第三話の5

 避難所には長期化している怪獣同士の戦いに不安を隠せない人が多く、重い空気が漂っている。遊んでいる子供たちがたまに黄色い声を上げると、大人たちは眉をひそめた。皆アキの住んでいた町の近辺からここに来ているようだったが、アキを知っているものは誰一人としていない。

 救護室から出されたアキはずっと一人でいた。体育館前の石段に座って、何かを眺めているわけではなく、聞いていることもなかった。車両で埋められた校庭の隅で遊ぶ子供たちに混ざることは無く、誰かに声をかけられることもない。その背中はただ孤独に身を浸して、他のあらゆるもの一切への興味を失っていた。

 ジローは時折アキの様子を見に来たが、時間をおいてみてもずっと同じ場所に同じ姿勢でいて、炊き出しも口にいていないのが分かった。子供がそんな様子であっても誰も気にしなかったし、心に余裕がない彼らの目にはそもそもアキが存在していないようだった。

「ジローさん、いいんですか放っておいて」

「じゃあお前行くか? なんて声かける。お父さんとお母さん死んで残念だったね。でも君は生きてるんだから、両親の分まで明るい未来を生きなきゃ、って? お前あの子の立場で話したこともない名前も知らない大人からそんなこと言われて、立ち直れるのか」

「それは……他にもっと言い方が」

「言い方の問題じゃねえだろ。俺は現場の時、震災、水害であんな子供をたくさん見てきた。大人の分かったような言葉じゃ何の意味もないんだよ、それは大人の理屈だからな。傷だらけの体に適当な服を着せたって傷をてめえから見えなくするだけで、結局なんも癒えちゃいないんだ。ボロボロの体に布が擦れて、悪化することだってある。自分で治るのを待つしかないんだよ」

 話ながらジローは怒りをにじませていき、最後には「クソッ」と加えて校舎に入っていく。

 アキは自分の空腹にも無関心なまま日が暮れるのを待ち、石段の上で夜が明けるのを待った。

 春の夜は寒く、アキの体を冷たく撫でる。闇の中でかすかに、ラジオのような機械的なノイズの入った声を聞いた。体育館や校舎には明かりがあったが、アキにはどちらも遠く届かない世界のものだった。

 陽が昇る前に、アキは体を起こした。節々が痛んで体は震えていたし、空腹も酷かった。アキはそんな自分の苦しみにわずかな救いを得ながら、立ち上がってふらふらと歩き出した。

「すまん、少し。なんだ」

 整理された机の上に積まれた書類を確認しながら電話をしていたジローは、引き戸から入ってきた部下に意識をやった。

「あの子供が校舎の外へ」

「お前が見張れ。すまんな、それで怪獣たちの進行方向だが」

 ジローは電話に戻り、頭を抱える。




 町は静かだった。今のアキにはその静寂が何よりの友だった。知らない町の知らない道を宛てもなく歩く。

 帰る家もなく、生まれてからずっと住んできた町もなくなった。この町は出かけた先にあるのではなく、今ここにいるアキにとっては世界の中心で、無限に思える広がりを持った黒い宇宙にぽつんと浮かんでいるようなものだった。寄り所を失ったアキは地面に立っていると言い難く、どこかをゆらゆらと漂うのに任せている……。

 公園があった。見知らぬ町の見知らぬ公園には滑り台とブランコだけがあって、あとは隅に小さな砂場があるだけだ。

 アキはブランコに座って、少し体を揺らした。自分を押す手はなかった。誰かが見ているわけでもなかった。

 アキの頭に楽しかった家族との思い出が一瞬溢れて、堪えられなくなった。

「うっ、ぐっ……」

 大粒の涙がとめどなく溢れてくる。悲しみに心が潰れてしまいそうだった。自分が自分でなくなっていくのを実感しながら、それを止めるすべがなかった。

 十年だった。十年の間に、アキは両親から何かと取り換えることなど決してできないほどの愛情を受けた。アキはそれが嬉しかったし、彼らを裏切らないようにしてきたつもりだった。両親を悲しませたことなど、一度もなかった。

 あの日以外は。レッドカイザーと共に帯を纏った怪獣と戦いに出たあの日、両親はどんな気持ちだったろうと、アキの内側にあるものが彼に問いかけた。恐怖だ、圧倒的な悲しみだ。世界でも最も愛したものが一言もなくいなくなって、怪獣が現れ、失意の中で怪獣が自分たちの頭上に落ちてきたのだ。

 その前の、二体目の怪獣が出た時も酷く心配させた。アキのそれまでの人生の中で最も両親に叱られた体験だった。

 アキは両親との最後の会話も思い出せない。朝食を摂りながら何か世間話をしていたが、どんなことを話していたのかどうしても思い出せなかった。

 後悔が止まらなかった。体から力が抜けて、ブランコからずるりと落ちた。そのままうずくまって、声を押し殺すようにしてアキは泣いた。

 もとはと言えば、レッドカイザーと一緒に戦うことを選んだのが悪かったのだ。自分ならみんなを助けられると思い上がったのが最初の過ちだった。

 レッドカイザーもだ。涙は止まらないまま、アキの感情は怒りに染まっていく。あの時、怪獣が校舎に向かって跳んできたとき。エーテルの力を攻撃に振り分けていればなんとかなったかもしれない。自分の身を守ることを優先したから、あんな結果を招いてしまったのだ。

 そして……そして……自分が、怪獣に負けさえしなければと、アキの怒りの矛先が変わる。レッドカイザーに戦いたいと頼んだから、怪獣に立ち向かったから、そして負けたから。その前の二回がたまたま運がよかっただけで、本当はこんな子供が上位世界の怪物を倒すなどということは不可能だったのだ。アキには学校の悪ガキを後ろから蹴りかかって退治するのがお似合いで、それが身の丈に十分だった。

 それももう過去の話だ。目の前でいじめがあっても、アキは止めに入らないだろう。自分より強いものに立ち向かう勇気はない、弱いものの味方になることもない。

 レッドカイザーは今もあの怪獣と戦っているだろう。アキと一体となって手も足も出なかった怪獣にたった一人で、何かできるはずもない。世界の寿命はゆっくりと尽きていき、この町も、あの避難所の人たちもやがて怪獣に潰されて死ぬのだ。そこには自分も含まれている。

 そう、全てなくなってしまうのだ。アキはようやく体を起こして、吐息を震わせながら力なく立ち上がった。両親とユイを殺した怪獣に、自分もいずれ殺される。アキはあの威容が自分を見下ろしているのを思った。

 一瞬強く握られた拳は、すぐに解かれる。

 無意味だ。守りたいものはもうない、戦う理由もない。自分は逃げたのだ。もう一度……仮にもう一度だけ立ち向かっても、アキには怪獣に一矢報いることも想像できなかった。凄まじい殴打に全身を打たれ、気の遠くなる痛みに飲まれるだけだろう。

 レッドカイザー、せいぜい頑張っていろよ。いずれそんなことに意味などないと気付いて、この世界から姿を消すその時まで。アキは唇を噛みながら公園を出た。

 アキは夢遊病のように町を歩いた。昼近くになって人が出始めても、アキは一人だった。

 高くなった太陽から光がそそがれたが、アキはそれから逃れるように影の中を歩き続けた。やがて雲が多くなり、日陰と日向はなくなった。それから、糸のような雨が音もなく降り始めた。

 もはや空腹もない体に一滴とも言えない雨の雫が砕けては体温を奪っていった。鼻がつまってぐずぐずと鳴り、喉の奥が痛み、頭が重くなっていった。

 半日を歩き通して、黄色い太陽が再び姿を現した。住宅街の低い建物や家の前に飾られている植物たちに弱弱しい光が淡く色を足し、湿気た空気がスモークガラスのようにそれらの輪郭をおぼろげにして浮世めいた世界を作り上げていた。

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