第一話の2

 校舎全体が激しい揺れに襲われ、二十脚以上ある机は音を立ててずれて、アキをはじめとする生徒たちは反射的に頭を低くする姿勢をとった……いや、半数以上は突然の揺れに耐えられず倒れてしまい、自発的に姿勢を低くできたのはそう多くはなかった。残りは咄嗟に近くにあった壁やスライドする机にしがみ付いて、身動きが取れないでいた。

 揺れは三秒と続かなかった。学校の近くに爆弾が落とされたかのような衝撃だったが、アキが立ち上がって外を見ても、授業中に見ていたのと同じ青い空が広がっているばかりだった。教室の中ではすでにほぼ全員が立ち上がっていたが、尻もちをついた痛みでうずくまっている者もいる。

「大丈夫か!」

 教室の隅にある担任用の椅子に座っていた教師が、室内の状況を確認する。

「すごかったな今の」

 机をもとの位置に直しながら、アキは友達がそう言うのを聞いた。理科の授業で、地震には初期微動と主要動があると聞いていて、アキは日常知識としてそれを身に着けていた。あの揺れがあった時、誰もがこの後に来るであろう“本命”を想像したはずだ。しかし、実際はあっさりと、ごく短期間に終わってしまった。アキは、何か胸騒ぎのようなものを感じた。

 校内放送が鳴り、教師は全員教員室に呼び出される。このまま校内で避難開始という運びになるのはごめんだと思ったアキは、混乱の冷めない教室と廊下を抜けて靴箱のある玄関へと早足で抜けると、靴を変えて学校を出る。

 区画整理された住宅街にある学校の玄関口は等間隔に枝分かれした長い一本道に面しており、通学路を遠くまで見通すことができた。普段は目にしない、通りのマンションや住宅に住んでいる大人たちが外に出て何か話しているのが点々と見える。

 振り返ると、山々の峰が見える。歩いてニ十分ほどの距離に見える山は、古くからある土着信仰の対象で、それなりに大きく形もいい。うっそうと茂る斜面は朝見た時と変わらないように見えたし、山麓に控えめに並ぶ家並に土が被さっているように見えない。アキは山に背を向ける。地震は本当に一瞬のことで、うろたえる大人たちがいなければ、アキはきっと白昼夢でも見たのだろうと思い込んでしまっていただろう。それを除けば、下校する生徒が一列に伸びる通学路の姿は見慣れた、いつも通りのものだった。

 何もない、何も起こってない、大変なことなんて。アキはいつものように、車通りの少ない一方通行の車道をガードレールすれすれに走った。いつもいる、蛍光色のベストを来た擁護員のおばさんに挨拶をして、列をなす生徒の中に知り合いを見つけたら肩を叩いてそのまま走り抜け、友達のお母さんに見つかって声を掛けられ返事をする。多少、大人が多いだけだ。アキはいつもより少しだけ、スピードを上げて走った。

 アキは鍵を使って一軒家の自宅へ入る。倒れている者は見つからず、食器棚とその中身も無事であることを確認し、胸をなでおろした。両親は共働きで、六時に母が帰って来るまでは一人だ。

 自室に入ってランドセルを下ろすと、アキは棚に飾ってあるおもちゃに声をかける。

「ただいま、レッドカイザー」

 三十センチに満たない大きさの赤い、ずんぐりとした人型ロボットのおもちゃを手に取って、アキはベッドに寝転ぶ。心配事は全て去ったように感じた。そうすると、学校でいじめっ子二人を撃退したのを思い出す。あの二人はよく相手にするが、一撃で二人を倒したのは初めてかもしれなかった。

「インパクト・トリート!」

 おもちゃのレッドカイザーを、アニメの必殺技になぞらえて動かす。

 アキは上機嫌でリビングに行って、塾に行くまでまだ時間があることを確認すると、テレビを点けた。ニュースがやっているままにして、レッドカイザーをリビングテーブルに置くとキッチンの冷蔵庫から牛乳をグラスに注ぐ。戻ると、ニュースはどこか外国の戦争を報じていた。紛争地域では戦闘が激化しつつあり、政府による統制は恐怖政治めいて、多くの難民が発生している。

 詐欺の被害が増加しているらしい。児童虐待は年々増加傾向にある。政治家が不正な金銭のやりとりを暴露されたことについて、おびただしい数のマイクを向けられて取材されているが、その声と聞こえず姿が見えないかのように送迎用の車に無言で乗り込んでいく。

 アキの胸の奥に、黒く、熱いものが渦巻く。

 なぜ? どうして? こんな子供にわかることが、どうして分からない人ばっかりなんだ?

 気が付くと、家の中は暗くなっていた。アキは慌てて時間を確認すると、そう時間は経っていない。空が曇ったようだった。テレビを消すと自室に塾用のカバンを取りに行く。アキの中には妙なやるせなさがあった。自分が頑張って変えられることなんて、一体どれほどのことなんだろう。多くの人が見ている前で犯罪をやった政治家をボコボコに殴ってやって、何が正しいかを説教しても、自分が捕まってしまうのは分かっている。現実的には司法の関係者となるのが筋のようだが、アキにはどうしてもそれが最善の策だとは思えなかった。しかし、いずれ選択の時は来る。その時に選ぶべき道を選べるようにしておかなければならない。

「正義と、暴力か……」

 つぶやきながらリビングを通って、レッドカイザーのおもちゃがテーブルに置きっぱなしなのに気付くと、手に持ってまた自室に戻ろうとした。

 何か、うめき声のようなものが聞こえた。アキは背筋に悪寒が走り、足を止めてじっと耳を澄ます。何も聞こえない。ゆっくりとリビングへ向き直り、ダイニングとキッチンまで首をめぐらすが、誰かがいる気配はない。聞き間違えだろうか。奇妙なのは、声はどこかから聞こえてきた、という様子ではないことだった。しかしこの空間にいなければ、壁越しの他の部屋ということになり……そうであればもう少しくぐもって聞こえるはずだから、見える範囲にいなければ、それは空耳だということになる。声はそれだけハッキリ聞こえたのだ。

 考えるだけ無駄だと思うことが、今日は多いようだった。アキは頭を振ってまた自室に行こうとすると、謎の声がまた響いた。それは空間に、空気を伝って広がる響きではなく、脳、あるいは心の奥底から、明瞭な意識が意思を伝えようとしている声だった。

『君、私を屋外へ出してくれないか』

 何度周囲を確認しても、誰もいない。声がどこから聞こえているのかも分からない。アキは不安よりも焦りが勝ち、いつでも逃げるなり飛び出すなりできるよう、中腰になって次の言葉を待った。レッドカイザーのおもちゃを脇にしまって、片手をあける。泥棒か、殺人者か、なにか手ごろに使える武器が欲しいが、キッチンまでアキの足で十歩はある。走って、相手の近づく音が聞こえない状況になってしまうのは避けたかったし、相手が自分をどこかから見ていて、狙いが包丁だと気付かれるのもまずいと思っていた。

『君、まさか、聞こえないのか?』

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