糸でしかなかったからだ。その糸は、もう切れてしまった。もはやアキの意思が何かを押すことも、引くこともない。
レッドカイザーも、ここにいてまだ生きている人たちも、アキにとっては遠い世界のことと違いはない。生きていようが死んでいようが関係なかった。
「あと五キロこっち側に来たらこの避難所も撤退だとさ」
「たまんねえよ、生まれたばかりの子供がいるのにさ」
「このまま全部ぶっ壊されて、この国終わっちまうのかね」
アキは体中に痛みがあって、明らかに熱があった。ようやく、自分に手足があることを思い出したようだった。一人きりだったはずの世界に彼らがいて、それが自分の存在を逆説的に保証していた。
「どっちかがやられちまえば振出しに戻るんじゃねえのかよ」
「なんとか町って?」
「怪獣が出る町な」
「あの町もさっさと封鎖して、爆弾かなんかで囲っちまえばよかったんだ」
「あの赤いやつをぶっ殺すように頼んでみるか?」
世界がさっと、アキの五感に感じるものの外側に広がっていく。そのどこかでレッドカイザーは戦って、あの怪獣は街を破壊しているのが分かった。アキはそれを誰よりも近くで見たことがあった。倒すべきなのは怪獣だと知っているのはアキだけだ。
「民間人のお願いをどうして聞くんだよ」
「民意ってやつだろうがよ。もういい加減うんざりなんだよ、こんなに離れてんのに、連中が今どこでやり合ってるか神経質にならなきゃいけねえ。いつ警報が鳴るかもって参っちまってさ。ニュースはテレビもラジオも怪獣怪獣、頭がおかしくならねえほうがおかしいだろうがよ」
「そりゃそうだけどな」
「やっぱ赤いやつだろ」
「実は赤いやつが侵略者で、怪獣は地球の生んだ白血球みたいなものだったってどうよ」
「一理あるわ!」
大人たちのボルテージが上がっていって、アキの頭痛が激しくなる。
違う。もう考えたくないんだ。どうだっていいハズなんだ。どうしようもないことだから、自分はそこから逃げ出したんだ。父さんと、母さんと、ユイの仇なんて思うだけ無駄なんだ。だからこうやって自分を苦しめて、せめてもの償いをしようと思っていたんだ。
「怪獣はおとなしいって言うしな」
「赤いのを殺してくれって署名集めて出すか? インターネットで簡単にできるぞ」
「そら集まるわ、こんな状況もうみんな嫌になってるだろ」
「いいねえ!」
だから、違うんだ。怪獣なんて――怪獣は――っ!
凄まじい連打攻撃と、胴体を真っ二つに切り裂こうとする回転攻撃がフラッシュバックした。レッドカイザーの体で受けた記憶と、両親が生身で受けるイメージが沸き起こった。目も、鼻も、口もないつるりとした無機質な怪獣の白い頭部が眼前に迫る。
違う、違う!
「地球を守る怪獣と共に、赤き怪獣を討て!」
「それいいわ、地球を守る怪獣と共に、赤き怪獣を討て!」
「さっさと赤いやつをぶっ殺せぇ!」
違う! 違う! 違う!
アキは叫んだ。
あの怪獣は、あの怪獣が! お父さんを、お母さんを! ユイを!
殺したんだ!!
「ばかやろおおおおおーーーーーーっ!!」
喉を傷めるのも構わなかった。
「ばかやろおおおお、おっ、うっ」
殺していた感情があふれ出てきて、心のどこかで見ないようにしていた現実と向き合った。
「ばか、うっ、ばかやろ、うっ、うう……」
両親は怪獣に殺された。ユイは、たぶん、初恋だった。
地面に崩れ落ちて泣くアキを、大人たちはじっと見ていた。くだらない、子供の癇癪だと思って、次第に灰色の日常へと戻っていく。みな、子供の泣き声など聞きなれていた。よその子供などに構う余裕はなく、親はさっさとなだめろと、心の中で毒づく。
アキはいつまでも泣き続けた。すすり泣きながら移動して、人目のないところで、また泣いた。
ジローはたまにアキの様子を遠目から伺っては、何かをするわけでもなかった。
覚悟はさせられるものでははなく、するものだと、ジローは知っているつもりだった。
「俺を、レッドカイザーの所へ連れて行ってください」
教員室に来たアキの目は腫れていて、その顔にはまだ悲しみが滲んでいた。声は枯れて、鼻は垂れて明らかに熱っぽく、一目で体調を崩していると分かった。教員室にいた大人たちはそんな子供が何を言いたいのか分からず、困惑した表情を見合わせる中、ジローだけはじっとアキを見つめた。二言ほど断って電話を切るとジローは立ち上がり、何名かを呼んだ。
「行くぞ」
アキは装甲された輸送車に乗せられた。ジロー以外の三人は以前、ともにアキを訪ねた者たちだったがアキはそのことに気付いていないようだった。車両後部の向かい合って座る席でジローとアキは対面し、彼らの隣にそれぞれ一人ずつ座った。アキの隣に座った男は、彼の体が凄まじい熱気を帯びているのに気づいた。
車が動き出してしばらく、アキはたまに涙をズボンににじませたが、すすり泣くような声も出さなかった。
ジローが満を持して口を開いた。
「怪獣を倒せるかい」
怪獣同士の戦うところへ向かうのに、ジローの声は穏やかだった。それは子供に使う甘い声色ではなく、尊敬すべき人間に使うようなものだった。
「分かりません」鼻声でアキは言った。「たぶん、勝てないです」
「それでも行くのかい」
「もう、お父さんもお母さんもいないから」
涙が数滴落ちて、アキは鼻をすすった。
「俺はもう、戻らないでいいから」
車は沈黙を運んで、一時間ほど走った。
ビルだったものが倒壊し通れなくなっているところを迂回しながら、遠くで轟音がやまないところまで来ていた。ビル街だったこの辺りには原型をとどめた建物はなく、かといって見通しがいいということもなかった。
「これ以上は無理です」
運転手の声は、もう道路に通れる道を見つけられないという意味であったし、怪獣の交戦域にすでにかなり深く入り込んでいて危険であることも語っていた。
車両後部でアキと座っていた三人の男たちはアキを見た。ここから怪獣たちの戦っているところまで、あと二キロはあった。明らかに弱っているこの子供の体力で、瓦礫を越えながらそれを行くのは無謀としか思えなかった。
「俺が連れていきます」
アキの隣に座っていた男が言うと、ジローは眉をひそめた。死ぬぞ、と喉まで出かかったのをなんとか飲み込んだ。自分たちはこれから病気の子供を一人、怪獣のところへ送るのだ。それを止めないで同僚に行かせるのを躊躇うのは筋が通らないことだった。
「いいです」アキは立ち上がって、ドアの方に寄った。「ひとりで行けます」
ジローは苦虫を噛むような思いで言った。
「その前に君が倒れるぞ」
「いいです」
アキはかすれた声で静かに言った。アキの放つ熱気は今、ジローのもとまで届いていた。
「俺はもう、戻らないでいいから」
アキが最初の瓦礫を越えるのを手伝ってやってから、四人の大人たちはその小さい背中が見えなくなるまで待っていた。いつ転んでもおかしくない足取りで進む子供は、体の熱さで陽炎を纏っているようにも見えた。彼はまっすぐ、導かれるように怪獣たちの戦うもとへ進んでいった。
「行こう」
ジローが言って、四人は車両に乗り込むと瓦礫の街から去った。
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