家族
じめじめとした湿っぽさに覆われた建物の一室に設置されたベッドで私は目覚めた。部屋は汚れ一つ見当たらない潔癖な白で、私が眠っていたベッドのシーツや布団からは柔らかな洗剤の香りさえしなかった。
白い服に身を包んだ人たちは目覚めた私を見て、にこやかに笑う。「やあ、静ちゃん気分はどうかな」とやけに親しげに声を掛けてくる始末だ。その人たちに警戒心を抱きながら見返していると、やせ細った熊みたいな男の人が部屋に入って来た。その人は白い服を着た人たちに頭を下げながら、小声で会話をしている。「先生、静の容態は」「体の健康面は回復いたしました。後はここです」と言って、白い服の人は自身の左胸を指で示した。貧相な熊のような男の人は唇の端をきゅっと締め、「……分かりました」と重々しく答えて白い服の人に頭を深々と下げた。その人は私のベッドの側へやって来るなり、こう言った。
「静、お父さんと一緒にお家へ帰ろうか」
その人は私のお父さんだったらしい。膝の上に置いた自分の手をしげしげと眺めた後、私はお父さんに顔を向け頷いた。お父さんは朗らかな笑みを浮かべて、
「仕度をして来るからちょっと待っててな」
と私の頭をわしゃわしゃと撫でた。豪快だった。部屋を出て行ったお父さんを待っている間、私は光に満ち溢れた外の景色を眺めながら頭の中で鳴り響く言葉を歌っていた。
「ふーだにっと、はうだにっと、ほわいだにっと……」
戻って来たお父さんと部屋を出て、建物の出入り口前に停車していたタクシーに乗った。家に到着するまでの間、お父さんは当たり障りの無い事を話していた。天気がいいなあとか、今日の晩ご飯は静が好きな物を作ろうなだとか。変に私に気を配るお父さんの姿に疑問は持っても、口に出す事はしなかった。
きっとお父さんも、自分自身の不自然さには気付いていただろうから。それでもなおしなくてはいけない事がその話たちだったのだろうから。
静、ご覧。入道雲が出てるよ。うん。私はちょっとだけはにかんだ。
家の前に停車したタクシーから降りる。と周囲を石垣で囲われた一階建ての家が目の前に広がっていた。ふと門に掲げられた表札の文字が気になってお父さんに尋ねてみる。
「ああ、これはねナバリと読むんだよ。珍しい苗字だろう」
どこかほっとしたような表情をお父さんは浮かべ、家を指した。
「この家の設計図はね、お父さんが引いたんだよ。すごいだろ」
素直にすごいと思いうんと頷くと、お父さんはにかりと笑う。青緑色の柵を引いて私を敷地へ入れ、家に誰か居るのかお父さんは帰って来たぞと言いながら戸をどんどんと叩く。やがて戸は音を立てて開かれた。戸を開けたのは私よりもいくつか下に見える男の子だった。今まで寝ていたのか、髪の毛が跳ね返っている。
彼は私とお父さんを見て、ぱあと笑う。
「おかえりなさいお父さん、静おねえちゃん!」
男の子は私を見知っている様子だけど、私は彼にちっとも見覚えが無かった。だとしても家に居て、私のお父さんの事を、彼もお父さんと呼ぶ。ならこの男の子は私の家族のはずだ。そのはずなのに、どうして私はこの子の名前が分からないんだろう。
それは家族として、あるいはきょうだいとしてひどい矛盾じゃないだろうか。その意見に賛同するかのような頭痛が私は憎らしかった。無視を決め込むだけで私にまつわる謎なんて直ぐに息を潜めるのに。
私はそれが許せなかった。
「……だれ?」
私は男の子に痛恨の一撃を与えた。無慈悲な言葉は男の子からあんなにも輝いていた笑みを一瞬で殺した。男の子は唇を一文字に結んでわなわなと肩を震わせている。その姿は間違いなく、堪えている姿だった。そして男の子にそうさせているのは紛れも無く、私だった。
男の子は黒目がちの瞳から涙を零して、家の奥へ走り去って行った。
後でお父さんから聞いた。あの男の子は私の弟だったらしい。その事実を知っても、私は彼の名前が思い出せなかった。家族なのに。
ダニット。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます