バースデー

 底まで沈んだ私は目を覚ました。浴室の縁へ投げ出していた足をバスタブの中に戻して、立ち上がる。バスタブをまたいでそこから抜け出し、先程開けれなかった仕切りの戸を見つめる。白い出っ張りと赤い印。記憶に従って、出っ張りを下へ押した。かちりと音が響く。

 解除された仕切りを手前に引き、私は当たり前のように浴室から脱出した。そのまま真っ直ぐ居間へ向かうと、絨毯も何も敷かれていない硬い床の上に弟が寝転がっていた。いつかのように体を猫みたいに丸めて。小さく体が動いているのは、弟が生きている何よりの証拠だった。

 弟の側へと寄り、私は彼の体をゆっくりと揺する。たっぷりと時間をかけて弟の瞼が持ち上げられ、黒い瞳が私の姿を捉えた。それを見て私は静かに言う。

「おはよう、満喜生」

 弟の顔が強張り、威嚇する猫のように鋭い視線を向けられる。

「意味は?」

「喜びに満ちて生きれますように、だね」

 弟は……、いや満喜生は私から床へと視線を移した。私は立ち上がりながらベランダの向こうを見つめる。滲むような橙色はもうどこにも見当たらない。ただその代わりに紫色と青色を一体化させた夜があった。私はその夜を見つめながら言葉を紡ぐ。

「……お父さんが心配してるだろうから帰ろう」

 言うが早いか、私は玄関の方へ歩き始めようと前に一歩踏み出す。がそれ以上進めない。満喜生が私の片手を掴んでいた。満喜生はぎゅっと唇を噛み締め切々とした雰囲気を背負いながらこう言った。

「俺、絶対に謝らないから。ねえさんがどこまで思い出したか分からないけど、絶対に謝らないから」

 自分は悪くないと言っているようにすら取れる弟の言葉が、私にはどちらかといえば一つのけじめのように聞こえた。謝らない。それでそっちは謝らないこっちをどう思っても構わないとそんな風に。

 ……この解釈は私に都合が良すぎるだろうか。私は満喜生にくたびれた笑みを向ける。

「じゃあその代わりで良いから、私の謎解きに付き合ってくれない?」

「……ねえさんの勝手にすれば良いじゃないか」

 うんと私は力無く頷いて、遅れた幕を開く。

「まず私は大きな勘違いを起こしているの。それは自分が誘拐されたと思っていること。でも事実、私は誘拐された訳じゃない。だって私が閉じ込められていた場所は、お母さんと一緒に住んでいたアパートの部屋そのものだった。だから警察はこの事を誘拐事件にしなかった。当たり前よね、私は自宅に居たんだから」

 心臓の鼓動はどくどくと音を叩く。

「じゃあ、私はどうして浴室で目隠しをされて紐で縛られて、誘拐されたような状態になっていたのか。いいえもっと具体的に言うなら、そうした犯人は誰なのか」

 フーダニット――誰が犯人なのか。

 息を、ごくりと飲み込む。

「犯人は……、私のお母さんだった」

 満喜生の黒色の瞳が大きく揺らぐ。その場にある空気が静けさに満たされている。

 ハウダニット――どのように犯罪を成し遂げたのか。

「お母さんは私にこう言ってた。ミステリーごっこをしようって。私が探偵で、お母さんが犯人。だから探偵役の私は事件が起きるまで動いちゃいけない、事件が起きる瞬間を見てもいけない。だから紐で体を縛って、目隠しで視界を隠された」

「抵抗しなかった訳?」

 呆れて物が言えないというような顔で満喜生は言う。私は苦笑した。

「ごっこ遊びだったの、本当に。ただお母さんも予期出来なかった事が起こって、このミステリーごっこは本物のミステリーになった。……私にとってはだけど」

「予期出来なかった事って、」

 眉に皺を寄せる弟に頷く代わりに答えを告げる。

「私の記憶障害だよ」

 あのバスタブの中で見た暗闇が、冷たさが、お母さんが歌うあの言葉たちが私を追い込んだ。そうして台本を無くした私はものの見事に、あやふやな記憶のまま舞台を進行していたのだ。  

 ホワイダニット――何故犯行に至ったのか。

「お母さんがどうしてミステリーごっこをしようか、って言い出したのか。その理由はたぶん私よりもお父さんの方がよく知ってると思う」

「……なんでそこで父さんが出てくるのさ」

 怪訝そうな満喜生の声を受けて、私は自信なさげに返す。

「私の勝手な想像だけど、あの日私とお母さんが隠(ナバリ)の家に行ったのはそういう理由も含まれて居たからだと思う」

「……そういう理由?」

「お母さんはおばあちゃんと仲が良くなくてそれで家出したんだって言ってた。だからあの時、お母さんがお父さんに挨拶だけしに来たっていう理由は至極まっとうだってそう思ってたんだけど」

「そうじれったくする理由は勿論あるんだよね」

 いらいらとしている満喜生に答えを急かされ、私は答えを吐いた。

「……お母さんはお母さんを続けられなくなったんだよ」

 満喜生は目を瞬き、

「それと父さんがどう繋がるの」

「誘拐されたって電話をした時、お父さんは何も慌てていなかった。普通、誘拐されたなんて言ったら慌てるでしょう。なのにそれが微塵にも無かった。どうしたら誘拐されたなんて言葉に慌てないで済むのかな。私だったらあらかじめそういう電話が掛かってくるって知っていれば、慌てずに冷静にその後の事を対処できると思う。それから行方不明として、お母さんを捜す為に警察に届ける事ができたのはお父さんだけだった」

「つまりねえさんは、ねえさんのお母さんと父さんがあの蜃気楼を作って、それでその後父さんが一度は納得したけどやっぱりねえさんのお母さんを捜す為に警察にってそう言いたいの?」

「……ちょっと違うかな。作ったのはあくまでお母さんで、その後片付けをしてくれるように頼んで引き受けてくれたのがお父さんだった」

 そう、あの蜃気楼は。私が今の今まで見続けていた蜃気楼はお母さんと満喜生のお父さんが居てこそ出来る。謎を解き終えひっそりとした感覚に浸っていると、満喜生があの視線で私を捉えた。

「それでねえさんはどうするの」

 お母さんを探すのか。それともお父さんにはっきりとした理由を聞くのか。そう言っているようだった。脚本を忘れたままの私であればそのどちらかをしただろう。ううん、どちらもしたかも。

 けれども私はもう思い出してしまったのだ。誰でもない、ミステリーが好きな母の一言を。

「何もしないよ、何もしない。だって探偵は謎を解くだけだもの」

 上手に笑えているか分からない。でも探偵の役目だけは変えられなかった。満喜生はまたむすっとした表情を浮かべ、「帰るよ、ねえさん」と冷たく言い放った。

 そんな満喜生の背に私は問いを投げかける。

「ねえどうして満喜生は今日が私の誕生日だって言ったの?」

 満喜生は振り返りもせず、玄関で靴を履きながら答える。

「記憶障害で、すっからかんになってたからだよ」

 取り付く島も無い答えに私は苦笑しながら、靴を履き終えたらしい満喜生に頼んだ。

「一応、誕生日なんだよね」

「一応ね」

 投げやりに言う満喜生。

「誕生日プレゼントの代わりで良いから、また静お姉ちゃんって呼んで欲しいな」

「……おこがましいんじゃないの」

「やっぱり?」

 駄目か。そもそも今日は本当の誕生日じゃないし、満喜生が言うとおりにおこがましすぎる願いだ。「ごめんね」と言って、私も玄関に向かい靴を履く。革靴の中に足を滑り込ませ、コンクリートの床をこんこんと小さく叩く。「静お姉ちゃん」

 顔を満喜生の方へ向ける。弟はむすくれた表情をしていた。

「呼んだ、満喜生?」

「気のせいだよ、ねえさん」

「そっか」

 私はしょんぼりとしながら、満喜生が押さえていてくれた扉の外へと出た。あのバスタブの底には私が居る。ミステリーごっこに興じて、おろかにも沈んで行った私が居る。

 バスタブに沈む蜃気楼は、あの日死んだ私で出来ていた。


―― フーダニット、ハウダニット、ホワイダニット。

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浴室に沈む蜃気楼 ロセ @rose_kawata

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