第5話―二人の愛の果て―

 翌日の朝、通学路で嬉野君を見かけた。

 彼の隣には風野が。

 声をかけるべきか迷っていると、嬉野君のほうから声をかけてきた。

「おはよう、河野さん。今日も寒いね」

「う、うん、そうだね」

 私は隣にいる風野のことが気になり、言葉がぎこちなくなる。

 嬉野君はそんな私に気付いてか話し始めた。

「あ、風野君のこと? 大丈夫大丈夫、君を殴ったりはしないよ。ね、風野君?」

「あ、はい……そうですね……」

 嬉野君に笑いかけられた風野は、ビクリ、と肩を震わせて頷く。

 その姿は去勢された犬のよう。昨日までの威圧感も獰猛さもなく、ただ嬉野君の姿にびくびくとしていた。

「えっと……その……大丈夫なの?」

「あぁ、大丈夫ですよ。昨日の現場を見てた人の証言で僕は殴られそうになった河野さんを助けただけってなりましたし、彼もやりすぎたと反省しているので今回はおとがめなしになりました」

「いや、違う違う。それも気になってたけど、今は風野のこと。昨日までとまるで別人なんだけど……」

 嬉野君は一瞬不思議そうな顔をし、にたりと笑みを浮かべた。

「昨日色々教えてあげたんですよ、僕の好きなものが好きになれるように。ちょっと強引だったかもしれませんが、もう風野君は僕の同士ですよ。ねぇ?」

「は、はい……そうですね……」

「もう、ビクビクしないでください。こんなところで殴ったりはしませんから」

 風野が嬉野君に何をされたのか、想像しようとしてやめた。

 私の中の嬉野君はそんなことをする人ではない、そんなイメージを壊したくないからだ。

「河野さん、七海さんとは話せましたか?」

「うん、話せたよ。雪乃、頑張るって」

「そうですか。風野君、そうらしいですよ? 君はどうすればいいかわかりますよね?」

「雪乃に謝る」

「七海さんのご両親にもですよ」

 はい、と頷く風野。よほど強い躾をされたみたいだ。

 本当に牙を抜かれた犬みたい。

「っと、河野さん。大切な話をしたいのですが、今日のお昼、二人きりになれませんか?」

「二人きり……」

「大丈夫ですよ、変なことはしません。本当に話だけ」

「じゃあどこにしようか……図書室はもうすぐテストだから人が多いし」

「じゃあコンピューター室はどうですか? 僕の部室なんですけど、お昼から来る人は誰もいません」

「わかった。じゃあそこで」

 私たちはこうして別れた。

 嬉野君はいったい何の話だろうか。

 私も彼に話さなければならないことがある。ここでしっかりと彼に伝えるのだ。

 やはり私は嬉野君とは付き合えないことを。


「お、菜々、おはよう」

「雪乃!? 学校来て大丈夫なの?」

 1限目が終わり休み時間に入った頃、雪乃が教室にひょっこりと現れた。

 その顔は昨日よりも穏やかで、どこかすっきりとしている。

 表情だけで昨日何があったかわかるくらいだ。

「まぁね。ママは心配して今日は休みなっていったけど、菜々に会いたくて来ちゃった」

「私に?」

「そ。なんだか最近菜々成分が不足してて……それに沈んでる時に気分転換に描いたデッサンも見てほしくて」

 彼女も私に会いたがっていた、その事実で心臓が爆発してしまいそうなくらいトキメキ、嬉しくなる。

「雪乃にそう言ってもらえて嬉しいな。私も雪乃に会えなくて寂しかったんだよ?」

「はは、お互いさまってやつだね」

 今までの私なら彼女にそんなことを伝えることができなかった。気持ちを隠さなければいけなかったからだ。

 けれどもう気持ちは打ち明けた。隠す必要はなくなったのだ。

「あ、そうだ、雪乃。どうだったの? ちゃんと両親に話した? 大丈夫だったの?」

 彼女は真剣そうに顔を引き締め、うん、と頷く。

「話したよ。すっごく怒られたし、心配もされた。けどね、ごめんねって言われた。あたしのことほったらかしにしてごめんって」

「よかったね、雪乃。ちゃんと自分の思い伝えられて」

「うん……こんなことなら初めから全部相談したらよかった。パパもママもあたしが相談して迷惑なんてことはないって言ってくれたし」

「ほんと良かった……それで、お腹のほうはどうするの?」

「それはまだ迷ってる。あたし一人じゃ決められないし、涼太ともちゃんと話さなくちゃ。それにさ、命のことだし、一日二日で決められないかなって」

 雪乃はそっと自分のお腹を撫でる。

 そこに宿っているのは望んだかどうかは別としても、ちゃんとした命なのだ。

 彼女はそれについて今、しっかりと考えて決めようとしている。

 それを急かすようなことは私にはできない。

「そうだね。ゆっくり考えたらいいよ。私、待ってるから」

「うん、ありがと。あ、そうだった、これ、菜々に渡さなくちゃ」

 雪乃はカバンをガサガサと漁り、何かのパンフレットを取り出した。

「これ、ママが働いてる会社なんだけどね、菜々がよかったらだけどバイトしてみない? 後々社員待遇にもするってさ」

「へぇ、お母さん映画館で働いてるんだ……ってバイト!? それに社員待遇って!?」

 私が驚きを隠せないでいると、雪乃が訳を話してくれた。

「やっぱりあたしさ、菜々にエンコーしてほしくない。菜々があたしみたいに望まない妊娠したり、傷付いたらイヤだって思ったの。だからママに菜々が働けないかなって相談したの。ママはあたしのこと心配してくれてる子なら即採用するって言ってたし」

「ほんと?」

「うん。それにお給料は菜々が必要なら前借もできるし、言ってくれたら少しだけど増やすこともできるって。ちゃんと働いてくれるなら社員としても雇ってもらえるみたいだし」

「そんなことまで……」

「菜々はあたしを助けてくれた。ママもそれはわかってるからそこまでしてくれるの。どう? 悪い話じゃないでしょ?」

 確かに悪い話ではない。

 だが雪乃に甘えて働かせてもらっていいのだろうか。

「あたしは菜々のためにやってるの。菜々があたしにしてくれたお返し。でも嫌なら断ってもいいよ。でも約束して、エンコーだけは絶対にしないで」

 雪乃の真剣な顔が私を貫いた。

 結局私が悩んでいたのはちゃんと働けるかということだ。

 だが雪乃が私のためにお母さんに頼んで紹介してくれたのだ。

 それならば頑張るしかないではないか。

「わかった。私、バイトするよ。ううん、バイトさせてください」

「オッケー、ママに言っておくよ。ありがとね、菜々」

 雪乃のおかげで働く場所が見つかった。

 最近、良い方へと出来事が転がっている気がする。

 このまま幸せな結末に辿り着けたらどれだけ幸福か。

 だが今の私にはこの幸せが決していい結果だけを生まないことを知る由もない。


 お昼休みになり、私はコンピューター室の扉を開けた。

 中は遮光カーテンにより十分な光が届かず薄暗い。

 そんなぼんやりとした闇の中、嬉野君の姿がボヤっと浮かび上がる。

「来てくれたんですね、河野さん」

「まぁね、私も話したいことあったし。それより電気点けない? ちょっと暗いよ」

 電気を点けるとパッと部屋が明るくなった。

 嬉野君の姿もはっきりと見える。彼は私のことを貫くような瞳で見ていた。

「で、嬉野君。話って何?」

「それなんですけど……河野さん。ごめんなさい、僕は君と付き合えない」

 彼はばっと頭を下げてきた。

 私の言いたかったことを先に言われ、少し焦る。

「えっ!? ちょ、ちょっと待って! と、とにかくまず頭を上げて!」

「いえ、僕は河野さんを裏切ったんです。だから頭を上げるわけにはいきません」

「えっと、その……ごめん、嬉野君! 私も嬉野君とは付き合えない!」

 頑なに頭を上げようとしない嬉野君に、私も頭を下げることに。

 お互い頭を下げたまま10秒ほどが経過し、どちらからともなく、ふっと笑った。

「ははっ、何これ。おかっしいの」

「そうですね、ふふっ」

 顔を上げて向かい合う。

「河野さんはやっぱり、七海さんのことが?」

「うん。私は雪乃が好き。今までは女の子同士だしおかしいかもって思って嬉野君と付き合ってた。嬉野君といれば普通の好きがどういうものか思い出せるかもって。けど、嬉野君といるよりも雪乃といる方が楽しいし、ドキドキした。だから私は雪乃への思いを貫く」

「清々しいくらい言ってくれますね」

「もう雪乃への思いを我慢するってのはやめたから」

「じゃあ僕の番ですね。えっと、どこから説明したらいいか……まずこれを見てください」

 嬉野君はポケットから写真の束を取り出した。

 そこには女の子が2人、写真ごとにペアが違うが、映っていた。

 その中には見たことある顔もある。

「これ、1組の高木さんと橋本さん……確か女の子同士だけど付き合ってるって」

「そう。僕が撮りたい写真はこれなんです。女の子同士の恋愛、百合が撮りたいんです。壊れそうなほど儚くて美しい、それが百合なんです。僕はその一瞬の儚さを秘めた煌めきを撮りたい!」

 百合、その言葉は聞いたことがある。女の子同士の恋愛とか友情とかそういうのを指すらしい。

「けれど現実での百合は稀少です。本人たちが好き同士でも社会がそれを許さない。すぐに壊されてしまう。そんな百合をちゃんと根っこを張って育つようにしてあげるのが僕の使命なんです」

 と言うと嬉野君はポケットからもう1枚写真を取り出した。

 それは私と雪乃が屋上でキスをしている写真だ。レズだとクラスのみんなから罵られた原因となったもの。

「ごめんなさい、河野さん。この写真、拡散したのは僕なんです」

「嬉野君が? どうしてこんなことしたの? それも百合を育てるためって言うの?」

 今までの写真を見ると、この写真も嬉野君が撮ったものだとすぐに理解できた。

 写真の撮り方のクセというか、画格が似ているしどれもとても瑞々しい感じで撮れている。

 多分撮り方にこだわりがあるのだろう。

 彼に対しての怒りは不思議と湧いてこなかった。しかし彼がどうしてこんなことをしたのか理解できない。

「はじめは七海さんにからかわれる河野さんを見ているだけでよかった。けれども河野さんはどんどん七海さんへの気持ちを募らせていた。けれど女の子同士好きになるなんてあなたは考えていなかった、そうでしょう?」

 私は頷く。

「あのままだと河野さんは七海さんへの気持ちを殺してしまう、七海さんも河野さんの思いには気付かない。そんなのはあまりにも可哀そうだ。だから僕は賭けたんです。この写真をばらまき、それで起こるであろう試練を乗り越え、仲を深めていくことに」

 ならば嬉野君は賭けに勝ったことになる。

 この写真があったからこそ私は自分の気持ちに正直になり、雪乃も私のことをちゃんと見てくれるきっかけとなったのだから。

「そして男が百合に交じるのは禁じ手だけれどダメ押しで僕は河野さんに告白した。男の僕よりも女の七海さんのほうが好きだと思わせるために」

「そっか……そうだったんだ……」

「だから、ごめんなさい。僕は河野さんを騙して付き合ってた」

「いいよ、別に」

 彼に怒りが湧いてこない理由が分かった。

 彼がいなければ私は雪乃との仲を深めることができなかった。

 たとえ利用されていたとしても、彼がいなければ自分の好きを殺してしまっていた。

 だからある意味彼は恋のキューピッドと言えなくもない。

「嬉野君がいなかったら雪乃に思いを伝えられなかった。方法はどうあれ、嬉野君を咎める理由はないよ」

 嬉野君の表情が明るくなる。

 だから私は、でも、と話を続ける。

「そんなストーカーみたいなことしてたってことはちょっと引くかも……」

「そ、そうですよね……ほんとこれだけはやめられなくて……僕の百合センサーがどうしても反応してしまうんです……」

「百合センサーって……まぁいいや」

 私は落ち込む嬉野君に向き直る。

「だから今日の話は聞かなかったことにする」

「え?」

「私は何も知らない。嬉野君が写真をばらまいたりしたことも知らない。知らないから、嬉野君のことは怒らないし、軽蔑もしない。恋人同士じゃなくなった私たちは今からはただの友達になる。それでいいよね?」

「ただの友達、ですか?」

「そう。ただの友達ならそんなストーカーみたいなことしないでしょ?」

「う~ん……ファンってことにしてくれないですかね? それなら写真撮っても」

「ダメ。友達」

 嬉野君は肩をすくめ、溜め息を吐いた。

「わかりました。じゃあただの友達ってことで。でも友達なら、友達の恋の結末を見守るってことも、普通ですよね?」

「普通のやり方ならね……」

「どこまでが普通かわかりませんが……普通に見守れるように頑張ります」

 やや不安が残るが、嬉野君とただの友達になった。

 後は雪乃の返事を聞くだけだ。

 もう私の恋物語は最終章へ近付いてきている。


 そこからさらに時間は進み、12月となった。

 校内の生徒は4日後に迫る期末試験の勉強に追われているが、その先の冬休みの計画を練る生徒もちらほら。

 私はというと友達として嬉野君と勉強したり紹介してもらったバイトに行ったりしながら、雪乃の答えを待っていた。

 彼女はまだ宿った命をどうするか決めかねていたのだ。

 そんな時だった、教室で雪乃が話しかけてきた。

「ねぇ、菜々。今日、パパもママも仕事でいないんだ。だから、うちに泊まりに来ない?」

 目を伏せて少し恥ずかしそうに雪乃はそう言った。

「パパもママも今日はどうしても外せない仕事があって……あ、一人で留守番ってことはよくあったから慣れてるんだけどさ……でも最近一人でいるといろんなこと考えて頭がパンクしちゃいそうになるの……良いことも悪いこともごちゃ混ぜになっておかしくなりそう……だから、一緒にいてほしいな?」

「よ、喜んで!」

 そんな誘いを断ることなどできない。

 私自身、きっと笑顔が漏れていたに違いない。

 雪乃とのお泊り、心臓が破裂しそうなほどバクバクと脈打ち、この後の授業の内容は一切頭に入ってこなかった。

 これは期末試験は赤点かもしれない。


 そして授業が終わり、待ちに待った放課後が訪れた。

「それじゃあ菜々の家に寄ってからスーパー行こうか。晩御飯、あたしが作ってあげる。何食べたい?」

「う~ん……雪乃が得意なの作ってよ」

「じゃあハンバーグにしようかな。ハンバーグ好き?」

「ベスト10に入るくらいには好きかな」

 私の家でお泊りセットを取ってからスーパーで食材を買い込み、雪乃の家へ。

 疑っていたわけではないが、やはり彼女の家には誰もいなかった。

 こんな大きな家で一人で留守番するというのは寂しいなと思う。

 雪乃はこんな寂しさを味わい、変わってしまったんだと感じた。

「ご飯作るから菜々はテレビでも見ててよ。そっちの棚に映画とかあるし、好きなの見てていいよ」

「私も手伝うよ。昔からお母さんの料理手伝ってたから任せてよ」

「今日の菜々はお客さんなの。だからゆっくりしてて。それにさ、あたしの100%手料理、食べたくない?」

「雪乃の完全な手料理……ゴクリ……」

 私が手伝ってしまえば雪乃の料理ではなくなる。

 雪乃が料理した雪乃成分いっぱいのご飯を想像し、口内に涎が溢れ、腹の虫が自然と暴れ出す。

 いつか雪乃の作ったお弁当を一緒に食べたが、その時はまだ彼女の魅力に気付いておらず、雪乃成分を堪能できていなかった。

 だから今また雪乃成分を摂取する機会が与えられ、唾液が止まらない。

「じゃ、じゃあお言葉に甘えてゆっくりさせてもらおうかな……」

 適当な映画を選び、再生する。

私の家のモノよりも大きなテレビで見る映画はド迫力だ。けれど内容があまり頭に入ってこない。

キッチンで料理する音が聞こえてくるせいだ。

包丁を使う音、何か混ぜる音、焼く音、いろいろだ。

雪乃が私のために料理してくれている、それだけでドキドキする。

いい匂いが次第に漂ってきて、お腹の虫がさらに暴れ出す。

「雪乃の料理……楽しみだなぁ」

 空腹と戦いながら映画を見る。お預けを食らった犬の気分だ。

 映画の中盤頃には雪乃の料理が完成し、ようやくそれにありつくことができた。

 私は全然頭に入ってこなかった映画を消し、食卓へ向かう。

「うわぁ……おいしそう!」

 食卓にはハンバーグのほかにポテトサラダ、スープ、ご飯が並んでいる。

 どれもこれもおいしそうだ。

「どうぞ召し上がれ」

「いただきます!」

 箸が止まらなくなるほどおいしい。私は夢中で料理を口に運んでいく。

 これほどおいしい料理は初めてだ。雪乃が作ってくれたからだろう。

「もう、菜々ってば行儀悪いよ? もっとゆっくり食べなよ」

「でもおいしくて、止まんないよ!」

 料理を通じて雪乃成分が体中に染み渡る。

 それだけで幸福が身体の奥から溢れ出してくるよう。まるで麻薬だ、なんて思ってしまった。

「ふぅ、ごちそうさま。おいしかったよ、雪乃」

「ありがとう。じゃあ片付けよっか」

「片付けは手伝わせてよ」

 食べ終わった食器を二人並んで片付ける。

 こうして二人でご飯を食べたり片付けをしたり、まるで夫婦になったみたい。

 雪乃はどう思っているだろうか。

 私はこんなにも幸せで嬉しい。彼女も同じ気持ちなら嬉しいな。

 雪乃の顔を横目でちらりと見るが、彼女が今いったいどんなことを思っているかわからない。

 長い金髪が顔を隠すカーテンのようになってしまっているからだ。

 この髪の向こうで一体彼女がどんな顔をしているのか。

「え? 菜々?」

 私はいつの間にか彼女の髪をかき上げていた。

 キョトンとした顔の雪乃が私を見つめている。

「あ、そ、その、ごめん」

「もう、何やってるの?」

「いや、なんだろ……あ、アハハ」

「菜々ってばおかしいの。っと、片付けも終わったし、ちょっと勉強しよっか」

「べ、勉強!?」

「もうすぐ期末テストだよ? ちょっとでも勉強しておかないと」

「あ、そうだよね……うん、勉強、しなくちゃ……」

 雪乃成分を摂取しすぎたせいか、頭がぼぉっとする。酔いというのはこういう感覚なのだろうか。

 教科書とテキストを交互に見ながら回答を埋めていくが、やはり頭に入ってこない。

 雪乃をちらりと見る。彼女は真剣に勉強している。一言も喋ろうとしない。

「はぁ……」

 雪乃は頑張っている、だから私もやらなければ、と気を引き締める。

 邪念を払うように頭を振り、問題を解くことだけに集中する。

 そこから1時間半が経過し、時計は9時を指していた。

「ふぅ……今日はこれくらいにしよっかな。菜々、あたしお風呂入ってくるけどいい?」

「いいよ。雪乃の家だし、雪乃から先に入ってよ」

 先に言っておくが雪乃の入った後のお湯を飲もうとか、そういうことは一切考えていない。

 私はまだそこまでの理性と常識は残している。

 とにかくいったん雪乃と離れてクールダウンする必要がある。彼女がお風呂に行っている間、私は窓の外を眺めてリラックスする。

 空には煌々と満月が輝く。それを阻害する雲もない。

「今日は満月なんだ。もしかしたら今年最後の満月かも」

 期末テストが終われば冬休みでクリスマス、大晦日、お正月とイベントが盛りだくさんだ。

 雪乃を誘っていろんなところに出かけてみたいな。

 いつの間にか私の世界は雪乃中心に回っている。

 それもこれも恋のせいだ。恋がこんなに世界を変えてくれるものなんて、私は思いもしなかった。

「雪乃……」

 私は呟き、窓によりかかる。

 ひんやりとした窓が火照り始めた身体に心地よい。

 はぁ、と窓に息をかけると白く淀んだ。

 淀んだ部分に指をなぞらせ、ハートの形を描く。

「菜々、お風呂あがったよ。冷めないうちに入ってきなよ」

 私は急いで窓に手を擦り付け、ハートを消す。

「何してたの、そんなとこで」

「えっと……月! 見て、今日は満月なんだよ!」

 ごまかすように月を指さす。雪乃が私の隣にやってきて空を見上げた。

「あ、ほんとだ。満月」

 ふんわりと石鹸の香りが雪乃から漂ってきた。

 まだ髪が濡れていて、肌にも少し水滴が残っている。とても色っぽく見えた。

「雪乃……キレイ……」

「うん、そうだね。月がキレイ」

 月を見上げる雪乃、それに見惚れる私。

 彼女のうなじに残った水滴が、つつぅと彼女の肌を撫ぜるように落ちていく。

 それが床に落ちて爆ぜた瞬間、私はハッと理性を取り戻す。

「あ、わ、私お風呂行ってくるから!」

「菜々」

 急いで着替えを用意する私の背に雪乃の声がかかった。

「お風呂から上がったらあたしの部屋に来て。待ってるから」

「う、うん……」

 私は早足でお風呂場に向かう。赤くなってしまっただろう顔を見られないように。

風呂場の扉を閉めると、とたんに体から力が抜けていきペタリ、と座り込んでしまう。

「待ってるってそれって、そういうこと? そういうことなんだよね? いや、でもまだ雪乃の答えも聞いてないし、私の想像しすぎ?」

 この先何があるのか、期待と恥じらいと不安が入り混じった感情が膨張し、記憶が定かではない。

 気が付けば私は雪乃の部屋の前にいた。


「はぁ……ドキドキする……」

 手のひらに浮かんだ汗をズボンでグイっと拭き、ドアノブに手をかけた。

 ドクンドクンと脈打つ鼓動がうるさい。この先に何が待っているか、ゴクリと生唾を飲み意を決して扉を開けた。

「あれ……? 雪乃?」

 暗い部屋、明かりは窓から漏れこんだ月の光のみ。

 その光が照らすのは雪乃が眠っているベッドだ。

「寝ちゃってる……なんだ……もう……やっぱり考えすぎかぁ」

 待っているとはただ一緒の部屋で眠ろうと言うことだったのだろう。

 私ははぁ、と溜め息と同時に体の力をすべて吐き出す。

 無駄に緊張したせいで、疲れがどっと訪れた。

「私も寝ようかな……あ、でもベッドが一つだし……もしかして同じベッドで寝ようってこと?」

 私はベッドに近付く。確かにベッドは二人で寝られるくらいに大きい。

 布団を敷いてくれていることもないので、私はベッドに入ることに。

 だがベッドに手を付いた瞬間だった、眠っていたはずの雪乃の腕が伸び、布団の中へ引きずり込まれる。

 そうしてベッドに横になった私は、雪乃のぱっちりと開いた瞳と目が合った。

「えぇ!? 雪乃!? なにしてるの!?」

「えへへ、どっきり成功。びっくりした?」

 にんまりと意地悪気に雪乃は笑う。

「うん、びっくりした……ほんと、心臓止まるかと思った」

「じゃあ大成功だね」

 雪乃の笑顔につられて私も笑う。

 だが、お互いの瞳がまた交わりあい、そのまま見つめ合うことになった。

 いったい何秒見つめ合っていただろうか。一切言葉を発さず、身動きするのも煩わしい静寂だ。

 そんな静寂で先に動いたのは雪乃だった。彼女の顔が近付き、私との距離が0になる。

 柔らかな感触が久しぶりに私の唇に触れた。

 その瞬間私の顔が熱くなるのがわかった。

 だが彼女の顔も月明かりの柔らかな光でもわかるくらいに真っ赤に染まっていた。

「雪乃? どうして?」

「あたしがしたかったからじゃ、ダメ?」

「ダメじゃない! 全然ダメじゃない! むしろやってほしい!」

「菜々ってば変なの……でも我慢してたのは、あたしも一緒」

 雪乃のキスの雨が降る。

 むさぼるようにキスをする彼女に唇で応える。

「ねぇ菜々……あたし、菜々のこと好き……将来とかそういうことはまだ答えられないけど……でも菜々が好きな気持ちはほんと。抑えられないくらい」

 そう言って雪乃は私の上に覆い被さってきた。

 彼女のさらりとした金色の髪が私の頬をかすめ、ふんわりと良い匂いが漂う。私の使った石鹸と同じ匂い。

「だからね……エッチ、しよっか」

 ゴクリ、と唾を飲む音がやけに大きく響く。彼女に聞こえただろうか。

 私の身体が火照り、抑えられない。心の奥底がジュンと唸り、神経のすべてが疼く。

 それを抑える方法はただ一つ。

「……うん。したい……」

 雪乃を受け入れるのみだ。

 私の返事を聞いた彼女はまず上着を脱ぎ捨てる。

 月明かりの下、彼女のすべすべとした肌がぼんやりと浮かび上がった。

 銭湯で見た裸よりも幻想的で、魅惑的で、とてもエッチだ。

「ねぇ、菜々。こういう時はあたしがリードしたほうがいいかなって思ったんだけど……女の子同士のエッチってどうするかわかんなくて……だから気持ちよくできないかも」

「前に練習で私の身体さんざん気持ちよくしたくせに」

「あれは男の人にされて気持ちよかったことをしただけ。だから本物の女の子のエッチがわかんなくて」

「私もわかんないよ……でもそんなこと気にしないで……私、雪乃とならどんなことも気持ちよくなれると思うから」

「ありがと、菜々。それじゃ、脱がすからね」

 雪乃に上着を脱がされる。前にも脱がされたことがあるが、その時よりも恥ずかしい。

 続いてズボンも脱がされていき、下着姿にされる。

 彼女に私の肌が見られている。それだけできゅんとしてしまう。

「下着も脱がすね」

 伸びてきた彼女の手を握り、私は首を横に振る。

「ごめん……やっぱり恥ずかしい……」

 雪乃は優しく笑い、身に纏っていたものをすべて脱ぎ去り完全に裸になる。

 ほっそりとした四肢、柔らかだけれど引き締まっているお腹、ぷにゅっとしている胸、プリンとしたお尻、すべてが私の前にさらけ出されていた。

「あたしも脱いだんだし、これで恥ずかしくないでしょ?」

 そういう問題ではない。そう言おうとしたがにやりと笑った彼女の一瞬の手捌きにより下着が全てはぎ取られてしまう。

「うぅ……やっぱり恥ずかしいよぉ」

「今からもっと恥ずかしいことするんだよ?」

 彼女がぎゅっと抱き着いてきて、耳元でそう囁いた。

 なにも遮ることのない彼女の肌は、心地よいほどに温かかい。

 まるで母親の胸に抱かれているような、そんな安心感が生まれた。

「菜々。好きだよ」

「私も好きだよ、雪乃」

 もう一度キスをし、行為が始まった。

 お互い初めて同士でたどたどしく始めたが、本能とは恐ろしいものだ。

 すぐに互いが気持ちよくなれるように自然と手足が、体が、舌が、動いていた。

 どうすれば相手を気持ちよくできるか、そんなものは考えてすらいない。ただ獣のようにお互い快楽を貪りあうのみ。

 愛のぶつけ合いだ。

 相手の身体を指で撫ぜたり、かき混ぜたり、キスをしたり、舌で舐めたり、その他にもたくさんのことをした。

 部屋にむせ返るような臭いが広がった。そのすべてが彼女を愛する証。

 休むこともなく好きをぶつけ続け、照りつけた朝日により初めて時間を確認した。

「嘘! もう朝だよ!? 早すぎない!? ねぇ、菜々?」

「早いけど……もうくたくただよ……」

 一晩中愛し合っていたのだ。身体はお互いの体液と噴出した汗でべたべたに濡れ、心地よい疲労感が全身に広がっている。

「学校までちょっと寝させて……」

「寝ちゃだめだよ、菜々! シャワー浴びないとだめだし、時間ないって!」

「私の代わりに浴びててよ……」

「そんなことできないって! ほら、起きて! シャワー浴びるよ!」

 雪乃に促され、シャワーを浴びに行く。

 シャワーを浴びたことで頭が少しスッキリした。

 制服を着て、いつもより多めの朝食を取る。

 その間、雪乃の顔を見れない。夜のことを思い出してしまうから。

 それは彼女も同じだったようで、よそよそしい態度で私の顔を見ようともしない。

 お互い気まずい空気のまま朝食が終わり、学校へ向かう時間となった。

「雪乃、別々の時間に出よっか。同じだとちょっと恥ずかしいし……」

 玄関先、家を出ようとした瞬間雪乃と目が合った。

 シャワーを浴びてから初めてだ。

 その瞬間私の身体は雪乃を欲し始める。

 それは彼女も同じだった。いきなり抱き着いてきて、キスをする。

 けれど学校に行かなければ、私は泣く泣く雪乃を引きはがした。

「ねぇ、菜々……一緒にさぼっちゃおうよ」

 だが雪乃はそう言って私の手を握る。

 彼女の手を通じて鼓動が聞こえる。とても激しくときめいていた。

「そうだね……一日くらいさぼっても、いいよね」

 雪乃に手を引かれて彼女の部屋へ向かう。お互い、我慢できずについ早足となっていた。

 そしてベッドに思い切りダイブしてもう一度お互いに愛し合う。

 それはお互い疲れ果て眠ってしまうまで続いた。


「あれ……? 雪乃、今何時?」

「4時過ぎたくらい」

「あー、もうそんな時間か……」

 外は日が若干傾き始め、青とオレンジの狭間で揺らめいでいる。

 起き上がらなければ、と思うが体が重く起き上がれない。

 体に蓄積された疲労は私の思った以上だ。

 私は起き上がることを諦め、ゴロンと横を向く。

「結構寝てたね、菜々。寝顔、子供みたいで可愛かったよ」

 裸の雪乃がいじらしい笑みを浮かべ、私の頭を撫でた。

「私も雪乃の寝顔見たかったなぁ」

「それはまた今度ね」

「今度って……また、するの?」

「菜々はしたくないの?」

「……したい。あ、けど次は学校さぼるのは無し! ちゃんと学校に間に合うようにするの!」

「菜々はそれで満足できるのかなぁ?」

「……自信ないけど」

「ふふ、やっぱり」

 お互いに笑いあう。この時間が幸せだ。

 永遠に続けとさえ思える。

 だがそんな願いも届かない。

「ただいま。雪乃、帰ったわよ。あら、お友達が来てるの?」

 玄関から声が聞こえた。雪乃のお母さんだ。

「うわっ! ママ帰ってきた! ど、どうしよ!?」

「とりあえず服着なくちゃ!」

「あたし髪ぼさぼさ!」

「そんなことよりまず服!」

「部屋変な臭いしないかな!?」

「じゃあ窓開けるから!」

 母親の足音がだんだんと近づいてくる。

 私たちは慌てて身支度を整え、勉強するふりをした。

「あら、勉強してたの。ごめんなさいね。あ、そっちの子は菜々ちゃんね。雪乃がよく話してるわ、仲良くしてくれてありがとうね」

「いえいえ、こちらこそ。仕事を紹介してもらってありがとうございます」

「ママ! あたしたち勉強してるから邪魔しないでよ」

「ごめんね。あ、ケーキ買ってきたから食べるなら降りてきてね」

「わかったー」

 と、会話をして母親は去っていく。

 足音が遠ざかったのを確認して、私たちははぁ、と溜め息を吐いた。

「やばかったぁ……ママにばれるかと思ったよ」

「私も……」

「あー、焦りすぎてパンツ履き忘れてた」

「ははは! そんなことある?」

 なんて笑いあっていると、私のスマホが鳴る。母親からSNSが届いていた。

 着信履歴も何度かお母さんから連絡がきていたことを知らせている。

「お母さんからだ。帰って来いってさ」

「それは帰った方がいいよ。お母さん怒らないうちにさ」

「そだね。じゃあまたね、雪乃」

 別れ際、今度は私からキスをする。

「今までのお返しってことで。じゃあね」

「もう……そういうことできるようになって、ずるいよ」

 そんな雪乃の声を聞きながら私は家路についた。


「ただいま」

「遅いよ、姉ちゃん。早くこっち手伝ってくれよ。重いんだから」

 帰ってくるなり重たそうに段ボールを運ぶ直樹に怒られた。

 玄関には段ボールが4箱ほど積まれている。

「そんなに段ボール持って、何してるの?」

「は? 母さんから聞いてないの? 引っ越しだよ、引っ越し」

「引っ越し!?」

 私は急いで靴を脱ぎ捨てお母さんの元へ。

 お母さんはリビングでゴミ袋片手に棚の中のモノを片付けている。

「お、お母さん!」

「あら、お帰り、菜々ちゃん。もう、遅くなるならちゃんと連絡しなさいよ」

「ごめん……って違う! お母さん、引っ越しってどういうこと!?」

「おじいちゃんから連絡があってね、帰ってきてもいいって。おじさんがいろいろ言ってくれたみたいなの。それに、今までお父さんがずっとおじいちゃんのところに通って頭下げてくれてたみたいで……」

 おじいちゃんが今まで絶縁となっていた私たち家族を引き取ってくれる。

 おじいちゃんはお金持ちらしく、その家で暮らすとなれば私たち家族がお金に困ることはないだろう。

 しかし素直に喜ぶことはできない。雪乃と離れ離れにならなければいけないからだ。

「えっと……おじいちゃんの家って九州のほうだったっけ……?」

「そうよ。だからこっちのお友達とは簡単に会えなくなるかもしれないけど……向こうでも友達はできるわよ。菜々ちゃんいい子だもの」

「私だけこっちに残るってのは……」

「ダメよ。まだ高校生なんだし一人暮らしなんて。お友達の家に住ませてもらうってのもダメよ。人様に迷惑かけちゃうでしょ」

「うぐぐ……」

「それにおじいちゃんが菜々ちゃんに会わせたい人がいるって」

 どうやらこちらに残ることはできないようだ。

「あと1週間で引っ越しだから、菜々ちゃんも荷物まとめておいてね」

「1週間!?」

「そう。なんかね、おじいちゃんがその人ともう予定たてちゃってるみたいで、遅れないようにって」

「なんて勝手な……」

 おじいちゃんが私に会わせたい人とはいったい誰なのか。想像すればすぐにわかる。

 いまだ許婚がどうこうで絶縁してくるような人だ、きっと私の許婚相手だろう。

 いまさらおじいちゃんが戻って来いと言っているのは多分そういうことに違いない。

「ごめんね、菜々ちゃん。でもおじいちゃんのところにいたら何の心配もなく進学もできるの。菜々ちゃんの将来のことを考えてなんだよ?」

「……わかった。お母さんが言うなら、仕方ないよね」

 そうだ、お母さんは私の幸せのために言っている。

 将来の私が大学を出てちゃんとした大人になれるように気にしてくれているのだ。

 雪乃と一緒にいたいけれど、私を育ててくれたお母さんの期待を裏切りたくない。

「本当にごめんね、菜々ちゃん」

「いいよ、私は別に。うん、大丈夫だから」

 自分に言い聞かせるように私は呟いた。


 雪乃にお別れを言わなければならない。しかしテスト期間中はきっかけが作れず話せない。

それに話ができても別れを言う勇気もない。

 別れを切り出すのは告白よりも困難だ。

 遠距離恋愛も考えたが、会えない時間が辛いし何より私はおじいちゃんの決めた相手と結婚させられてしまう。

 それなのに恋愛など、それも女の子同士と知れればおじいちゃんが許さないだろう。また家族が絶縁されてしてしまうのは嫌だ。

 結局言い出せないまま、明日が引越しの日となってしまった。

「ねぇ、菜々。この景色、変わった?」

 テストが終わり、私たちは久々に屋上に来ていた。

 冬の晴れ空はやけに真っ青に澄み切っている。吸い込まれるみたいだ。

 雪乃はぐるりと1回転し、ここからの景色を見ている。

 私も辺りを見渡し、白い息を吐く。

「変わったかも。前は小さくてちっぽけだなって思ってたけど、今は大きくて、キラキラしてる」

「へぇ、なんで?」

「思い出が増えたからかなぁ。この街のどこもかしこも雪乃との思い出の場所だもん。あの銭湯もそうだし、学校帰り一緒に通った道も、全部全部が思い出」

「でも全部思い出って言うにはまだまだ小さすぎるかもね。もっともっと遠くまで行ってさ、思い出もっと作ろうよ。それで世界中をキラキラの思い出だらけにしよ?」

 明日には彼女とはお別れなのだ。そんなことできるわけがない。

 だから私はそれには返事をせず、質問する。

「雪乃はどう? まだこの街は大きいの?」

「うん、大きいよ。まだまだ行ったことない場所も多いしさ。それにこの街にはいろんな人がいるでしょ? そんな大勢の中の一人なんだって思うと街がもっと大きく見えるの」

「そっか……」

 この街にはいろんな人がいる。そんな中で私は雪乃と出会え、好きになれた。

 それはとても幸運で幸福なことではないのか。それも奇跡に近いくらいの。

「ねぇ、菜々」

「何、雪乃」

「あたし、赤ちゃん堕ろすことに決めたの」

 雪乃は申し訳なさそうに自分のお腹をさする。

 その中に宿った命を消してしまう選択をするのに、彼女はどれだけ悩んだのだろうか。

 彼女の表情からその深さは読み取れなかった。

「そうなんだ……」

 私は彼女の決断に口出しできない。

 本当にそれでいいのか、なんてことも言わない。

 それは悩みに悩んで出した決断への冒涜になるから。

「あたしはデザイナーになりたい。専門の学校に進んで勉強したい。だからこの子は産めない。ママがね、自分の未来を大事にしなさいって言ったの。選択できるのは一つだけで、後戻りはできないって。だからあたしは夢を諦めて後悔したくないの。ほんと、赤ちゃんにはごめんなさいだけど……」

「雪乃らしいね」

「それでね、明日病院にいくの。その後にこの前の返事をするから、放課後ここで待っていてほしい」

「明日……」

 明日の私はここには来られない。

 言うならこのタイミングしかない。

「ゆき」

 私の言葉と重なるように彼女が言い、告げたかった言葉がかき消される。

「菜々。手を握ってほしい。あたし、怖いの」

 雪乃が震える手を差し出して言う。

「堕ろすって決めたのに、それが正解じゃない気がしてたまらないの……あたしがこの子を殺すの……不安で怖くて、たまらないよ」

 私はギュッと彼女の手を握った。

 震え、縮こまった手をしっかりと握りしめる。大丈夫とでも言うみたいに。

「ありがとう、菜々……ずっと離さないでね?」

「今だけはずっと、離さないから……」

 雪乃が今欲しているのは安心だ。

 さらに不安にさせるようなことを言えるはずがない。

 太陽が沈み、夜になればもう彼女とはお別れだ。

「バイバイ、菜々。また明日」

「うん、また明日ね、雪乃」

 別れの言葉はいつも通り。

 それが彼女を傷付けない最適解で、私の誤った選択だ。


 そして翌日の放課後、私は屋上へ行く。もしかしたらもう既に雪乃がいるかもしれないと思ったからだ。

 しかし彼女はいない。

 私はくるりと踵を返し、お母さんたちが待つ駅へ行き、おじいちゃんの家へと向かう。

 その日は憎らしいほどに晴れ渡る青空だった。

 太陽が落ちてくるのではないか、と思えるくらい近かったのを私はこの先も忘れない。


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