第3話―普通じゃない女の子―

「菜々。ほら、あったかいココア。これ飲んでゆっくりしよう?」

 保健室のベッドの上、そこに座る私に佳織が缶のココアを差し出してきた。

 手を伸ばしてそれを受け取る。じんわりと温かい。彼女の心のようだ。

「ありがと、佳織……」

 プルタブを開けココアを喉に流し込む。チョコレートの溶けるような甘さが口に広がり、喉奥へ消えていく。

 暖かなそれを飲み、私の心は少し落ち着いた。

「どう? ちょっとは落ち着いた?」

「うん、大丈夫」

「そっか」

 彼女はそう言うと私の隣に座る。

 ただ座っただけ。彼女は何も言わなかった。

「何も聞かないの?」

 尋ねると彼女は首を横に振った。

「菜々が話したくなったらでいいよ。話したくないっていうなら、私は何も聞かない。もし話したいってなっても、私は何も言わない。菜々の全部を受け入れるから」

「そう……でも、どこから話していいかわかんないや。何か質問して? それをきっかけにして話せるかも」

 佳織は少し首を捻り、口を開く。

「直球で聞くけどさ、菜々はいつから女の子が好きだったの?」

 彼女の瞳が私を捉えた。私のことをすべて受け入れる、と覚悟をした目だ。

 だから私は彼女の覚悟を利用して話す。自分が今まで隠していた心の内を。

 誰にも知られたくない、けれど隠し切れないほど膨れ上がった思いを。

「私は別に女の子が好きってわけじゃないの。クラスの女の子を見ても、佳織といても、ドキドキしない。ただ、好きになったのが雪乃ちゃんだっただけ」

「雪乃ちゃん、か……あの子のことそんな風に呼ぶってことは、結構仲良くなったの? きっかけは?」

 私は雪乃ちゃんのことを佳織に話す。

 二人だけの練習のことも、彼女に話した。

私に真剣に寄り添ってくれる佳織に隠し事をしたくなかったし、彼女はそれを聞いても私を嫌いになったりしない。そんな自信があったから。

「そっか……あの子とそんなことも……」

「うん……でもこれだけはわかって。エッチなことされたから好きになったんじゃないって」

「もちろんわかってるよ。菜々はそんなことで人を好きになれる子じゃないって知ってるから。私たち、どれだけ一緒にいると思ってるの?」

「はは、そうだね」

 私は小さく笑った。そんな私を見て彼女はほっと胸を撫で下ろす。

「よかった。菜々、笑ってくれた」

「なんか、話したらちょっとすっきりしたかも。ありがとう」

 このありがとうは、今まで佳織と過ごした中で一番の感謝だ。

 私を受け入れてくれた彼女への最大の感謝なのだ。

 けれど彼女は私の言葉にバツの悪そうな顔で返す。

「ありがとうなんて、そんな……私はそんなこと言われる資格はないよ」

「どうして?」

「だってもとはと言えば私がエンコーなら稼げるかもって言っちゃったからさ……それがなければ菜々がこんな辛い思い」

「やめて」

 佳織の言葉を遮って私は言った。

「たとえ佳織でも、それだけは許さない。確かに今は辛いかもしれない。けど、雪乃ちゃんを好きになった私を、そうなったきっかけを否定するのは許さないよ」

「そうだね、ごめん」

 佳織は微笑んで見せた。けれどその笑みが無理して繕ったものだと言うことはバレバレだ。

「……あのさ」

 彼女は繕った笑顔でさらに尋ねる。

「この先どうするつもりなの? まだ、七海さんのこと好きでい続けるの?」

「この先、か……」

 私は考える。雪乃ちゃんへの気持ちを押し殺し、諦めてしまうことは簡単だ。私が我慢すればいい。

 けれど私の奥底に根付いたお父さんの言葉がそうさせない。

「私は貫くよ。この気持ちを。たとえ、間違っていても」

「ま、菜々はそうだよね」

 そう、お父さんが言っていた。信念を貫け、と。

 今や遺言と化したその言葉を実行するときだ。

「だって私は諦めきれないんだもん。雪乃ちゃんの笑い声も、意地悪くにやけた顔も、声も肌も指も何もかも! 目を瞑るだけで思い浮かぶの、私の中に雪乃ちゃんがいるの。もう、どうしようもないくらい雪乃ちゃんが好きなんだもん! レズと言われても構わないくらいに!」

「私は菜々を応援するよ。頑張れ」

「うん!」

 私はもう一度雪乃ちゃんと向かい合うべく立ち上がる。

 自分の思いに従え。

 そう自分に言い聞かせながら教室へ向かう。

 その足取りは今までと違う。今まで何となく踏んでいた廊下を、今は強く強く踏みしめている。

 まるで大地に根を張った植物のように強くだ。

「大丈夫。私は、思いを貫くから」

 自分に言い聞かせて教室の扉を開いた。

 その瞬間ノイズのように鼓膜をかき乱すクラスメイトの声。

「レズだ」

「本当に女の子が好きなの?」

「付き合ってるって?」

「女同士でキスとかきもいな」

 うるさい。

 体が震える。今まで覚悟していても、辛いものは辛いのだ。

 消えてしまいたい。私は瞳を閉じた。

「……雪乃ちゃん」

 彼女の姿が脳裏に映る。彼女とまた話したい。

 私はギュッと拳を握り、目を開いた。その目で雪乃ちゃんを探す。

 いた。彼女は自分の席で机に突っ伏していた。その表情は見えない。

 私は一歩、また一歩雪乃ちゃんに近づく。

 私の気配を感じたのだろうか。雪乃ちゃんが顔を上げた。

 その顔に、私はぎょっとした。何せ彼女の顔には、青あざがあったから。それも3つ4つも。転んだりしてできる数とは違った。

 絶対に何かよからぬことがあったのだ。

「……っ」

 それを見た瞬間、私の足は止まった。彼女になんて声をかけるべきか、そもそも今声をかけていいのか迷ったからだ。

 私の一瞬の迷いのうちに彼女は席を立ち、こちらへ歩いてくる。

「雪乃ちゃん」

 私は言った。彼女の呼んで欲しがっていた名を。

 しかし彼女は私の横をするりと通り抜けた。

「あんたのせいよ」

 そう冷たく言い放って。


 雪乃ちゃんがなぜあんなことを言ったのか。その理由はすぐにわかった。

「雪乃の奴、俺に隠れてこそこそしてると思ったら女といちゃついてたなんてな。だからその罰だ。殴りつけてやったよ。そしたらあいつ泣きながら言うんだぜ、あの女が勝手に付きまとってきただけ。無理やりキスされたってな」

 雪乃ちゃんの彼氏の風野が自慢でもするかのように言いふらしていたのを聞いたからだ。

「私は雪乃ちゃんにとって迷惑でしかないのかも」

「菜々……」

 放課後、久々の佳織との帰り道で私は言う。

「私が信念を貫こうとしても、雪乃ちゃんを傷付けるだけだって」

 青あざが浮かんだ雪乃ちゃんの顔が脳裏に浮かんだ。

 いつもの勝ち気で小悪魔的な笑顔を浮かべる彼女とはまるで別人だった。

「菜々はそれでいいの? 諦められるの?」

「諦めるとかそういう次元の問題じゃないんだって気付いたんだ。私が好きって気持ちを貫いて雪乃ちゃんといると、雪乃ちゃんが幸せになれないんだよ」

 溜め息を吐き、言葉を続ける。

「雪乃ちゃんは私といたから風野に殴られた。これ以上私といると雪乃ちゃんまでみんなにレズって言われてバカにされる。それにもし、もしもだよ。私の気持ちが通じて付き合うことになってもさ、女の子同士はおかしいって世界が許さない。だから結局待っているのは最悪の未来なんだよ」

 私はただ雪乃ちゃんが好きなだけなのに、世界がそれを阻害する。私はおかしな子だとみんなが言っている。

 ならば私は、雪乃ちゃんが幸せになれる未来を選ぶまでだ。そのために身を引こう。私は我慢できるのだから。

「女の子同士で好きになっても許される未来が来るかもしれない。それまで待ってたらどう?」

「そんな来るかどうかもわからない未来をなんで待たなくちゃいけないの? そんなこと待ってる間に私、死んじゃいそうだよ」

「ほんとに、諦められるの?」

 佳織が足を止め、そう言った。

 私も歩みを止めて振り返る。彼女の悲しげな瞳に私が映っていた。

「諦めていいの?」

「諦めなくちゃいけないの」

「ほんとにその選択肢しかないの?」

「そもそも選択肢なんてない」

「そんなの菜々らしくない!」

「ねぇ、佳織……そもそも私らしいって、何?」

 そう、信念を貫こうとしたのは私の意志ではない。お父さんの言葉に縛られた、むしろ呪いと言ってもいい。

 本当の私の意志は、雪乃ちゃんの幸せを願うこと。それ以外ない。

「私は諦めるの……それしかないの……なのに、なのになんで……なんでこんなに悲しいの!」

 気が付けば目頭が熱くなり、頬に水滴が伝っていた。

 泣いてしまった。私は佳織から顔を背け、瞳を拭った。

「ごめん。今日は何も考えたくない……先に、帰るから」

 私はそのまま歩く。

 佳織を置いてたった一人で、歩いていく。

 こんな日に限って、待ち行く人はみな私と逆方向へ進んでいく。

 私だけがおかしい、私だけが違う道を歩んでいる。世界がそう思い込むように仕組んだと思えてしまうくらいに。


 そこから一週間が経過した。気温はさらにぐっと下がり、本格的な冬の訪れがやってきていた。

 その間私は雪乃ちゃんと話せずにいる。いや、それどころか近付けないし、目も合わせてくれない。

 彼女のほうから避けているみたいに。

 一方雪乃ちゃんの顔のアザはなくなり、元通りの可愛らしい顔に戻っていた。風野との関係も元に戻り、常にイチャイチャとしている。

 どうして雪乃ちゃんの隣にいるのが、私ではないのだろうか。

「はぁ……なんで……なんで諦めようとしてるのに……私の身体はこんなに熱いの……」

 最近の私は夜な夜な、眠れずに過ごしていた。

 体が雪乃ちゃんを求めて火照るのだ。

 彼女に教え込まれてしまった快感を身体が欲しがっている。しかし彼女と私はもう何もない。

 まだ雪乃ちゃんに返せずにいたハンカチに付いた彼女の残り香を嗅ぎ、自身の指を使っても慰められない。

 自分ではどうしようもできない熱くなる身体をただただ持て余し、浅い眠りにつくことがクセになってしまっていた。

 そのせいで授業中もたまらなく眠たく、何度か居眠りをしてしまう。

「どうにかしないと……」

 そうだ、どうにかしないと私の身体が限界だ。

 放課後、自分でも制御できない足をふらつかせ歩く。いったい私の足はどこへ向かっているのだろうか。

 ぐらりと揺れた頭で辺りを見渡すと、少し先に雪乃ちゃんがいた。

 彼女はどこかへ向かって歩いている。私の足も無意識に彼女を追いかけていた。

「もう雪乃ちゃんとは関わっちゃダメなのに……」

 頭ではわかっていても体は正直だ。私の足はどんどん雪乃ちゃんを追いかける。

 彼女は大通りに出て、駅へ。そしてかつて待ち合わせをした駅前公園で止まった。

 私は見つからないようにこっそり物陰から彼女を眺める。

 時刻は17時を過ぎた頃。空は暗く淀み始め、街頭の明かりが次々と点灯していく。

 雪乃ちゃんは誰かと待ち合わせをしているのだろうか、しきりに時計を見ていた。

 それから10分ほど後のことだ。一人の男が雪乃ちゃんに声をかけた。

 男は30~40代くらいのスーツのサラリーマン。彼女のお父さんだろうか、と考えたが男の態度がどこか他人行儀だ。

 男は雪乃ちゃんと少し会話を交わすと、財布からお札を出して彼女に手渡した。

 雪乃ちゃんはそれをさっと数えるとぞんざいにポケットの奥へ捻じ込む。

「雪乃ちゃん、もしかしてエンコーを……?」

 私の背に寒いものが走った。噂では聞いていたが実際に雪乃ちゃんはエンコーをしている。

 その事実にどうしようもない不快感を覚えた。

 雪乃ちゃんは男と腕を組み、歩き出す。彼女の行き先はきっとホテル街だ。

 今から雪乃ちゃんが知らない男とエッチをする、そう考えただけで吐きそうになる。

 今度は自分の意志で雪乃ちゃんを追いかけた。

「雪乃ちゃん……ダメ……」

 どうして私はそんなことを思ったのだろうか。彼女を追いかけながら考える。

 私だってエンコーしようとした。なのになぜ雪乃ちゃんがエンコーするのは許せないのだろうか。

「そっか……私、雪乃ちゃんを独占したかったんだ」

 雪乃ちゃんがエッチする相手は私だけじゃないとダメ。私以外とエッチしてほしくない。

 そんな嫉妬の入り混じった独占欲が私を突き動かしていたのだ。

「やっぱりどうあがいても雪乃ちゃんを諦められないよ……」

 何もせずに諦めることはできない。私は雪乃ちゃんと話がしたい。

 そう考えた時には既に雪乃ちゃんはラブホテルの中だ。私は急いで中に入る。

 フロントでカギを受け取った雪乃ちゃんはエレベーターに乗ってしまった。

「行き先は……3階!」

 私は階段を駆け上がった。今までの人生で一番と思えるくらいの速さで。

 一気に2段も飛ばして階段を駆ける。間に合え、その一心で。

「3階! 雪乃ちゃん!」

 廊下に飛び出して私は叫んだ。

 すると部屋に入ろうとしていた雪乃ちゃんがビクリ、と肩を震わせこちらを向いた。

 驚いた表情を浮かべて彼女は固まっている。

 チャンスは今しかない。

 私は足が千切れるくらい全力で駆け、雪乃ちゃんの元へ。

「雪乃ちゃん!」

 扉の側に立つ男を突き飛ばし、雪乃ちゃんと共に部屋の中へ滑り込む。そしてカギをかけた。

「おい! ガキ! なにやってる!? 開けろ! おい!」

 男がバンバンと扉を叩いているが、そんなことどうでもいい。

 私は雪乃ちゃんを見た。

 驚いたままの表情が次第に怒りに変わっていく。

「どうしてここに来たの!? もしかしてあたしの邪魔でもしに来たの!? あたしへの嫌がらせ!?」

「違うよ……私はただ」

「おいクソガキ! こんなことやっていいのか? お前ら未成年だろ? こんな事学校にばれたらどうなるかわかってるよなぁ!? 俺の身も危ないが、お前らも破滅だぜ?」

 壁越しの男が私たちの会話を邪魔する。どうでもいい奴が私たちの邪魔をしないでほしい。

「うるさい! 私たちは取り込み中なの! 帰って!」

 私は扉を開け、男に怒鳴る。

「雪乃ちゃん、お金!」

 雪乃ちゃんがポケットに入れたお金を奪い、ぐちゃぐちゃに丸めて男に投げつける。

 私の財布からも1万取り出し、これも丸めて投げつけてやった。

「これでいいでしょ? うるさいから帰って!」

 そうして扉を閉める。男はそれ以降何も言ってこない。帰ったのだろう。

 私は改めて雪乃ちゃんと向かい合った。

 怒りのこもった彼女の視線が痛い。けれど私はそれを受け入れなければならない。

 それを受けたうえで、私は雪乃ちゃんと話さなければいけないのだ。

「ねぇ? なんで邪魔するの? あたしがエンコーしようと自由でしょ?」

「確かに自由かもしれない。けど、それで傷付く人がいるの、やめてほしいって思ってる人がいるの」

 私の言葉を彼女は鼻で笑った。

「は? 誰が? あいにくパパもママもあたしには全然興味ないの。あたしが髪染めたって、エンコーしたって、まるで興味ない。ずっと仕事仕事で構ってもくれない。だからあたしがエンコーして傷付く人なんていない」

 私に言葉を挟む間も与えず、彼女は怒り混じりに言う。

「逆にエンコーしたら涼太が喜んでくれる。涼太はすごいねって褒めてくれる。今日だってこれでお金もらって涼太の誕生日プレゼント買ってあげる予定だったの! ブランド物の財布欲しいって言ってたから!」

「そんなの、ただの金づるじゃん……」

「なに? 涼太はあたしを必要としてくれてるの! あたしは涼太のためならなんだってできるんだから!」

 そんなこと間違っている、私は思い浮かんだ言葉をとっさに飲み込んだ。

 彼女は両親からも構ってもらえずに寂しかった。たとえ金づるでも風野が必要としたなら、雪乃ちゃんはなんでもする。

 雪乃ちゃんは私と同じだ。私も家族にお金が必要だから、なんだってする。

 それが間違っていたとしても、やめられないのだ。

「そっか……でもね、傷付く人はちゃんといる」

「だから誰よ、そんな人」

 ぶっきらぼうに言う雪乃ちゃんの瞳をまっすぐ見据えて、私は言う。

「私だよ、雪乃ちゃん。私が、傷付くの」

「なんで、あんたが……」

「だってね、私……」

 一呼吸おいて、言った。

「雪乃ちゃんが好きだから」

 私の言葉を受け取った雪乃ちゃんは顔を伏せた。表情は読み取れないが、その肩は小さく震えている。

「なんでよ……」

 弱々しく彼女は言った。

「なんで、あたしのことまだ好きなの……」

「諦めきれないから。私はやっぱり、雪乃ちゃんが好きなの」

「あたし、あんたに酷いこと言ったし、わざと無視したり目を合わせなかったりした。あたしのこと嫌いになるようにしたのに、なんでまだ好きなの!?」

 いつの間にか彼女の口調は叫ぶように荒々しくなっていた。

「あたしのこと、嫌いになってよ! なんで嫌いにならないの!? どうしたら嫌いになるのよ!」

「どうしたって、嫌いになんてなれないよ」

 私は一歩彼女に近付いた。しかし彼女は一歩後退る。

 まるで永遠に反発しあう磁石の同じ極のように。

「あたしはあんたが嫌い! あたしはレズじゃないもの!」

「私は雪乃ちゃんが好きだよ。私だってレズじゃない。たまたま好きになったのが女の子だっただけ」

 一歩近付く。一歩遠ざかる。

「それがレズっていうのよ! 気持ち悪いから来ないで! 嫌いなの!」

「それは本気で言ってるの? 本気で言ってるなら、なんで泣いてるの?」

 彼女は涙を流して後退る。

 ポタリ、と床に落ちた涙の染みを私が踏む。

「あたしはとにかくあんたが嫌いなの!」

「私はとにかく雪乃ちゃんが好きなの」

 後退った雪乃ちゃんが背後のベッドに躓き背中から倒れこんだ。

 私は彼女に覆い被さるようにしてベッドに乗る。

 ぎしり、と二人分の重みでベッドが軋む。

「なんでこんなに嫌いって言ってるのに、嫌いになってくれないの!?」

「嫌いになろうとしてもなれないから」

「嫌いになってくれなきゃダメなの……嫌いになってくれなきゃ涼太が……」

「え?」

 なぜここで風野の名前が出てくるのだ。たとえ雪乃ちゃんの彼氏でも私とは関係ないはず。

私は問い詰めるように雪乃ちゃんに近付く。

「なんで風野が関係あるの?」

「涼太が、あたしとあんたのレズエッチを見せろって……そのあと3Pだって……そんなの嫌だよ……たとえ涼太の頼みでも、絶対に嫌。菜々ちゃんを傷付けられたくないの!」

「……雪乃ちゃん」

「だからあたしは菜々ちゃんと何もないことにしなくちゃいけないの! たとえ涼太に殴られても、菜々ちゃんがあたしのこと嫌いになっても、大事な菜々ちゃんを守りたかったの!」

 彼女は瞳を真っ赤に腫らして叫んだ。私の心を突き刺すように。

 その言葉は十分心の奥へと突き刺さった。だが傷口から漏れるのは彼女を嫌いになる気持ちではない。

 もっともっと好きになる気持ちだ。

「じゃあ雪乃ちゃんは私を守ってくれてたの?」

 こくり、と彼女は頷いた。

「だってあたしは菜々ちゃんが好きだから。あたしの好きは菜々ちゃんがあたしを好きって気持ちと違う。ラブじゃなくてライク。けど、菜々ちゃんが嫌な目に合うのは我慢できなかったし、正直菜々ちゃんにエンコーなんてさせたくないって思ってた」

「え……?」

「練習とか言ってムチャクチャにして、いつか諦めてくれるって考えてたのに、菜々ちゃんってばどんどんエッチにハマっていくんだもん……あたしが思った以上に菜々ちゃんってエッチなんだから」

 雪乃ちゃんの顔にいつもの小悪魔的な笑みが戻ってきた。

しかしそれも一瞬。次にはまた悲しそうな顔に逆戻りだ。

「だからね、菜々ちゃん。あたしのこと、嫌いになって。あたしを好きにならないで」

 そんな顔しないでほしい。私が好きなのはそんな顔じゃない。

「雪乃ちゃん……なら」

 私は決断する。雪乃ちゃんが傷付かなくて済む選択肢を。

 それで私の思いが失われても、私はその道を選ぶ。

「私たち、友達になりましょう」

「え……? 友達?」

「そう、友達。友達だから今までみたいなエッチなことは無し。私は雪乃ちゃんを好きにならない。けど、嫌いにもならない。だって、ただの友達だから」

 雪乃ちゃんの頬に雫が伝った。

 しかしそれは彼女のモノではない。私のモノだ。

「ねぇ、雪乃ちゃん……友達に、なろう?」

 零れ落ちていく。私から彼女への愛が。

 彼女の指が私の目頭を拭う。そしてにこりと笑った。

「わかった。友達になろう。ただの友達にね、菜々」

「ありがとう……雪乃」

 こうして私たちはただの友達になった。

 笑んだ彼女の瞳には、同じく笑んだ私の顔がくっきりと映りこんでいた。

「そうだ、菜々。一ついい?」

「なに?」

「ただの友達なら、この体勢はまずいんじゃない? これじゃあ我慢できなくてベッドに押し倒したみたいにならない?」

「……はは、確かに。ただの友達なら絶対にしないよね」

 私はさっと身を避けて雪乃から離れた。

 鼻孔に雪乃の残り香があるが、ただの友達ならそれは楽しまないのが普通だ。

 私はベッド脇のティッシュを取り、鼻をかむふりをしてそれを外に押し出す。

「うわっ……菜々、汚いよ?」

「うるさい……ちょっと泣きすぎちゃっただけ」

「あー、あたしも泣いて鼻水出ちゃってるかも。ティッシュちょうだい」

 雪乃にティッシュを渡して、私ももう一枚ティッシュを取る。

 二人してチーン、と鼻をかむ姿は間抜けそのものだ。

 私たちはティッシュをゴミ箱に捨て、笑いあう。

 今までの涙を無理やり笑顔に変えるように。

「そうだ。友達ならこんなところにずっといちゃまずいよね」

「だね。私、先に出るから。一緒に出るところ見られたらダメだからね」

「うん、あたしたちが普通の友達じゃないって思われちゃう」

 私は扉を開けて、廊下を歩いた。

 先に外に出たのは誰かに見られたくないからではない。

 笑顔に変えられなかった涙を雪乃にばれないようにするためだ。

「うぅ……私の恋……終わっちゃったぁ……」

 ただの友達、それも女の子同士に恋心は生まれない。

 そう、私たちは普通の友達なのだ。

 私も普通にならなければ。

「明日から普通になるから……今日だけは……泣かせて……」

 夜の街は昼とは違い、がっつりと冷え込んでいる。

 それどころかひゅるり、と冬の訪れを報せる風も吹いていた。

 私の涙は風にさらわれ、夜のネオンの中へと消えていく。

 涙は今夜に置いていこう。空に浮かぶ満月に私はそう誓った。


 翌日、空気はさらに冷たく乾いたものに変わっていた。

 通学路を歩く生徒たちは寒そうに背中を丸めている。

 私も寒さに耐えきれず、少し早いがマフラーを巻いてきた。

 が、寒いものは寒い。はぁ、と吐いた息が白く色づき、消える。

「おはよう、菜々。寒いね、今日も」

「あ、佳織。おはよう」

 佳織はマフラーにさらに手袋をしていた。佳織は昔から寒がりだったな、と思い出す。

「あれ? 菜々……」

「え? 何?」

 佳織が私の顔をじっと覗き込んでくる。

 顔に何かついているのだろうか。朝食はピザトースト、もしかしたら口の周りにケチャップが付いたままだったのかもしれない。

 親指で唇を拭ったが何も付いていない。

「あ、違う違う。菜々の顔、なんか前よりすっきりしてるなぁって。悩みが解決したような、そんな感じ」

「そっちね。まぁ解決したっていえば、解決したかな」

「七海さんのこと?」

 私は頷いた。佳織はそう、と嬉しそうに呟く。

「解決したなら何より。あ、それはそうとさ、あの写真、出所を調べてみたんだけど」

 佳織が言う写真とは私と雪乃がキスをしているものだ。

 彼女は個人的に写真がどこから出回ったか調べてくれていたのだ。

「SNSでクラス中にばらまかれたってところまでしか追えなかったよ。みんな個人でチェーンメールさながらのやり取りしてて、辿ろうとしてもどこが根っこかわからないの」

「う~ん……私にも佳織にも回ってきてないってなると私の周りの人以外に回すようにってことだよね?」

「そう言うことだけど、そもそも写真をばらまく目的って何だろうって思い始めたんだ。七海さんはあんな感じだけど敵を作るっていう感じじゃないよね? どちらかといえば人を遠ざけてるって感じだし、本人もあんまり人に近寄らない。だからあの子を嫌っての行動じゃない」

 雪乃はギャルの姿をすることで周囲から浮いている。それは言い方を変えれば周りの人を遠ざけていると言うことだ。

 それに彼女は自分に関心がある相手としかつるまない。周りの人間を自分とは違うと思っているから。

「それに菜々だって周りに敵を作るタイプじゃないよね、喋らなければ」

「ま、まぁそうね……」

 以前の私の性格だと言いたいことをはっきりと言いすぎてしまうことがあった。

 それで何度かケンカしたことがあったが、今の学校ではそういう衝突を避けるために佳織意外とは極力話さないようにしている。

 話すことがあったとしても最低限の会話で済ませる。

 だから私が敵を作ることもないのだ。

「だからこれは誰かがどちらかに嫌がらせするって目的で送られたとは考えにくいの」

「意味のない嫌がらせかもしれないよ? たまたま面白い写真が撮れたから拡散してやれって思ったのかも」

「う~ん……それにしてはベストショットすぎるんだよねぇ」

 佳織は唸り、首を捻る。

「この写真、すごくキレイに撮れてるんだよ。たとえば今目の前を歩いてるあの二人がキスしたとして、その瞬間を取ろうとしたらスマホを出してアプリを開いてピントも合わせないといけない。そうこうしてるとキスが終わっちゃうかも」

「もともとアプリを立ち上げてたんじゃない?」

「なんのために? 二人でお昼を食べてただけでしょ? そんな場面でなんで写真アプリを立ち上げてるの?」

「佳織、何か変な本でも読んだ? そんなに探偵ごっこ好きだったっけ?」

 私は溜め息を吐いた。一方佳織はにへへ、と恥ずかしそうに笑っている。

「実はコナン全巻まとめ買いしちゃって……」

「そういうことだろうと思った。で、結局名探偵佳織は何が言いたいわけ?」

 こほん、とわざとらしく咳払いをし、佳織は言う。

「この写真を撮った犯人は、菜々と七海さんが密かにいろいろしていたのを知っていた。二人をこっそりと付け回して写真を撮って、何が目的かわからないけどSNSで拡散させた。こんな感じかな」

「一番肝心な目的がわかってない。名探偵失格」

「こ、これはもう少し調べなくちゃわからないから……」

「あーもう、この話は終わり。てか私、犯人とかもうどうでもいいし」

 この事件があったから雪乃への思いに気付けた。

 だからこれがもたらしたものは憎むべきことばかりだとは思わない。

 犯人は少し気になるが、それも今だけだ。きっと明日にはそんなことすら忘れている。

 私たちはそれから何気ない会話をし、学校へ到着した。

 教室に入ると、いつもの冷たさと嘲笑が混じった視線が私を襲う。

「大丈夫だよ、菜々。人の噂は何とやらだよ。すぐに無くなっちゃうから」

「……ううん、気にしてないよ」

 私は強がった言葉を吐く。雪乃との関係は変わった。

 それと同時に私の思いも封印した。だから何も気にしない。

 気にしない、と決めたはずなのに視線が痛い。

 まるで包丁の切っ先で何度も突かれているみたいだ。

「あ、菜々! おはよー!」

 そんな視線から私を守るように抱き着いてきたのは、雪乃だった。

「え!? ゆ、雪乃!?」

 辺りが一様にざわついた。

 また、レズだ、のなんだのと言葉が聞こえる。

 その言葉を聞き、雪乃はムッと顔を歪め、全員のほうを向いた。

「なに? あんたたち、あたしの友達になんか文句あるの? 言っておくけど、菜々とあたしはただの友達だから。あんたたちが期待するようなことは何もないし、これからも起きないから」

「雪乃……」

「もしあたしの友達を変な目で見るなら、あたしが許さないから」

 雪乃がクラスの全員を睨んだ。ライオンのような威圧感のある瞳だ。

 全員が委縮し、近くの友達と何でもないような会話で盛り上がるふりをする。

「ね、菜々。これで大丈夫だから。あたし、友達がバカにされるのって一番許せないの」

「ありがとう、雪乃」

「いいよ、当然のことをしただけだし。ほら、もうすぐチャイム鳴るし、席についておかないとさ」

 雪乃に促され私は席に着く。

 椅子に座り、ぎゅっと胸の前で手を握った。

 胸の奥が何だかポカポカする。今まで感じていたドキドキとは違う。優しい暖かさだ。

「これが、友達なんだ……」

 それは少し物足りなかったが、私の身体の奥底に染み込んでいった。


 私と雪乃が友達になり、さらに1週間が経過した。

「昨日テレビでやってた映画見た? 結構面白かったよね」

「あたしあれ結構見てるんだよね。レコーダーで録画してるの子供の頃ずっと見てて」

「へぇ。私初めて見たから新鮮で」

 昼休みにそんな何気ない会話をしながら廊下を歩く。

 私たちに向けられる好奇の視線はあまり減っていない。

 けれどレズ、と口に出して罵るような連中はいなくなっていた。

「そうなんだ。あ、そうだ。あの映画に出てきた服あるでしょ? あれをモチーフにしたデザイン浮かんでさ、書きあがったらまた見てもらっていい?」

「いいよ。私雪乃の絵見るの楽しいし」

 彼女との練習は無くなったが、彼女の絵を見ることはなくなっていない。

 彼女がデザインした洋服のイラストを見せてもらうことは私の楽しみになっていた。

 次はどんなデザインを書き上げるのか、胸の奥に密かにわくわくが湧き上がっている。

「あ、あの……河野さん!」

 私たちの会話に割り込むように背後から声が聞こえた。

 振り向くとほっそりとしたメガネの男子生徒がこちらを見ていた。

 頬は赤く染まり、肩が少し震えている。

 その姿にいつかの自分が重なって見え、彼が今から何を言うか予想が付いた。

「えっと……誰だっけ? 見たことあるんだけど……去年同じクラスだった……」

 私は彼のことをあまりにも知らない。だからその言葉を遮るように言う。

「なんだったっけ……」

「あ、僕、嬉野って言います。嬉野幸喜うれしのこうき

「あたし知ってる! 学校新聞書いてるよね、確か。なんか幸せそうな漢字の子が書いてるなぁって思ってたんだ」

「まぁ、嬉しい、幸せ、喜びって入ってますし……」

 嬉野君は自嘲気味に笑うが、そんな話をしているのではない、と私に向き直った。

「河野さん、突然なんですけど……僕と付き合ってください!」

 やはりか。予想を裏切らないその言葉に小さく溜め息を零す。

「嬉野君。ほんと突然だね。私たちって何か接点あったっけ?」

 記憶を思い返すが彼と深く付き合った覚えはない。

去年同じクラスだったが、名前も忘れてしまうほどだ。まったく接点がなかったと思う。

「そうですよね……僕たちは何も接点はなかった……一目惚れって言ったら、信じてくれますか?」

 メガネの奥で彼の瞳が照れくさそうに笑う。

 その瞳は私をからかおうとかそういう気配は一切ない。本当に好きと思っている瞳だ。

 私はそれをよく知っている。いつも鏡で見ていたから。

「一目惚れ、かぁ……」

「ねぇ、菜々。ちょっと。嬉野もごめんね、水差しちゃって。でも大事な話なの」

「あ、いいですよ」

 悩む私に雪乃が声をかけてきた。

 彼に聞こえないように少し離れたところで雪乃とこっそり話す。

「菜々は嬉野のことどう思ってるの?」

「どう思ってるって、正直なにも……」

「ま、そうよね。あたしも名前しか覚えてなかったし。影薄いよね、彼」

 私はチラリと嬉野君を見る。

 少しぼさっとした髪、ひょろっとした体型、顔つきもどこかパッとしない。

 はっきり言ってどこにでもいそうな根暗な奴だ。

「じゃあ断るべきだよね。私もあんまり知らないし」

 知らない、というのはただの建前だ。

 たとえ雪乃と友達になったとしても、私の雪乃への思いが完全に死んだわけではない。

 彼女といる間だけは、彼女を自分の中で一番の存在にしていたい。

 だから他の人を一番にしたくないのだ。

「でもあいつ、優しそうだよ? 絶対菜々のこと大事にしてくれる。菜々って男の子と付き合ったことないんでしょ? ならああいうおとなしそうな子と付き合ってみるのもいいんじゃない?」

「それ、本気?」

「うん、本気。それに初めては知らない男の人より自分を好きって言ってくれる子にあげたほうがよくない?」

「う~ん……」

 私は考えるふりをする。心の奥底では少し涙が流れた。

 私は雪乃を一番にしたい。けれど雪乃の中では私は一番じゃなくてもいい。

 ただの友達だからそうなのだろうけれど、やはりわかっていても少し傷付く。

「菜々の友達としての助言。別に聞いても聞かなくても菜々の自由。あたしは菜々の意思を尊重するから」

「……じゃあ」

 雪乃との会話を切り上げ、嬉野君に向き直る。

 私の真剣な瞳に応えるように、彼も私と目を合わせる。

「嬉野君、私は君の事全然知らない。正直言って、去年同じクラスだってことも今思い出したくらい」

「そっか……そうですよね……」

 嬉野君はがっくりと肩を落とす。だがそれも一瞬、次には笑顔を見せた。

 なんと強がりな笑顔なのだろうか。私はその笑みで胸が締め付けられる痛みを覚えた。

「まだ私の話は終わってないよ」

「え?」

「だから私は君のことを知りたい。君のことを知ったら好きになるかもしれない。だから……」

 私は彼に手を伸ばした。

「私に君のこと教えてほしい」

 彼の強がりな笑みが本物のそれに変わる。まるでパッと咲いたひまわりのように明るい笑みだ。

「僕も河野さんのこと知りたい。だから、一緒に頑張ろう」

 彼が私の手を握った。温かい。

 彼は決して私の一番になれない。けれどもし一番になれたのなら、私は変わるのだろうか。

 そんな興味本位の付き合いだ。

 だと言うのに、なぜ彼の温かさに安らぎを覚えてしまったのだろう。

「じゃあ河野さん、今日の放課後さっそくデートしよう? お互いのこと知るためにさ、善は急げって言うでしょ?」

「それ善って言うの? ま、いいけどさ」

 こうして私に彼氏ができた。

 まだ好きになれるかわからないけれど、私の胸はドクン、と強く脈打っていた。


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