助手席とキリンレモン

多分あの日の僕も、隣で運転をする彼女のようにしおれた表情をしていた。

その表情を僕はもうできない。

それは、歳をとって線路の先の景色を知ってしまったからだけではないだろう。


きっとあの夜に、僕の"夜の魔法"は解けてしまったんだと思う。

もうとっくに気づいている。もうどこにも僕の望んだなんてないこと。

このまま僕は、夜の向こうに見た幻想を忘れて下らない社交辞令なんかを覚えていく。

このまま僕は、目の前に広がっていたもうひとつの世界を忘れてまずい酒の味なんかを覚えていく。


これが大人になるということなら、やっぱり僕は大人になんてなりたくはなかった。


だから僕は今日も彼女の車の助手席に乗る。

あの美しい夜たちを忘れないように。になってしまった僕から逃げるために。


気づけば、受け取ったキリンレモンをずっと握っていたせいでてのひらだけが冷たい。少し窓の外に手を出してみると、風が指の間をぬるぬるとすり抜けるのが分かった。垂れてきた水滴が腕を伝ってワイシャツの袖を濡らす。袖口から半円状に滲んでいくそれを何となく眺める。

隣で運転する彼女はもうケロッとしていて少し申し訳なくなっていた自分がアホらしくなってくる。


キャップを捻ると炭酸がプシュッと音を立てて弾けた。


海が近づいている。

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