第5話:愛

 姉が何を失敗したというのかしばらくはわからなかった。

 そもそも俺の肉体は可変であるし、精神や思考回路についてもある程度問題なく改造できる。これまでずっとそう思っていたし、実際そうだった。

 しかし、数日経って《失敗》の意味がわかった。

 今の俺では水銀になれない。

「……………………」

 物質と生き物の性質を兼ねる種族:鬼。水銀の生命体に変じる性質はそれそのものであり、俺のコンプレックスであり、同時に誇りでもあった。……のだと気付いた。

(失って初めて気づくとはこういうことなのか……?)

 友人たちが評していわく『魚類に劣る共感性』を持つ自分がこんな気持ちになるなど、想像もしていなかった。

 水銀になれないことを除けば、身体能力や思考能力に影響はなかった。人格についても変わらない。

 変わらないことと変わったことを比較するたび気分は陰鬱に沈んでいく。

「おーい、シェルー! 遊びにきたよ!」

「…………いらっしゃい……」

「な、なんだその目は? まるでアイデンティティが崩落したかのような悲哀と絶望を感じるが……」

 ひぞれは相変わらず鋭い。

 開け放しにしていた扉を閉め、俺の元へやってくる。

「あなたは今日も可愛らしいですね。お腹の子も無事育っているようで何よりです」

「んにゅっ……」

「? ……あ、いえ。こんにちはと言おうとしたんです」

 真っ赤になったひぞれがもじもじとするものだから、クッション性の高い椅子に座ってもらう。

「ん、んん……そう、だな。こんにちは」

「はい。あなたに会えて嬉し——いや待て違う」

 訪問が喜ばしいのは本当だが、思ったことをこんなにも口に出す理由はどこにもない。現に賛辞が苦手なひぞれが真っ赤になってしまって、スムーズな会話が難しくなってきている。

「…………。ひぞれ」

「な、なんだ」

 とりあえず伝えておく。

「あなたを娘のように思っています」

「……」

 これでひぞれが処理落ちしたので、考えるゆとりができた。

 いまの自分は思いついたことを全て口に出してしまっており、光太と同じ症状だ。原因はおそらく、リフユ様によって大量に浴びせられた光太のデフラグ——

「ありがとう。あなたのお陰で自分の状態が…………」

「あうぅ……」

「……すみません」

 落ち着くのを待ってから、ひぞれに相談する。

「光太のデフラグを盛大に浴びたせいか、今の俺は思いついたことを口に出してしまう状態でして。デフラグを観測しているあなたに効果持続のほどをお聞きしたいのです」

「…………」

「?」

 彼女は俺をじっと見て言葉を探している。

「……シェルは自分のことになると途端に鈍くなるのだな」

「どういうことですか」

「いや、それが悪いということではない。そうなると、やはりユニとそっくりだ」

 心を悪い意味で串刺しにされた。

「光太のデフラグの効果に、光太のような精神状態にするものは含まれない。それはキミもわかっているだろうに」

「……」

 わかっている。

 しかし、そうでなくともそれらしい効果が発揮されていなければこんな状態になっていないはずだ。

「むずかしいことを考えすぎだよ。……単純に。キミは思ったことを素直に言ってみたいんじゃないか?」

「…………」

「光太のアレは命知らずな面もあるが、気遣いもあるし、根底には自己犠牲にさえ近い優しさがある。見ていて羨ましくなるのもわかるというものだ」

「羨ましい、ですかね……昨日も神々を相手にそうするので、」

「そうだ、そこだ」

「?」

「キミにとって羨ましい部分」

「???」

 なぜ。

「なぜじゃない。シェルは行動と言動に神から縛りがかかっているだろう。縛りに当てはまらなくとも、神を相手にすればブレーキがかかってしまうのを僕は何度も見てきたぞ」

「…………」

「というか、いま症状を自覚したということは……思ったことを言ってしまう相手も神かそれに近いんじゃないか?」

 胸に重石が乗っているような気持ちになって、切り返す言葉を探すが、見つからない。

 考え込んでいたら、フローラから電話が来た。

「その着信はフローラだな。遠慮せずとってみてくれ」

 チャイコフスキーの花のワルツ。フローラだけは諸事情あって着信音を変えているし、苦手な電話もすぐに取ることにしている。

『もしもしあーちゃん?』

「はい、アリアです」

『うふふ……つぎミァザを泣かしたら覚悟しろ』

「…………………。はい」

 無邪気な声音と無垢な殺意を伝わせて、そのまま電話が切れる。

「どうだった?」

「……。口を出せる雰囲気ではありませんでした」

 狂気を発露させたフローラは無敵だ。

「そ、そうか」

「……分析側の感覚として、この効果は永続しないと思います。そろそろ3限ですから、準備をしましょう」

 そろそろ昼休みも終わる。

 物理学科は3限に会議があったはずなので、ここでお別れだ。

「何かあれば言ってくれ。助けになる」

「いつもありがとうございます」



 ひぞれに指摘されて冷静になってみれば、確かに例の症状は神かそれに近い相手にしか発動しないようだった。

「見ないうちに愉快な状態だね」

「伯父上とセファルに会えて嬉しいです」

「……っふ」

「わー。あーちゃん素直!」

 珍しく教員室を訪ねてきたのは養父の兄とその妻。伯父上は神域に至っており、セファルは妻であるから条件にあてはまる。

「私も大好き! ほら、ファレテもあーちゃん好きでしょ?」

「そうだね。可愛い甥っ子だ」

「えへー。あ、ミァザちゃん泣かしたら殺すね!」

 続いて訪ねてきたのは不明点を聞きにきた京。

「……なので、このインテグラル以降をたとえばIなどとおくことで処理できます」

「わかりました。ありがとうございます!」

「いえ」

 京相手では問題ない。

 次に、同じ数学科所属の大和。

「貝殻先生、これ出張土産! 京都の和菓子屋さんの新作ですよー」

「ありがとう」

「キュウちゃんが選んだんで、味は保証します」

「楽しみです。キュウキにもお礼を伝えてください」

「はーい」

 大和も。

 以降、俺は珍しく客人を積極的に迎えての検証を終えた。

 ひぞれの仮説は正しい。

 いつ治るかの計算も終えた。およそ二日。

 二日間、神を相手にするのを控えれば良い。

 そういう時に限って神、よりによってハーツが来襲する。

「アリア、調子どうだ?」

「ご心配くださりありがとうございます。大変嬉し——問題ありません」

「問題ありそうに見えるんだが気のせいか?」

「ないと言いました。それと、ハーツはさっさとスペードと結婚してください」

「落ち着け。いきなりどうしたお前」

「大好きなスペードと大好きなハーツが結婚したら俺が幸せだからに決まっています」

「ほ、ほんとに落ち着け……」

 …………。

 本棚と壁の間に入ると落ち着く。

「忘れてください」

「無理言うな」

「……あなたたちのことは親のように思っておりますし、恩人であるとも——死にます」

「死ぬな」

 ハーツが触れると体が縮み、膝上に収まる。

「何があったか、ゆっくり教えてくれ」

「……光太と似た状態に陥っています。思ったことを口に出す……」

「あー、昨日も見てて肝が冷えたわ。アレと同じなら不安にもなるか」

「はい……」

「でも、お前なら大丈夫だと思うぞ」

「?」

 何を根拠に。

「お前は人を傷つけること言わないし、お前を可愛がってる神様なら本音言われるとむしろ嬉しいだろうから」

「……ハーツは嬉しいですか?」

「うん」

「さっき、スペードと結婚しろと言ってしまいました」

「あ、いやあのあれそのあれはだな……んっんん……う、嬉しいさ」

 俺も嬉しい。

「俺も嬉し——死にます」

「死ぬな死ぬな」

 いつも通り錯乱と発狂を繰り返していると、スペードが飛び込んでくる。

「アリア!」

「! スペード。お会いできて嬉しいです」

「おお……ひーちゃんの言葉はまことであったか……!」

 ハーツが俺を差し出すと、スペードが受け取って抱きしめてくださる。

「愛い……愛しておるぞ、小さき鬼よ」

「…………ありがとうございます」

「どうした、我が鬼」

「……幸せで」

「ふふふ」

 好意を言って受け入れてもらえることがこんなに嬉しいと思わず、俺は困惑していた。

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