忘却エモーション

――ピピ、ピピ、ピピ。

 けたたましく鳴る電子音に重たい瞼を開くと、やけに白っぽい陽の光が私の眼に飛び込んで来た。私は手で光を避けつつ横になっていた体を起こした。と私の目元から何かが落ちた。驚いて、見ればお腹の辺りに赤い布が落ちている。

 ……なんでだろう? 

 疑問に思いながらも、更に驚いたのは何故私がバスタブの中に居るのかという事だった。しきりに首を捻っては見たけど疑問に対する明確な答えは見つからない。納得こそいかないものの、兎も角ここから出ようと私は考え立ち上がった。と同時に細い縄が私の体からすとんと下に落ちて行った。

 赤い布と細い縄がバスタブの底に溜まっている。

 私はその二つを食い入るようにして見つめながら、じわじわとした恐怖を感じていた。一刻も早くここから出たい。その一心で私はバスタブから出て、浴室の仕切りに付けられた取っ手を手前に引いた。が取っ手は前後に小さく揺れただけで、その先にある景色を見せてくれない。

 鍵が掛かっているみたい。仕切りの鍵を探していると、仕切りの真ん中に白い出っ張りが付けられ、その下には赤い印があった。なんだろうと不思議に思って、私は出っ張りを下におろしてみた。

 カチンと何かが解除された音がする。私は仕切りをまじまじと見つめ、取っ手を再び手前に引っ張った。さっきの強固さが嘘のように、仕切りはあっさりと開いた。呆然としたまま、私は浴室を抜け出した。

 進んだ先は居間だったようで、細長い本棚が真っ先に視界に入ってきた。それに何故か興味をひかれて、ひょいと覗き込む。とそこにはなんとかトガワという人が書いた本がたくさん仕舞われていた。他にもまだ本はあったけど、タイトルも書いた人の名前も難しくて読めない。

 それ以上は諦め首を動かす。するとどうだろう。象牙色をした丸い机の上に食事が乗った皿が置かれている。こんがりと焼き目がついたトースト、目玉焼き。レタスときゅうり、ハムのサラダ。トマトを煮詰めたような色のスープ。

 綺麗に並んだ料理たちは美味しそうだけども、どこか歪だ。困った顔でそれらを見ていると、メモ紙が置かれている事に気付いた。いぶかしみながらも手に取る。メモ紙は全部で数枚あった。

 まず一枚目の内容はこう。

「おはようございます。ぶじおきたようでなによりです。さて、おなかはへっていますか? これはあなたがおきるほんのすこしまえにつくったりょうりです。からだにあぶないものはなにもはいっていません。あんしんしてたべてください。」

 私はメモ紙から料理へと視線を向ける。パンが焼けた香りとそれに塗られたバターの香りが入り混じり、私は思わず唾を飲み込んだ。つられてお腹が小さく唸る。……どうしよう。そう思えども視線はさっきから料理に釘付けとなっていた。何故そうもその料理に目移りするのかは分からないけど。

 観念して、私はトーストへと手を伸ばし食べた。味わうという事はせず、もくもくと食べては飲み込んでまた食べてを繰り返した。がむしゃらだった。それぞれの皿がからっぽになって、やっと私はほんの少し落ち着いた。そこで私は二枚目のメモ紙に目を通す。

「ごはんをたべたあとでだいじょうぶです。つくえのうえにでんわがあります。そのでんわをつかって、つぎのでんわばんごうにでんわをかけてください。」

 メモ紙から顔を上げると、電話の子機が料理に混じって置かれていた。私は子機を手元に引き寄せて、メモ紙の先を読んだ。

「でんわばんごうにかけたあいてがじぶんのことをナバリですが、といったらあなたはあいてにこういってください。

 ゆうかいされた、と。

 それからここにかいてあるしつもんをでんわのひとがしてきたら、かかれてあるとおりにこたえてください。もしここにかかれていないことをしつもんされたときは、ぜったいにこたえてはいけません。」

 そう書かれたメモ紙の下には三つの質問とそれに対する答えが書かれてあった。胸がどきどきと音を立てている。私は子機を手に取り、メモ紙に書かれた電話番号を入力し最後に通知ボタンを押した。

 プルルル……。独特な音が鳴り響く中、私はメモ紙に書かれていた言葉を頭の中でぼんやりと噛み砕いていた。

――ゆうかいされた、と。

 ……私は誘拐されたのだろうか。

 瞬間、「はい、ナバリですが」とメモ紙が指定した通りの台詞が電話口から聞こえた。一瞬遅れたせいか、電話口に出た主は「もしもし」と不審そうな声で相手を探している。

「もしもし」

 ひとまず、電話口の主の呼びかけに応じる。と相手は「シズカちゃん?」と探るような声で尋ねた。相手の人が呼ぶシズカが私なのかは分からないが、私はメモ紙に書かれている言葉を吐いた。

「ゆうかいされた」

 台詞は想像していた以上にはっきりと言えた。

「シズカちゃん、今どこに居るの?」

 普通慌てても良さそうなはずなのに、電話口の主はきわめて冷静にそんな言葉を返した。私はその対応に面食らいつつその質問が答えても良い質問かを調べる為に、メモ紙へ視線を落とした。

 「どこにいるのかときかれたら、○○アパート、三〇二ごうしつとこたえてください」とメモ紙に書かれてある。私はそれを復唱し、相手に伝えた。と相手は「今から行くから、そこに居てね」と言い、先に電話を切ってしまった。相手にならって私も通話を切り、最後となったメモを読んだ。

「よくできました。あなたがやらなくてはいけないことはこれでおしまいです。さいごにあなたにしゅくだいをだしておきましょう。」

 メモ紙の最後を綴る言葉は、 

「フーダニット、ハウダニット、ホワイダニット――誰が犯人なのか、どのように犯罪を成し遂げたのか、何故犯行に至ったのか。このなぞをといてください。そしてさようなら、静」

 胸の内に何とも言い難い苦味が広がって行く。これはきっと、絶望だ。

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