口癖とトリセツ

「ねぇ知ってる?桜の花びらが落ちるスピードって秒速五センチメートルらしいよ」

「映画観たんだ」

どうりでカーステから山崎まさよしが流れているわけだ。

「うん、全然内容わかんなかったけど」


車窓を流れる景色をぼんやり眺める。もう二時を回っているというのに街は眩しいほど明るくて、眠らない街と言われたこの東京も実は僕らと同じで眠れないだけなんじゃないかなんて思う。

「なんで海?」

「ん〜、普通に夜の海は死ぬまでに行っておきたいでしょ?」

「まあ、よくわかんないけど」

「世の中嘘ばっかだから、せめて好奇心には正直に生きたいじゃない?」

彼女の口癖だった。古い洋画のヒロインの台詞らしいが、映画のタイトルは何度聞いても忘れてしまう。

しかし果たして一体その小さな体のどこからそんな好奇心が湧いてくるのだろうかと、ハンドルを握る白くて華奢な手を見ながら缶コーヒーのプルタブを開ける。

「ほんとにそれ好きだよね」

僕の手元を指さす。

「別に好きなわけじゃないよ」

本当に別に好きなわけじゃなかったが、生憎僕の好奇心は「たまには他のコーヒーも買ってみよう」なんてことすら言っては来なかった。会社でも知らぬ間に僕への差し入れはBOSSのブラックでなくてはならないという暗黙のルールが出来ているらしい。


習慣やらルーティーンなんてのも、誰かが勝手に決めた他者のに過ぎないのかもしれない。だとしたら僕のトリセツはだいぶ作りやすくて薄いんだろうし、例外だらけの彼女のトリセツは辞書くらいあるんじゃないかなんて思うけれど、それがいいのか悪いのかは僕も分からない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る