ママ
しゃもじに似た頭を持つ木々が庭を陣取っていた。
モッコクという木で、その木の青い葉に混じって咲いた黄白色の花は蜂蜜のように甘くねっとりとした香りを風に乗せて運ぶ。まるで自分の存在がここにあるのだといわんばかりに。
夏の日差しは容赦がなく、枝の先々に芽吹いた葉や小さな花の隙をあっさりと通り抜けその先の縁側を満遍なく照らしていた。されど光の強さは木々に阻まれるらしく、あまり暑いとは感じなかった。
私はモッコクがその光に包まれ、陰影を作る様子を魂が抜けたかのようにぼうっと眺めていた。だがいくら私がぼうっとしても時が浪費される気配はない。ただ私の気ばかりが滅入って行き、疲れを覚える。ふうと溜息を漏らし、気付けばあの言葉を呟いていた。
「……フーダニット、ハウダニット、ホワイダニット」
よたよたと覚束ない調子で言葉を紡ぐ。ぱちりと瞬きをした時だった。「それなあに」と声がかかり、首を右側に曲げる。くりくりとよく動く黒目がちの瞳とあっちこっちに跳ねた髪の毛。どこか猫を想起させる男の子が私が座っている場所から大分離れた所に立っていた。
彼は私の弟だ。似ている箇所を探すのが難しいけど、弟だ。お父さんが言うのだから間違いない。弟は一人頷く私を本物の猫さながらにじっと息を殺して見やる。瞬きもせず、ただじっと揺るぎもせずに対象物を見る。それがあまりにも真っ直ぐな視線だったから、私はその視線にいとも容易く捕まってしまった。
私は軽く唇を噛み締めながら、苦々しい表情で答える。
「……はんにんのひとがうたってた」
緊張しているせいか、声は上ずってひどくかすれていた。私が声の事に気を取られている間に、弟は何が気に食わないのかむすっとした表情を作る。だんだん弟が持つ雰囲気が鬱々とし、変にぴりぴりとした空気を周囲に撒き散らし始める。
弟の視線は今は縁側の木目に向けられている。いま弟に何をしているのと問えば、しょうがないから木目を見ているんだとそんな返答が戻ってきそうだった。そして本当にそう返って来ると思えたから、私は弟のご機嫌を今よりも斜めにする言葉を選ばずに済んだ。
「すわらなくてもだいじょうぶ?」
その場にじっと立ち尽くしていた弟に私はそう声を掛け、空いている場所に手を向けた。私のそれに対して弟は何も言わず、私から遠く距離を置いているその場所に腰を下ろした。弟は両膝を抱え膝の上に自分の顎を乗せて、起き上がりこぼしみたいに体を前後に揺らして遊んでいる。あのぴりぴりとした空気はすっかり姿を消して、私は心の中でほっと一息をついた。一人遊びを楽しんでいる弟へ眼を向けると、弟の背中がくの字に曲がっている事に気付いた。見事に背骨の辺りが突出しているものだから、弟が物を拾おうとした時なんかに背骨からぱきんと折れないかと気が気でなかった。
お父さんに言った方が良いかなとひそかに悩んでいたところへ、弟の方から思わぬ波紋が打ち寄せてきた。
「しずかおねえちゃんのママ、どこにいったのかな」
湖面を微風がやんわりと優しく撫でて行くような、そんな感覚。
「ママ……? ママはびょうきでしんじゃったんだって、おとうさんがいってたよ」
弟は再びその顔にむすりとした表情を浮かべ、強く反論する。
「ちがうよ。だってしずかおねえちゃんのママは、」
遠目がちにも、はっきりと分かるほどに弟の黒い眼が大きく揺れた。ひたすらに不味いという表情で、言葉を言いよどませている弟の眼は黒の部分が多い。
静かに半ば頑なに、物事と向き合わせてくれるその眼が私は好きだった。でなければ、私は絶対に後ろを振り返りたがらなかったから。
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