名探偵
割と涼しい夏のある日、私はお母さんと一緒に散歩を楽しんでいた。涼しいとは言っても外には独特の粘っこさが充満している。その中をお母さんは真っ黒なワンピース姿で歩いていた。
「おかあさん、あつい?」
「そうでもないよ」
とお母さんが突然足を止めた。どうしたんだろうとお母さんを見上げてみれば、お母さんは何時になく難しい顔で目の前に広がっている家を見つめている。「おかあさん」と呟く。
お母さんははっとして私を見下ろし、
「静、ちょっと寄り道をしても良い?」
と訊いた。お母さんがそんな事を言い出すのも珍しくて、私は不思議に思いながらも頷いた。良かった。独り言のようにお母さんはそう漏らして、見つめていた家の呼び鈴を鳴らした。すぐさま、「どちら様ですか」という男の人の声が返って来る。お母さんはそこへ顔を近付けて、「ミキ」と自分の名前を言い顔を遠ざけた。
お母さんが自分の名前を告げて何秒も経たない内に、家の方からどたどたと騒がしい音が聞こえ始める。勢いよく玄関の戸が開いたかと思うと、やせ細った熊みたいな男の人がこちらを見て苦虫を噛み潰したような顔を浮かべていた。
「入っても良い?」
お母さんは門の柵を開けながらそう尋ねた。男の人は呆れた顔で、「断らせる気も無いくせに」と零した。くすくすとお母さんは笑いながら私を手招きし、その家の敷地内に入らせた。
それから玄関までさくさくと進み、玄関の戸に背を預けていた男の人に意地が悪い笑みを向けた。
「ごきげんうるわしゅう」
「全然、うるわしくない。何しに来たんだ」
露骨に嫌悪感を出す男の人とは違い、お母さんは余裕の笑みだった。
「安っぽいドラマと同じ対応なんて、芸が無いわね」
「うるさいよ。というか本題をすり変えないでくれ」
「……分かってるでしょ」
「言葉にしてもらえなきゃ分からない事もあるだろ」
お母さんは男の人をねめつけ、「挨拶だけしに来たの、お父さんに」と言った。男の人は眉間に皺を寄せ、「どうぞ」と家の中へ手を向けた。
私とお母さんが靴を脱いでいると、
「まっすぐ行って、左にある部屋に居てくれ」
と男の人は言い残しどこかへと消えた。脱ぎ終えた靴を揃えているお母さんに私は内緒話をするかのように、こそこそと尋ねた。
「おかあさん、あのひとはだれ?」
お母さんはうーんと苦笑いを浮かべつつ、
「おかあさんの弟……なのかな」
「おとうと」
「そういえば話して無かったね。おかあさんね、十七の時に家を出て行ったの」
「どうして?」
問いかけたお母さんは寂しそうだった。
「おかあさんは、さっきのおじさんのお母さんと仲良く出来なかったの」
お母さんは遠い目で天井を見上げながら、お母さんの写真捨てちゃったんだものと呟く。
「家を出た日の事はよく覚えてるのよ。まずおじさんのお母さんとおじさんを見送って、お父さんのお昼ごはんを作って、それからおじさんの晩ご飯を作って私は家を出たの。どうしてか分かる?」
ううんと首を横に振った私を見て、お母さんは白い歯を見せて笑う。
「いつもどおりほど混乱するものも無いからよ」
部屋に着いておじさんが持ってきてくれた冷たいお茶を飲んでいると、庭先から小さな男の子が顔を覗かせた。まあとお母さんは一声上げ、おじさんにいくつなのと尋ねた。
「今年で五歳」
「あら、じゃあ静と二つ違いね。静、お庭を見せてもらったら」
私はきょとんとしつつ男の子に顔を向けて、「あそぼう」と言う。男の子はまじまじと私を見ながらも、「いいよ」と二つ返事で了承した。玄関から靴を持って来て庭へ降り立つ。どうやら私とお母さんが来る前まで男の子は庭で絵を描いていたらしく、庭の芝生の上にはスケッチブックとクレヨンが入った箱が放置されていた。見れば、白い紙にはぐにゃぐにゃと歪んだ灰色の線で四角形がたくさん描かれている。
「これ、なあに?」
「いえのまどり」
「まどり」
まどりってなんだろうと考え込んでいる私を他所に、男の子はスケッチブックを拾い上げて空いたスペースに黒色のクレヨンで何かを一生懸命書き込んでいる。
書けた。男の子は小さくも嬉しそうな声を上げて、
「しずかおねえちゃん、みて」
と何かを書いていたスケッチブックを私に見せた。男の子が言う「まどり」の隅っこに、「満喜生」という漢字が連なっている。その文字を一瞥して、私は男の子に顔を向ける。
「それ、ぼくのなまえ」
「じょうずにかけてるね」
お世辞ではなく、本当に上手に書けていた。私はこんなに画数が多い漢字はまだ書けない。にこりと男の子は笑い、こう言い出した。
「しずかおねえちゃん、ぼくのなまえなんてよむのかあててみて」
「わたしひとりで?」
さすがに男の子も私一人では無理だと思ったのか、こんな条件をつけた。
「おとうさんはぼくのなまえをしってるから、おとうさんいがいのひととならそうだんしてもいいよ」
私はちょっと悩んで、「わかった」とこの謎解きに挑戦する事に決めた。ことわってスケッチブックを抱え、お母さんとおじさんが居る部屋へ戻る。しかし何故か、部屋に居たお母さんとおじさんは怖い顔をしていた。このまま無防備にその部屋へ入る事が躊躇われていると、お母さんが私に気づいたらしくいつもの笑顔を浮べ手を振った。
ほっと一安心して私は部屋へ行き、スケッチブックを見せるなりお母さんはびっくりした顔を浮べ言う。
「あら私と同じ漢字」
「おなじかんじ?」
「そうよ、途中までだけど」
と言いながらお母さんは半眼でおじさんを見やる。おじさんはその視線から逃れるように、明後日の方へ顔を向けた。ふうんと呟き、お母さんは改めて尋ねた。
「それでどうしたの?」
「ここにあるなまえね、あのおとこのこのなまえなの。それであててみてって」
「やだ。じゃあ私、答えを先に言っちゃったかしら。ああ、でもどこにどの振り仮名が来るかは分かんないか」
危うく無粋な事しちゃうところだった。お母さんは零しながら、
「で、どう読むのかってなんとなくの考えはある?」
「まだならってないかんじばっかりだもん」
「そうやって諦めちゃ駄目よ、静。あの子はあなたに解いて欲しくて、この謎を出してくれたんだから」
横から忍んだ笑い声が聞こえてくる。お母さんがむっとした表情で、笑わないでくれるかしらと笑った主に文句を言っている。笑った主であるおじさんは両手を上げて降参のポーズをした。
「だってもう二十年だぜ。なのにそっちは昔と全く同じような事言うからさ、変わってないなあと思うじゃないか」
おじさんは目じりに溜まった涙を拭って、
「まだミステリーは好きなの?」
「疑問符はつけなくって良いわ。一生、好きだから」
「そりゃあそりゃあ。静ちゃん聞いてくれよ。この人、七つだった俺に殺人事件が起こった家の間取りを引かせたりしてたんだよ」
また、まどり。私はお母さんに顔を向けて、「まどりって?」と呟く。
「家の地図みたいなものかしら。言っておくと、私は無理強いはさせて無いから信じて頂戴ね。静」
「よく言うよ。毎週毎週、次から次にミステリーの本を買ってくるから俺のスケッチブックとクレヨンは直ぐに無くなってたじゃないか」
「その度に新しいのは買ってあげたじゃない。クレヨンなんか結構色の種類が多かったわよ」
拗ねたような表情でお母さんは反論していたけども、楽しそうだった。そして私の存在を思い出してか、スケッチブックに書かれた三つの漢字を上から順繰りに説明して行く。
「いい? まずこの最初の漢字の読み方はマンか、ミ、ミちるね。お腹が満腹って言うでしょう? そのマンは漢字にするとこれなの。次の漢字の読み方はキか、ヨロコぶ。楽しい事があったら、わあって思うわね。その気持ちが喜ぶ。最後のは色々と読み方があるけど、一般的にはイきるのイ。変則的だとキやオって読み方も出来るわね……」
私はううんと頭を抱えた。満喜生。さっきお母さんがこの名前の途中までがお母さんの漢字と同じだと言っていた事を含めて考えると、どこかにミキという振り仮名が入るはず。それについ今しがたお母さんが聞いた説明を合わせると、そのミキが振り当てられるのは満喜という漢字にだろう。となると、読み方が分からないのは最後の生という漢字だけだ。
むうと私は一丁前に探偵面をして、三つの漢字に見入る。
満、喜、生。
はっとして、私は満を指差しながら質問する。
「おかあさん、このかんじっていっぱいっていみもある?」
「……ええ? そうね、出来るわ」
ぱあと私は笑顔で、お母さんにありがとうとお礼を言って男の子の元へと走り出した。スケッチブックを忘れずに。男の子が居た場所に行くと、あの子は芝生に寝転がっていた。体を丸めて眠る男の子の近くに寄って、「できた、できたよ」と声を掛ける。
男の子が急に瞼を開くものだから、私は驚いて体を後ろへと引いた。
「わかった?」
「なまえのよみかたはとちゅうまでならできたよ。あとね、なまえのいみがわかったよ」
「ぼくのなまえのいみ?」と男の子は上半身を起こしながら言う。髪の毛に芝の草がついている。草を取ってあげて私はうんと誇らしげに胸を張った。
「よろこびがいっぱいのなかでいきれるように、っていみだよ。きっと」
「……」
「ちがった?」
「ぼく、いみはしらない」
男の子の返答に私はがっくりと肩を下ろす。しかしそこへ「でもね」と声がかかった。
「そのいみだったらうれしい」
にいと笑って、男の子は言葉を続ける。
「ぼく、ミキオ」
「え?」
「なまえ、そうかいてミキオってよむの」
良い名前でしょう。男の子―
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